09.魔物が追ってくるのです
森の中を、二人の騎士が走る。
下草に鎧にひっかかる。枝が顔に傷をつける。しかし、かまわない。
息が切れるまで、いやたとえ息が切れても死ぬまで、彼女達を助けるまでは、絶対にあきらめるものか。
若い騎士、キリノの記憶の中には、酒場ではたらく娘の姿が再生されている。
小柄な身体。明るい笑顔。コマネズミのようにはたらく姿。からんできた酔っ払いをぶちのめす姿。スカート翻しての、鮮やかな蹴り。白くて細い脚。
そして、ついさっきの姿。村の女の子とじゃれあって、スカートをめくられた姿。目に焼き付いて離れない。
頼む。無事でいてくれよ。
藪を抜けると、目の前がひらける。さきほど子ども達と出会った広場だ。
しかし、……そこに人間はいない。
かわりにあるのは、大きな生物が歩き回った下草の跡。大量の血痕。ほおり投げられたキノコと山菜の籠。何があったかは、明らかだ。
くそっ
一瞬、最悪の予想が頭をよぎる。意識が絶望の淵に沈みかける。その場にしゃがみ込む寸前、冷静に下草の様子を調べていた同僚の女騎士ノナトが叫んだ。
「こちらです。たぶんこの方向に逃げています。まだブタ共には捕まっていないかもしれません」
それを聞いて、瞬間的に身体が反応する。
「いくぞ!」
二人の騎士は、ふたたび森の中を全速力でかける。
はぁ、はぁ、はぁ
森の中、両手にユージ君とノースちゃんを引っ張りながら、私は必死に走ります。
「ケイおねえちゃん、もうだめ、はしれない」
「頑張って、ノースちゃん」
下草が生い茂り、巨木の迷路がどこまでもつづくこの森の中を走るのは、たしかにお子様の足ではたいへんなことでしょう。でも、命がかかっています。ユージ君もノースちゃんも、息を切らしながら、木の根に躓きながら、そして涙と鼻水を盛大に垂らしながら、それでも必死についてきてくれます。ついてきてくれなければ、確実に死にます。
後ろから追ってくるのは、三頭の巨大なブタ人間です。
見るからに下品で頭が悪そうで、そして凶暴そうな醜い顔。全身がぶよぶよのたるんだ脂肪に覆われた巨体。身長は二メートルを超えています。
そんなブタどもが、巨大な剣を振り回し、低木を力ずくでなぎ倒しながら、追いかけてくるのです。
誰かに傷つけられたばかりなのでしょうか。ほんの数メートル後ろを追いかけてくる先頭のブタ野郎は、ただでさえ醜い顔が出血により壮絶な形相になっています。腕が一本ない奴もいます。手負いの野獣は恐ろしいと言いますが、傷だらけの血だらけで怒り狂った巨体が、ぶひぶひ耳障りな叫びをあげながら迫ってくるのです。私やユージ君はともかく、ノースちゃんは恐怖のあまり正気を失なってもおかしくありません。
それは、そろそろ西の空が夕焼けに染まろうという頃。キノコや山菜で籠がいっぱいになり、家に帰ろうかと話していた頃の事でした。
私たちが休んでいた森の広場に、突然巨大な肉の塊が乱入してきたのです。
「ま、魔物?」
ノースちゃんが、口をぱくぱくさせながら指をさす先にいたものは……。
たしかに、あれは自然の生き物ではありません。この世界の先住生物たちが『先史文明人』と呼ぶ人々が千年前に人工的につくり出した生き物を『魔物』と定義するのなら、あれはまごう事なき『魔物』です。
私は、そしてユージ君は、あのブタ面を、正確に言うとあのブタ面の先祖をよーく知っています。その特徴から能力、性格、そしてDNAに刻まれた遺伝情報のすべてを正確に。
でも、知っているからといって、その脅威が減るわけではありません。いえ、知っているからこそ、私は咄嗟にふたりの手をとり、全速力で逃げ出したのです。彼らの馬鹿力、そして残虐な性格を知っているから。
やつらは、ブタによく似た先住生物を元に作り出された魔物です。しかし、あまりにも知能が低すぎて、奴隷としての忠誠心を植え付ける前に放棄された実験体です。
知能が低い上、怪力以外の特殊能力はありません。戦闘用の武器をつかえばどうってことない相手です。しかし、素手の民間人や民生用アンドロイドでは絶対に勝てない相手です。ええ、私もふくめて、絶対にです。
ブタ共が私たちをみつけた時の、嬉しそうな顔。よだれを垂らし、醜い顔を歪ませて、なめるような視線を私たちなげかける化け物。あれは、獲物をみつけた顔でしょう。奴らにとって私たちは、獲物? たべもの? それとも、欲望のままにいたぶる相手?
なんにしても、やばい相手です。だいたいファンタジー世界のブタ、というかオークとかコボルトといえば、人間の女性に対して想像するのもおぞましい行為をするものと決まっているのです。
だから、私は逃げるのです。私ひとりなら逃げることは簡単です。でも、ユージ君を置いていくわけにはいきません。そのユージ君は、ノースちゃんを置いていくことを許してくれるはずがありません。だから私は、ふたりを引きずりながら、必死に逃げるのです。
疲労と恐怖で何度も倒れそうになるノースちゃん。そのたびに、その手を無理矢理ひっぱりおこします。
ユージ君もそろそろ限界です。ただでさえのお子様ボディ。そのうえ、彼の肉体はもともとこの世界に対応していません。先住生物にくらべて、体力不足は否めないのです。
「がんばれ、ノース、あんなのに捕まったら、なにをされるかわからない」
それでも、ユージ君は歯を食いしばってはしります。そして、ノースちゃんを励まします。
「で、でも、もう、足が、ユージ、息がきれて、もうだめ」
「どこか逃げ込めるところは?」
いま私たちが向かっているのは、山の奥の方向です。とっさの判断だったとはいえ、村の方向に逃げられなかったのは、痛恨のミスです。
私たちは、わずかに踏み固められた獣道を、草や小木をかき分けて走ります。
バリバリ、グシャグシャ。
後ろから、小木を倒しながら突進してくる嫌な音がきこえます。
まさか、さっきより近づいている? このままじゃ……。
藪をひとつ抜けると、目の前が開けました。
くっ!
足元は、……崖です。急停止した足元の下、十メートルほど下に川の激流が見えます。もし落ちたら、お子様ふたりは無事では済みません。
そして、視線をあげると、向こう岸までの距離はやはり約十メートル。飛び越えるのは不可能です。
絶体絶命です。あわてて振り向くと、大きな影が確実に迫ってきています。
「右よ、お姉ちゃん。あちらに『遺跡』に向かう小さな吊り橋があるはず」
たしかに。ノースちゃんが指さす方向に、蔓であんだ細長い吊り橋が見えます。
すかさず、ふたりの手をひっぱって橋に向かいます。不安定にゆれる足元を、下を見ないように渡ります。後ろから、ブタが一頭、無理矢理ついてきています。その重さで、蔓が盛大にたわみます。今にも切れそうです。
必死の思いで渡りきった先は、あまり広くない一本道の末端でした。片方は谷。もう片方は切り立った崖。急な崖の斜面に作られた、僅かに水平な細い道。
「ケイ、橋を落とせ!」
ユージ君の指示に従い、私は山菜採りにつかう包丁を手にとりました。そして、橋の根元の蔓を切断します。
ぎゃーーーー、ぶひぶひ。
ちょうど橋の真ん中付近まできていたブタが、蔓ごと谷底に落下していきまました。
ものすごい水音と地響き、そして下品な悲鳴が山中に響き渡ります。
橋の向こうに取り残された二頭のブタが、こちらを睨みながらなにやらブヒブヒさけんでいますが、私たち三人はかまわずその場にへたり込んでしまいました。
「も、もう大丈夫?」
こわばった顔のまま、ノースちゃんが顔をあげます。
「ケイお姉ちゃんとユージのおかげよ。……ありがとう」
顔中に枝にひっかかった傷。涙、鼻水、紫色の唇。全身小刻みに震えながら、それでも必死に私に向けて微笑みます。
私はおもわず、ノースちゃんを抱きしめました。こんなときは、ユージ君よりも女の子のケアを優先すべきでしょう。
「大丈夫。大丈夫よ。よく頑張ったね」
しかし、危機はおわっていなかったのです。
私たちの足元、夕焼けにそまった地面に、おおきな影が落ちています。
私は、おそるおそる振り向き、そして見上げます。たった今まで笑っていたノースちゃんの顔が、絶望にそまります。
視線の先に居たのは、ブタ。崖のこちら側にも、三頭のブタが待ち構えていたのです。
2014.04.06 初出
2014.04.06 人名を間違えていた部分を修正しました