10.戦闘用でなくても戦うのです
私の目の前には、三頭の巨大なブタ面野郎がいます。
後ろは行き止まり。右は切り立った崖。左は谷。谷にかかっていた吊り橋は、ついさきほど落としてしまいました。逃げ場はどこにもありません。
ノースちゃんは、座り込んだまま動けません。精神的に追い詰められています。恐怖に目を見開きながら、ユージ君の背中に隠れ、口をぱくぱくしているだけです。さすがのユージ君も、残りの体力はもうありません。
私には恐怖という感情はありません。ないはずです。ですが、……ユージ君を失うことを想像すると、それだけで身体が震えます。もしかすると、これが『恐怖』なのかもしれません。
私は、目の前の巨大なブタ面を睨みつけます。ブタ人間達も、私たちを睨んでいます。……いえ、ブタ共は睨んでいるのではありません。知性をまったく感じられない嫌らしい視線で、私とノースちゃんの身体をなめ回すように見ているのです。
いやらしい視線が身体中に絡みつくのを感じると、私でも寒気を感じます。おぞましい感覚に身体が震えます。やつらが何を考えているのか、想像もしたくありません。私はともかく、ノースちゃんはまだ十才だというのに。
原始的とはいえ、せっかくユージ君達が知能を与えてやったのに。それをまったく活かすことなく、千年間も惰眠をむさぼってきた末裔がこれですか?
こいつらに会話が通じるとは思えません。いったい私は何をすべきなのか。……考えるまでもありませんね。『ユージ君を守る』 それが、私の存在意義。そう、そのために、私は生まれてきたのです。
それをあらためて再認識した瞬間、身体が自然と動きました。脚が、一歩前にでました。こども二人の前に、私は立ちふさがります。仁王立ちです。
先頭のブタが、嬉しそうな顔をしています。まさか自分が負けるとは想像もしていないのでしょう。巨大なこぶしをふりかぶり、なんの工夫もなく私にむけて振り下ろします。 いきますよ、……このブタやろう!!!
いた!
崖の縁にたどり着いた二人の騎士は、彼らが助けるべき子ども達をついに発見した。
三人とも無事だ。一瞬の安堵。しかし……。
周囲の状況が認識できるにつれ、キリノの顔がふたたび険しくなる。
たしかに無事だ。だが、……状況は最悪じゃないか。
子ども達はガケの向こうにいる。そこには無傷のブタが三頭もいる。子ども達に逃げ場は無い。そして、俺たちは助けにいけない。
「他の橋は?」
オヤーチ近郊に詳しいはずのノナトが一瞬の躊躇、そして悲痛な顔で答える。
「な、ないわ。五キロほど川上にさかのぼって沢を渡るか、このガケを下って昇るか」
「それじゃ、まにあわない!!」
くそ。どうする。
「あっ」
ノナトが声あげる。崖の向こう、ケイが一歩前にでたのだ。子ども達を庇うつもりなのか。
「だめだ。やめろ、自殺行為だ」
キリノは叫ぶ。ケイが強いのは村人なら皆知っている。しかし、それはくまでも素人の、しかも人間のよっぱらい相手の場合だ。腕力も体力も人間とは本質的にことなる魔物、しかも武装しているブタ人間が三頭。絶対に無理だ。
この距離ならば、俺の声はとどいているはずだ。
「やめろ、やめるんだ!」
しかし、ケイは止める気はない。
ブタが目の前の少女にむけて拳を振り上げる。そして、振り下ろす。
次の瞬間、キリノ視線から、ケイが消えた。
私が戦うしかない。
そう決断した瞬間、頭の中で思考モードが音をたてて切り替わりました。人間風にいえば、精神のスイッチがはいったような感覚といいったところでしょうか。
「ケイやめろ! おまえは軍用じゃないんだ! 逃げろ!!」
『緊急事態と認識。命令は拒否されました』
まるで他人事のように、私の口が勝手に機械的な言葉を吐き出します。
たとえユージ君の命令だとしても、それがユージ君自身の危険につながるものだと認識された場合、私の電子脳は自動的に命令を拒否します。その判定は、私の感情や思考プロセスとは無関係に行われるのです。
「大丈夫ですよ。いざという時のために、この惑星に持ち込まれたヒト型アンドロイドはすべて軍用仕様と同じ近接戦闘用コードがロードされています。私だってユージ君のために役立てるのです」
これは、私自身の感情から発した言葉です。心配性のユージ君を安心させてやらなければなりません。なんたって、私は姉なんですから。
「アホ! あんな筋肉の化け物と力比べをして、民生用のおまえの身体がもつわけないだろう。俺のことはいいから、逃げろ」
「『緊急事態と認識。命令は拒否されました』 ……たしかに私は実験助手仕様ですが、反応速度と精密動作の精度だけなら軍用仕様にも負けません。少々壊れても自動修復可能です。ひ弱でのろまな人間様は、そこでだまって見ていてくださいな」
もしユージ君にもう一度「逃げろ」と命令されたら、今度は拒否できません。強制的に受諾してしまいます。その前に、さっさとけりをつけますよ!
戦闘に関係ない恒常性維持機能および思考ルーチンを停止。すべての機能を目の前に戦闘に集中します。
冷却機能全開。周囲の空間に戦闘アシストのためのナノマシン、通称『精霊システム』を展開。
精霊達の発する淡い光の繭が、私の身体を包み込みます。周囲の空間にばらまかれたナノマシン達が量子的に情報結合し、私の脳とリンクします。私の五感と意識が、身体をこえて周囲の空間に滲み出していきます。ナノマシンが支配している空間すべてが、『私』と同化しているのです。
そして、戦闘モードに移行したことを人間に警告するため、瞳の色が紅くかわったはずです。
……さあ、いきますよ。のろまのブタども!
いま私の頭の中には、ふたつの映像がうつっています
ひとつは、実際に目で見えている現実の映像。そして、数秒後の未来の映像。
私の脳には、目の前のブタ野郎の全身の筋肉の動き、視線の移動、重心の位置、慣性、モーメント、重力加速度、そして奴らの頭の悪さ等々までの情報が瞬間的に集まります。それをもとにシミュレートされた敵の正確な未来図が、手に取るようにわかるのです。
奴は、私の横顔をあのでっかい拳で殴ろうとしています。フェイントもなにもない、単純な大ぶりのパンチ。でも、その速度と破壊力は尋常ではありません。人間には絶対回避不可能で、一撃必殺のおそろしいパンチ。
しかし、当たらなければどうということはありません。
拳を避けるためもっとも効率よい身体の動きが計算され、私の身体はそのとおりに一ミリの狂いも無く正確に動くことができます。さらに、複数の反撃パターンが選択肢として頭の中にうかび、もっとも成功率の高いものが瞬間的にひとつ選択されます。
私の頭の中でそこまで計算が終わった後になってから、ようやく本物の拳がふってきます。
私はほんの数センチ、頭を後ろに下げただけです。ほんの数ミリの間隔で、鼻先を汚い拳が通過していきます。
すさまじい速度の拳。風圧だけで身体が吹き飛びそうになるのを、腰を落としてこらえます。スカートが盛大に翻りますが、かまってはいられません。
ブタ野郎は、まさか空振りするとは思っていなかったのでしょう。勢い余って体勢を崩すと、一瞬私の姿を見失います。
計算通り。
奴がふたたび視線をこちらにもどしたとき、私は視界から消えていたはずです。必死に視線を動かして私をさがしているようですが、……遅い。遅すぎます。
すぱーん。
小気味のいい音と共に、私の右足がブタの顎を蹴り上げました。衝撃を受けたブタの顎が、瞬間的に上に向けて跳ね上がります。
私は、一瞬でブタの足元に踏み込んでいました。そして、ほとんど真下から、二メートル上のブタ面の顎に向けて右足をはねあげたのです。
そのままバック転して、私は奴の正面に着地します。
綺麗に決まりました。速度も角度も、計算通りの蹴りだったはずです。
着地の勢いでめくれ上がるスカートを抑えながら、私の視線は目の前のブタに固定されています。
相手が人間ならば、この衝撃で脳が揺さぶられ、瞬間的に前後不覚になるはずです。人間ならば、その場に崩れ落ちるはずです。そう、人間ならば。 ……倒れて、おねがい。
2014.04.07 初出