遺書
私は、憎しみがあったから死んだのではありません。怒りがあったから死んだのではありません。恨みがあったから死んだのではありません。
私が死ぬきっかけに、そんな大層なものは必要いのです。
私にとっての切欠は、沸点を迎えた液体が沸騰するような至極自然で些細なもので充分だったのです。
よし、死ぬか。という、清々しささえも覚える感覚でした。
死に大しての恐怖はなく、むしろ生き延びてしまうことへの恐怖が私を支配していました。
ですから私は、より確実に死亡できる方法を模索しました。
首吊り、焼身、飛び込み、餓死。私が下した、完璧な死に方は飛び降りでした。
落下し、頭からアスファルトに落ちるだけでは不安が残ったので、私はくびを逸らして落下し、頚椎を破壊することにしました。
私は昔から死ぬことは怖くありませんでした。むしろ、恐怖自体に恐怖を、未来自体に恐怖を抱いていました。これは、私にとっては死よりも恐ろしいことなのです。
死ぬ気でやれば、という言葉があります。私はそうは思いません。私にとっての死は、むしろ希望なのですから。
私にとっては、苦労や苦痛こそが、最も忌むべき咎なのであります。
さて、お別れの時です。恐らく私は、明日にはアスファルトに叩きつけられ、上手く行けば頭蓋を破砕して即死しているのでしょう。ちっぽけな数キロの脳の中の魂や意識、記憶は全て地面と混ざり、空気に溶けて死臭となるのでしょう。
私は、そのことが楽しみでたまらない。宗教的な概念を否定し、その信者に正面から反対意見を叩きつけられることが、愉快でたまらない。
人生は歩き回る影法師なのだから。