殺人代行 Ⅰ
目が覚めて、一番に視界に飛び込んできたのは見覚えのある天井である。
通い慣れた病院の天井である。
「……………………」
あぁ、またか……。
またこの天井か……。
そんな風に嘆息して溜息を吐いたところで、僕は左側に人の気配を感じた。
体をゆっくりと起こして確認すれば、そこには八千代が腕を組みながら首を垂らして、こくりこくりと揺れていたのだった。
静かに寝息を立てながら――どうやら、眠っているらしかった。
珍しく黒縁メガネをかけ、長い黒髪を後ろで結い、露になった寝顔は自然と見入ってしまうほどの光景である。
ナチュラルメイクの中に際立つ整った顔立ち、そして、驚くほどに長い睫毛。
微塵の荒れすらも見えない滑らかな肌に潤った唇。
そんな風に細かく八千代の容姿を描写するまでもない、語るまでもない――それすらも面倒になるほど、僕は彼女の寝顔に見蕩れていた。
しかし。
しかし、である。
ついつい見蕩れてしまうほどの容姿だというのに、それら全てを台無しにするが如く、八千代は微かに開いた口から艶やかな一筋の液体を流していたのだった。
言わずもがな、涎である。
まぁしかし、それはそれで僕にとってはツボだし、またそれこそが八千代らしいと言えるので、僕は涎を拭き取ってあげることもなく、ましてや起こしてあげることもせず、ただただじっと愉悦の時を過ごすのであった。
「……ん、んー、うーん」
至福の一時はすぐに終わりを迎えたようで、八千代は自然と目を覚ます。
僕としてはもう少しの間、見ておきたったけれど。
「あぁ……なんだ、少年。目を覚ましたのか――おはようさん、いや、もう夜か……」
時刻は午後八時二十分である。
病室の窓からは繁華街が灯す夜景が一望できた。
「よし、よし、目が覚めた。覚醒、覚醒」
八千代は自分に言い聞かせるように同じ言葉を吐いて、ジャケットの袖で涎を雑に拭き取る。
拭われた白透明な粘着液の跡が袖に残っていたが、そんなことなどお構いなく、彼女は続ける。
いや、すごく汚いんだが……。
とは突っ込まず。
「さぁさぁ、少年。君が無様な体たらくを晒して、病室で眠っている間に事件は多少の進捗を見せたわけだが、それよりもまず、事前情報から与えておくとしようか」
「事前情報?」
「そう――あれから何日経過したと思う?」
あれから。
あれから、と言うと?
あぁ、そうか、僕は自宅の前で襲われて、ナイフを腹部に刺されて――そのまま意識を失って、ここに運ばれたのか。
六月八日に僕を襲った少女の時と同じ、災難に見舞われたということか。
そして。
八千代がそんな風に言うからには、また僕は数日間眠っていたのだろう。
およそ見当もつかないが、しかし、そんなこと当然である。
「少年が襲われてから既に四日経った。君の自宅の前で、君が腹部を刺されて、君が病院に運ばれてから四日だよ、四日。幸い、手術はせずに済んだみたいだけれど。それでも思ったよりも目を覚ますのが遅かったな」
「……四日」
四日間も眠っていたのか……。
あの夜、『神宮司』に襲われてから――四日。
つまり、今日は六月十八日か。
……ん?
『神宮司』?
神宮司 蓮二?
「――そうだ、神宮司!神宮司はどうなった!?」
「…………」
八千代は僕の言葉に沈黙した。
あえて沈黙したように思えたが、しかし、どうやら言葉を選んでいるようで慎重な様子だった。
それは恐らく、まだ整理がつかない僕の頭を考えてのことなのだろう。
「神宮司は、まだ捕まっていない」
「捕まってない!?いや、だって神宮司は、神宮司は、神宮司 蓮二は――」
籠目ちゃんだったのだ。
籠目 紫だったのだ。
『神宮司』に憧憬を抱き、心酔し、まるで神を崇めるように崇拝していた彼女こそが――六月十四日に教室内で殺害されたと思われた籠目ちゃんこそが、『神宮司』だったのだ。
神宮司 蓮二こそが籠目ちゃんであり、そして、僕を襲った少年と思っていた彼こそが――いや、彼女こそが籠目ちゃんだったのだ。
正体はわかった。
これまでずっと曖昧になっていた靄がようやく晴れた。
なのに、まだ捕まっていない?
「落ち着け、少年。混乱するのはわかるが、冷静になれ。捕まっていないと言っただけで、何も特定できていないというわけではないのだ」
「……あぁ、ごめん」
「目を覚ましたばかりの体に鞭を打つようで悪いが、一つ一つ整理してみよう。君が眠っていたこの四日間で何が起こったのかを――そして、何が判明したのかを」
八千代は事後報告をするように、平淡な口調で滔々と語る。
無感情かのように、無表情に語った。
「先ず、六月十四日の教室内殺人事件。君と麻由紀に任せたあの事件のことだが――当初の情報では被害者は籠目 紫だとされていたけれど、しかし、違った。これはその日の内に検死した結果、判明したことなのだが、被害者は森巻 友香という人物だった」
やはり。
やはりそうだったのだ。
それに、僕はその被害者の頭部を持った籠目ちゃんを目の当たりにしたのだ。
黒と赤のパーカーを羽織った籠目ちゃんが掴んでいた彼女の頭部を視認している。
「そもそも、どうしてその死体が籠目 紫と判断されていたのか――言うまでもないか。その死体が籠目 紫の学生手帳を持っていたからなのだが、それは工作だったということになるな」
それは知らない情報だったけれど、僕と雪間さんが到着するまでに既に警察機関が介入していたので、恐らく彼らがそう判断したのだろう。
まぁ結局、検死により違うと判明したのか。
「被害者のポケットにどうしてか籠目 紫の学生手帳が残されていたこと、教室内がおよそ密室空間であることから彼女が事件に関与していると思うのは至極当然なことだろう。そして、六月十五日に籠目 紫が一人で暮らすアパートから被害者の頭部が発見された」
「…………っ!?」
「本来なら任意捜査のはずだが、こうも殺人が連続しているからね。疑わしいやつは片っ端から強制捜査だよ。まぁ、事件後初めてとなる容疑者だったからそれは当然かもしれないな。それまで容疑者すら見えてこなかったんだから」
僕はそれで、と促す。
任意捜査だとか強制捜査だとか、令状とか、そんなことなどどうでもいいのだ。
そんな情報など、些細なもので後から何とでも言える。
それよりも。
そんなことよりも。
「先ほどに言った通り、籠目 紫を追っているが消息は絶っている。どこかに身を潜めているはずだろうが、特定には至っていない」
「そっか……」
「籠目 紫が『神宮司』なのかはともかく、六月十二日の会社ビル内殺人事件において、第一発見者が彼女であることから、恐らく――と言うか、間違いなくそれにも関与しているだろうさ。まぁ、それについての証拠はないんだけどね」
そして。
と、八千代は続けた。
「六月十六日に発生した殺人事件がある。ある民家で家族が殺害された。その犠牲者は四名――大倉 雅俊、里香子、英知、沙奈の四名だ」
「……家族全員が殺害されたのか」
八千代はそれに相槌を打ち、さらに続ける。
間髪入れずに続ける。
「さらに、六月十七日――通り魔殺人事件。犠牲者は二名、楽代 絵美と喜多川 徹」
どれも凄惨な現場だったよ、と八千代は肩を竦めたが、呆れた様子は感じられなかった。
むしろ、よくここまで人が死ねると感心しているようだった。
それもそうだろう。
八千代の言う通りなのだとすれば、これで犠牲者は合計十四人だ。
六月十一日から十八日まで、およそ八日という短期間で十四人も殺されてしまっているのだ――八千代が感心してしまう理由もわかる。
最早これは、ここまでくれば単なる殺人事件ではない。
いや、そんなことは前々から思っていたことではあるけれど、こうして数字を明らかにしてみるとその異常性が疑うまでもなく本物であることが理解できよう。
連続殺人事件の異常性がどれほどの異常性を持つのか、異常な連続殺人事件がどれだけ非日常で異常なのか、簡単に理解できよう。
他に類を見ない殺人事件だ。
類稀な連続殺人事件だ。
これまでに世界を恐怖に陥れた殺人鬼や心理異常者と並ぶ、いや或いは、それよりも突出しているかもしれない。
果たして、八日の間に十四人も殺害した犯人をただの殺人鬼と呼べようか。
それらと同じ心理異常者と、殺人鬼と同列に並べることができようか。
都市伝説染みた殺人鬼『神宮司』。
彼らが持つ殺人衝動は、もはや感情に駆られたものではなく、まるで娯楽のようではないだろうか。
そして、抜け目の無い犯行はまるで芸術性を表すようではないだろうか。
完全犯罪と言うのはやぶさかではあるけれど、間違いなく彼らは捜査を難航させる一手を打っている。
知能犯であり、愉快犯でもある――雪間さんはそう言っていたが、それは案外的を射ているように思えるのだ。
被害者は自分の能力を誇示するための道具でしかない、それは推理小説でも同じことで、ぞんざいな扱いを受けるのはいつだって被害者であり犠牲者なのだ。
事件を解決する糸口を見出す役割を担うのは死体ではなく、現場に謎と不可解と奇怪を残すことこそが死体の役割である――『神宮司』はまるで当然のようにそう考えている。
と言うのも、僕は聞いたのだ。
薄れ行く意識の中で、微かに聞いた記憶があるのだ。
「殺したらつまらねぇ」と――
「俺様のショーを観覧してもらう」と――
「最後に殺してやる」と――
自己顕示欲の塊だ。
示威行為の塊だ。
だからこそ、『神宮司』は単なる殺人鬼ではないように思える。
それこそ、過去に世界を震撼させた殺人鬼と同列に並べることすら恐れ多い。
彼らはそれすらも軽く超越した、それすらも遥かに突出した心理異常者だ。
籠目 紫。
籠目ちゃん。
彼女が『神宮司』である証拠は勿論ない。
まるでそう決まっているかのように断言してしまった僕だけれど、確証などどこにもないのだ。
しかし、そうであったとしても、そうでなかったとしても、籠目ちゃんが殺人を犯したということに変わりない。
本来、殺人犯と殺人鬼に違いはない――言い換えれば、籠目ちゃんが『神宮司』であるかどうかなんて、それこそ些細な違いに過ぎないのかもしれない。
しかし、僕ははっきりと認識した。
一目見て、あの時の籠目ちゃんが『神宮司』だと認識した。
それはどうしてか。
僕は知っている――人に向ける本物の殺意がどんなものなのかを。
身をもって経験した。
六月八日に僕を襲った『神宮司』と思われる彼女の殺意を身をもって体験したからこそ、籠目ちゃんから伝わる殺人欲求が尋常ではないと感じたのだ。
人が人に向ける殺意。
殺すために向ける高圧的な殺意。
淀みも濁りもない純粋な殺意。
それは一般人には到底併せ持つとは思えないほどの、狂った殺意である。
だからこそ、僕は籠目ちゃんを『神宮司』だと認識した。
『殺人鬼』だと思った。
そして、さらにそれを裏付けること――これもまた確証などないのだが、僕は思い返してみる。
声を。
籠目ちゃんの狂った殺意に任せた声を。
それは、六月十一日に目を覚ました僕を病室で襲った《少年のような》声の主とおよそ同じではなかっただろうか。
自らのことを『死神』と名乗ったのはこれで二人目である。
と言うのも、それと同日だったか、公園に呼び出された後、雪間さんに一蹴された彼女もまた『死神』と自称していた。
その彼女と籠目ちゃんの声が一致しているかと言えばそうではない。
そして、その彼女と六月十一日日に病室で僕を襲った《少年》の声が一致するかと言えば、それもまたそうではないと言い切れないものの、判断に難しいことだった。
つまり、六月十一日の《少年》が《彼女》だったのか、それとも《籠目》ちゃんだったのかは判断し難いのだ。
まぁ、それも遅かれ早かれわかることなのかもしれない。
籠目ちゃんが見つかれば、それはいずれ――
「傷はどうだい、少年」
「ん、あぁ……痛みはないよ。もしかして、また林檎ちゃんが何かしたんじゃないかって疑っているんだけど」
「いや、それはないみたいだ。そもそも、大した傷じゃなかったからね。内臓まで刃は達してない。さすがに縫合はしたようだが――それを言うと、その程度で四日間も眠っていたことになるがね」
きっと疲れもあっただろうさ、と八千代。
未だ解決しそうにない六月八日の殺人未遂を皮切りに十四人もの犠牲者が出てしまった。
あぁ、そうか……と、僕はそこで気付く。
籠目ちゃんも八千代も、僕をきっかけに殺人事件が起こったと言っていたけど、それはそういう意味だったのか。
僕が巻き込まれた殺人未遂事件のせいでそうなってしまったと考えると、何やら重大な責任を転嫁されている気分になってしまうが、穿った見方をすればそう捉えられなくもないのは事実かもしれない。
いや、さすがに連続殺人事件が僕のせいで起こったなどと、本気で八千代も思っていないだろう。
そうなると、籠目ちゃんもまた同じように僕がきっかけだと言ったのは、どういう意図があったのだろうか。
……ん?
いや、ちょっと待てよ。
落ち着いて考えてみろ。
籠目ちゃんは言った、「最後に殺してやる」と。
恐らく、籠目ちゃんが残した――『あなたが死ぬまで連続殺人事件は終わりません』。
それはつまり……?
「君は一番の被害者であり、一番の被疑者でもあるよ――」
と、八千代は僕に冷笑を向けた。




