殺人代行 Ⅲ
「人が殺されていい理由がないのは、つまり、殺人を犯してもいいということじゃないんだよ」
時計の針が大小共に天を指した。
暗闇が視界を覆う中、僕はとある教室に侵入した。
侵入と言っても窓からではない、出入り口として設けられている引き扉からである。
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「まさか、この部屋が開いていたとはね」
私立宮ノ橋学院高等学校、二年四組。
メモに記した通り、僕は時刻を厳守して部屋に這入った。
「あははっ、誰も密室だなんて言ってないよーだ」
「密室を形成したのは僕だったってことか」
暗がり表情は読み取れないが、どうやら今の彼女は普段の彼女のようだった。
彼女。
彼女――言う前でもない、籠目 紫である。
「君にとって、この密室のような現場を構築することは別段難しくなかったんだろう。曲りなりにも優等生と評判が高かったようじゃないか。それに、教員が協力したことにも頷ける――なぁ、『神宮司』」
「『神宮司』の神格化は老若男女問わず、だからね。ほら、籠目ちゃんって見ての通り美形ですし、手駒に取るのは簡単ですし。そんな顔してるでしょ?」
「で、協力してくれた教員――籠目ちゃんがこの教室で森巻 友香を殺害するにあたって鍵を持ち出したことを黙秘してくれた教員を殺したのは、籠目ちゃん、君だろ?」
僕が病室で意識を失って眠っている間に二つの殺人事件が起きた。
一つは民家で家族四人が殺害され、一つは駅構内の隅で二人が刺殺された。
二年四組担任である大倉 雅俊と英語教師である楽代 絵美――彼らが殺されたのはある意味当然と言えるかもしれない。
「『人が殺されていい理由はない』か。ううん、違う違う、そうじゃないんだよ。『そう』じゃなくて、『人はいつか死ぬ理由がそこにある』と籠目ちゃんは思うわけです」
「……相変わらず、狂ってるよ」
「えっへっへ」
つまり、この教室で殺害された被害者を発見した警備員の証言が間違っていたというわけでなく、籠目ちゃんは協力者を得て、あたかも密室を構築したかのように見せたのだ。
警備員がそれを発見するまでには既に事を終え、職員室に残っていた二名の協力者のもとに鍵を返還したのだろう。
その上で、彼らが事情聴取でそのことを否定すれば、自然とわけのわからない得体の知れない、およそ犯行不可能に等しい現場が完成するわけだ。
『神宮司』の協力者。
それについては、会社ビル内で起きた事件で推理していた線である。
八千代が言ったように、『神宮司』の神格化は計り知れないもので崇拝する者の数は少なくない、という噂話のような、それこそ都市伝説のような冗談にもほどがあるそれは正鵠を射ていた。
現に、協力者は存在した。
『神宮司』に憧憬を抱き、敬い、崇め奉る者が事件をより混沌とさせた。
殺人の片棒を担ぐことになったとしても、彼らは協力を惜しまなかったのだ――例え、自分が殺されることになったとしても。
一体全体どうして、その謎が明瞭になったのか。
これに関しては、僕が思い当たるまでもなく八千代は既に気付いていたようで、民家内殺人事件と駅構内通り魔殺人事件の犠牲者の身辺調査の結果、判明したことだった。
そして間違いなく、警察機関もその関連性は既知だろう。
中には殺された教員の彼らが協力者だったのではないかと疑いを持っている者もいるかもしれない。
しかし、彼らがそうであるという証拠はないので確証を得ない推測になってしまうけれど、僕はその情報を明かされた際、何とも妙な気分になったものだ。
点と点が線で繋がったことに納得と安心を覚えた。
そして、それが意味していることを考えるとセンチメンタルにもなってしまった。
歯痒くて、腑に落ちないような気分だった。
「でもさー、レディを誘うのにあんな陳腐なメモ一つで済まそうってのは納得いかないなー。ぷんぷんだよ、ぷんぷん。そんな顔してるでしょ?あはは、見えないか。まっ、いずれにしても、キミからのお誘いを断るわけにもいかないし、何より手間が省けちゃったしね。いつ殺そうかと思ってたんだよ」
そんな風に、悪びれもなく穏やかな口調で言う籠目ちゃん。
あの時に僕を襲った際に発した声音とは思えない。
しかし、殺意を内に秘めたような、おぞましく黒い物体を抱えたような雰囲気ではあった。
まるでそれは本性を隠す獣のような、爪を隠す鷹のようにも思えた。
剣呑な発言を前に、我ながら不思議と冷静である。
と言うのも、僕はどこか籠目ちゃんと日常会話をしている感覚だった。
殺人犯を前にして、殺人鬼を前にしても尚、そんな悠長な気分なのだから僕も人のことは言えない。
狂っている――僕も相当ねじれている。
彼女とは違うベクトルで歪んでいる。
「籠目ちゃん、どうしてわざわざ自分の学生証を被害者のポケットに仕込んだんだ?」
その問いに籠目ちゃんは少し間を空けた。
うーん、と唸ってから。
「だって、キミにヒントを与えるとか勢い余って言っちゃったし。友香ちゃんの頭は見つかっちゃったみたいだけど、別にそれだけで逮捕されるわけじゃないしねー。その関連性を証拠としてあげるか、籠目ちゃんから自供を取るかしないと、どっちにしても罪には問われないよ」
「学生証を忍ばせるくらい籠目ちゃんにとってはどうでもいいってこと?」
「あーうん、そういうことかな」
ここで僕は、罪に問われないから殺人を犯してもいいのか、という議論を持ち出すことはしなかった。
殺人鬼相手に論議をするなど、僕も馬鹿ではない。
自分の存在を証明するための言葉を誰しもが持っているというわけではないだろうが、少なくとも、籠目ちゃんの場合は違う――彼女は自分がそうであるという証明を自分なりの言語で紡ぐことができるに違いない。
自分の価値観と思想を他人に押し付けることほどおこがましく思い上がりも甚だしいことはないだろう。
「もう一つ、質問いいか?」
「どうぞどうぞ、どうせ死人は喋らないし、何だったらスリーサイズでも教えてあげる」
僕は一つ、二つ溜息を吐いて、肩を竦ませながら。
「六月十二日の会社ビル内殺害事件、それに関与したのも籠目ちゃんだね?」
「そゆこと。あーでも、誤解しないでね。別に殺したりとかしてないから」
「……殺してない?」
いや、待て待て。
何を言っているんだ、この子は。
あれは誰がどう見ても、間違いなく、紛れもない他殺であることは明瞭だ。
今更、籠目ちゃんが殺人容疑を否定するとは思えないし。
「だって、籠目ちゃんが侵入したときにはすでに死んでたんだよ、死んでましたのですよ。えっとー……、確か二人死んだんだっけ。首を吊って死んでた女の人は、籠目ちゃんが彩りを添えてあげましたけど」
「すでに死んでいた……?」
僕は動揺しつつ、彼女の言葉を反復した。
それは自分の理解力に発破をかけるためでもあったが、それでも到底及ぶわけがなく、わけのわからない推測が脳内をぐるぐると駆け巡った。
「だーかーらー、キミが他殺だって思った理由って、六階だかで死んだ女を見たからじゃないの?籠目ちゃんは一階で死んでたらしい男のことなんて、何も知らないんだって」
そうだ。
確かにそうだ。
鳴尾 伊吹の死体を見て、明らかに他殺だと確信した。
両手足が捩れ、吊るされた首の先には胴体がなく、それはまるで精巧なフィギュアのように無造作に倒れていた。
そう――そんな死体が他殺でないはずがないのだ。
なのに、籠目ちゃんはそれをいとも簡単に否定する。
否定してしまう。
今までの推理や考察を全て無駄にする言葉を平然と吐いてみせる。
「事情聴取で少し聞いたけどさ、確か六階の窓以外からは侵入できなかったんでしょ?加え、キミの話だと六階から侵入したとしても一階に行けないらしいじゃない」
そう、六階の資料室には退出履歴が残っていなかった。
鳴尾 伊吹の社員証が使われたのは入室した際であって、それには使用されていない。
むしろ、彼女の社員証は死体現場であるそこに残されたままだったのだから、誰も資料室から退室できないのである。
「籠目ちゃんが発見した鳴尾 息吹の死体は、どんなだった……?」
そうか、そういうことか。
林檎ちゃんがどうしてあんな解答をしたのか、納得がいく。
八千代がどうしてあんな意味深な言葉を発したのか、納得がいく。
そう、それは――
「首を吊って死んでいた彼女を見つけた籠目ちゃんは、それの首を切り落として、両手足を捻ったんじゃないのか?」
「きひひっ……」
籠目ちゃんはその言葉に不快な笑みを零して頷いた。
つまり。
あの事件においては誰も殺されていない――籠目ちゃんの言う通りなのだとすれば、恐らく、先に入社した警備員の円賀 井伊春を殺害した鳴尾 伊吹は六階の資料室に向かい、首を吊って自殺したということなのだろう。
そうすれば、状況の辻褄は合う。
不明だった点にも納得がいく。
そして、そこに現れた籠目ちゃんが自殺死体を他殺に見せかけた。
他殺に見せた自殺死体が構築した密室的現場。
その謎はそういうことだったのだろう。
そして、円賀 井伊春の死体のもとに添えられた花束と書置きは他の誰でもない鳴尾 伊吹がやった行為だ。
いや、待て……。
そもそも、どうしてそんなことをする必要があった?
どうして鳴尾 伊吹はあたかも『神宮司』の犯行だと疑えるようなものをわざわざ残した?
そのせいで、八千代はともかく僕は『神宮司』の犯行に違いないと断言した――でも、そこに籠目ちゃんは関与していない、少なくとも事件の発端として関与していないのに、そんなことをする必要がどこにあった?
協力者――か。
『神宮司』を崇拝する者が籠目ちゃんに協力したとしても、果たして、自ら命を絶つほどそれは魅力的な力を有しているのだろうか。
魅惑的な響きを有しているのだろうか。
「何がどうなったかなんて、具体的な話は知らないんだよねー。その事件に関しては、籠目ちゃんは本当に無知だもん。事情聴取で事件の内容は多少知らされたけど、まさか籠目ちゃんの面白半分の行動がこんなにも混乱させるとは思わなかったんだよ、本当のところはさ」
「なら、あの書置きは?真っ白の花束は?」
「なにそれ、知らない!あははっ、まるで『神宮司』みたいなやり方だ!」
「…………だね」
鳴尾 伊吹の動機はどうあれ、不明瞭だった謎に関しては一応明るみを帯びたか。
籠目ちゃんに何かしらの関与があると疑っていたが、まさか彼女の死体が自殺だったなんて思ってもいなかった。
どうりで、八千代や雪間さんがわからないはずだ。
異質だと、異端だと、異才だと蔑称される八千代だが、何も検死の専門家ではない――それを言えば、警察機関が有するプロフェッショナルの目すらも騙せたのだから、八千代がわからなくても当然だろう。
恐らく、自殺した時刻とそれを解体した時刻はほとんど同じだったのだろう。
あんなに凄惨な死体なら、死因が外傷性ショック死だと勘違いしてもおかしくはないかもしれない。
例え絞死だったとしても、その首は抉られているのだから判然としないのも頷けよう。
「僕が死ぬまで終わりませんってのは、どういう意味だったんだ?」
「そのままの意味だよ。偶然にも六月八日に生還してしまったキミに対する、せめてもの情けとでも言えるかな。ううん、情けっていうより感心に近いか。だから、そのせっかく取り留めた命をほんの少しでも長く継続させてあげようっていう優しさだね」
「へぇ……籠目ちゃんは優しいんだね」
「籠目ちゃんは優しいですよ。優しいからこそ命の奪い方も優しいのです」
その言葉は、抵抗したことすら感じさせなかった森巻 友香の死体を彷彿とさせた。
首以外に外傷はなく、学生服に一つの乱れすらなかった死体――自らの死を、運命という形で甘受したかのような姿だった。
「さて、お話はこれで終わりです」
さて、殺しますか――と籠目ちゃんは重い腰を上げた。
一歩、一歩、また一歩とにじり寄る。
黒く渦巻いた気迫の中に、僕はなぜか籠目ちゃんの涙を見たような気がした。