『冬木一馬は人に避けられる』
冬木一馬は、手を振り返さなかった。
ポケットに手を入れたまま、気怠く、ため息をついていた。
背の高さは男子として平均的で、体格もまた、痩せても太ってもいない。背後から見たならば、他の新入生と似たようなものだ。しかし、目つきが違う。表情が違う。近寄ることもできない凶悪で強烈な雰囲気が、彼の周囲には渦巻いていた。
冬木のいる場所だけ、ぽっかりと穴でも空いたように、人が途絶えている。
遠くから向けられる視線と共に、ひそひそとつぶやく声。
――悪鬼。
それに対し、冬木は舌打ちする。
中学時代、県下全ての学校で恐怖された『悪鬼』という通り名。
目が合ったら血祭りにされたとか、懐にナイフどころか包丁を隠しているとか、丑三つ時に出会ったら野山にさらわれるとか、親兄弟を皆殺しにしてシチューにするとか――。
冬木は、そんな噂に事欠かない中学生だった。
すなわち、伝説の不良――そんな悪鬼が、県下一の進学校に入学。
それは、非常にくだらない笑い話だろう。しかし、彼の周囲で、笑っている者は一人もいなかった。冬木はため息をつく。噂はいつでも早い。明日には、このセンセーショナルな話題は高校中に広まり、冬木の居心地をさらに悪いものにするだろう。
思い巡らせたこれからの日々に、憂鬱は深まる。
それは当然、表情にも漏れ出るのだけど、周囲の者は、険しくなったその顔を見て、ざわめきもぴたりと止める。今にも、彼が暴れ出すのではないかと緊張感が漂った。
「カズマ」
張り詰めた雰囲気をぶち破る者がいた。
可憐な少女、春原は、悪鬼のもとに駆け寄る。
その瞬間、状況を見守る男子生徒の多くは、自分達が主人公になれないことを悟った。美しい少女と悪鬼と呼ばれる不良――危険を察知し、「待った」と叫び、その間に割って入ることができなかった彼らは、いざという時に踏み出せない人生の苦みを味わう。
もちろん、割って入った結果、得られる称号は道化であって、勇者ではない。
勇者ならば、既にそこにいる。
「なんだよ?」
気怠そうに言葉を返した冬木に対して、春原はわざとらしくため息。
「前髪が目に掛かっているから、目つきがさらに悪くなっていますよ」
「いいだろ、別に。というか、そういう小言はやめろよ。母親じゃないんだから」
「私も、あなたの母になったつもりはありません。これはむしろ、妻としての注意です」
断言するような春原の言葉は、自然と大声。
最初から周囲は静寂に満ちていたが、それはさながら、瀕死の人間をコンクリートで固めて日本海へ沈めるような、完璧なるトドメの一言だった。
冬木は、遠くに視線を向ける。
そうして、無表情のままにつぶやいた。
「あのさ」
「なに?」
「別に宣言しなくても、俺に女なんか寄って来ないよ」
「……あら、なんのことかしら?」
首を傾げた後で、しばらく沈黙。やがて、春原はくすくすと笑った。
「行きましょう」
春原はそう云って、冬木の手を取った。
彼女に手を引かれながら、箱入りの姫君だった昔懐かしい頃の思い出と邪神を巡る騒動を経て、たくましく――ちょっと、常人以上の成長を遂げてしまった今の彼女を比べ、冬木はやれやれと首を振った。
「それで、そんなことより……」
人ごみから、わずかに離れた所で、冬木は気になっていたことを切り出した。
「生徒会長……あれ、何者だ?」
「……それは、なんのことかしら?」
「さすがに、こっちは誤魔化されてやれない。頼むから、余計なことを考えるなよ」
冬木は忠告するが、春原はいつもの笑顔である。
無言のまま、数秒間――冬木は表情を変えず、云いかけた言葉を呑み込んでいた。
春原が注目を集め、大勢に囲まれている最中のことだ。ぼんやりと待っていた冬木は、人ごみの向こうに、プレッシャーを感じ取た。ただの人間を擬態しながら、隠しきれない濃密な力の気配である。異形。間違いなかった。
(どうなっているんだ、この学校)
入学式で見た生徒会長と副会長、それに自分達。
それ以外にも、この学校には何かが紛れ込んでいるようなのだ。
冬木と春原は、それぞれに思惑を抱えながら、表面上はいつも通り。
どちらも普段と変わらない無表情と笑顔で、そのまま人混みを歩いていく。




