『勇者と勇者と竜』
竜の捕食活動には、ふたつの種類がある。
ひとつは、ごく一般的な食事である。竜は雑食性であり、肉でも植物でも喰らう。頑強な胃袋をしており、生肉でも多少の毒性を含んだ植物でも消化できるが、味覚は人と同じように発達しているため、多少の調理を加えたものを好んだ。
もうひとつ、竜は気を喰らう。
そもそも、竜は異世界においても格別に巨大な生物である。数は人間に遥かに劣り、繁殖力も低いが、国家を形成する程度には存在していた。圧倒的な巨躯を誇る生物が群れるとなれば、生態系が荒れる。竜が普通の食事しかできない生物ならば、彼らの行く所、動物も植物も根こそぎ喰らい尽くされていただろう。
気は、動植物の全てに宿る。
大地や空気――世界そのものに満ちる力だ。
仙人が霞を食べて生きるなどと云うが、竜の食事もそれに似ている。普段、竜は世界に満ちた力である気を食らうことで、その巨躯を維持している。また、肉や植物を口にする時でも、無闇に荒らすことはせず、気を喰らうだけで済ます場合も多い。
他の生物は、気を喰らわれると激しい疲労に襲われる。だが、その程度だ。休息を取れば回復することなのだから、手足を食いちぎられたり、丸呑みにされて命を奪われたりするよりも遥かにましだろう。
勇者は、竜に噛みつかれた。
傍目に見ればキスされただけの状況であるが、冬木は即座に違和感に気づいた。強烈な虚脱感。両手足に鉛の重りでも付けたように、ずしりと身体が重くなった。徹夜の後のように、頭の働きも鈍くなる。
(まずい)
そう判断して引き剥がそうとしたが、遅かった。
戦闘技術について、冬木と深山の実力を比較することは難しい。片方は〈気〉、片方は〈魔法〉と云うように、戦いの基礎がそもそも異なる。戦況や戦場によって、その勝敗は大きく左右されるだろう。ただし、単純な力比べならば、深山に軍配が上がる。
抵抗も虚しく、彼はそのまま押し倒された。
口はふさがれたまま、激しさを増す。小柄な少女が馬乗りになった所で重いということはない。相手が普通の少女ならば、簡単に払い除けられたはずだ。だが、押し返そうとした手は逆に押さえつけられる。食事は執拗に終わらない。
深山と云えば、いつも通り、単純な思考。
(おいしい)
深山は人間となって以来、相棒の浅葉を相手にして効率的な食事方法を模索していた。竜の時代はもっとスマートな食事法が確立されていたのだけど、身体が変わってしまった以上、新しい手立てに慣れるしかない。
人間同士で行われる〈口づけ〉という行為は、竜には存在しない行為だ。
それこそ最適な食事方法であると判明した時、浅葉はとても奇妙な顔をしたものだ。深山は首を傾げるばかりだったけれど、彼の方は耳まで真っ赤になって顔を伏せた。異世界で過ごしていた時、深山がお腹をすかせれば、浅葉はどんな時でも気を食べさせてくれたものだけど、深山が人となって以降は、食事の作法にとても厳しくなってしまった。
人前で浅葉を食べてはいけない、とか。
寝ている時に食べてはいけない、とか。
食事の後はすぐに離れるように、とか。
注意ばかり受けることが、深山は不満である。特に、おいしく食事をするためには、ただ唇を触れ合わせるだけでなく、深く、舌を絡ませるべきなのだ。浅葉を相手にそれを試してみた所、思いっきり突き飛ばされた上、しばらく顔を合わせてもらえなかった。
そんな事情もあって、深山は食事に不満を覚える生活を送っていた。
飛んで火に入る夏の虫――もう一人の勇者。
並みの人間を相手にすれば、衰弱死させる危険もある。そもそも、浅葉という極上の味を覚えた後では、普通の相手では満足できない(一度、浅葉の妹を味見したところ、そこまでおいしくなかった上に、とんでもなく怒られた)。
深山は馬鹿と云われるけれど、ちゃんと心配はしている。浅葉が食事にあれこれ云う原因についても、自分なりに考えた。確かに、彼ばかり食べていては負担も大きい。食べられると疲れるのだから。それに、深山はおいしいものを味わっていると、時々、自制がきかなくなり、食べ過ぎてしまう時もあった。
もう一人ぐらい、食べる相手がいればいいのではないか。
深山は浅葉のことを想い、常々、そんな風に思案していた。
「み、深山……」
食事に夢中になっていた深山の耳に、誰よりも慣れ親しんだ声が届いた。
さすがに食べることをやめて、顔を上げる。餌の口内をなぶっていた舌を引き抜く時、どちらの物とも知れない涎が、蜘蛛の糸のように垂れた。獣が食事を終えた時のように、深山は舌で唇の周りを舐め取る。小柄で幼く見える少女の仕草ながら、それが扇情的に見えることを、彼女は知らないし、気づくこともない。
だが、呆然として自分を見つめる無数の目には、さすがに気づいた。
「あれ、カオル、どうした?」
道端でただ偶然に再会したように、何の気負いもない。
体育館の入り口には、先程、意を決して扉を開け放った女子バスケットボール部の面々が、これ以上なく目を見開き、ある者は青ざめ、ある者は赤面したりしながら、ごくりと息を呑みながらたたずんでいる。彼女らは、体育館の中で繰り広げられていた光景に、声かけるどころか、逃げ出すことも忘れて、ただただ固まっていた。
そんな人垣を抜け出た場所で、浅葉は力なく膝を折る。
「うわ、どうした。お腹痛いのか、カオル?」
顔を伏せて、どこか尋常ではない気配を漂わせる相棒を見て、深山は餌のことなど頭から完璧に放り出す。味見と云いつつ、おいしさのあまり、貪り喰った相手――冬木は痙攣していた。疲労を通り越して、全身麻酔でもかけられたような状態である。朦朧としていた意識は、馬乗りになっていた深山が慌てた拍子に腹を踏みつけたことで、多少は覚醒する。とはいえ、うめきながら、痛みと混乱の中で目を白黒させることしかできない。
「な、なにが……」
冬木は自身がどんな目に合わされたのか、理解もできないまま放置される。
深山はパートナーのもとへ駆け寄っていた。彼女にとって、この世界で何よりも大切なものは彼である。喧嘩もするし、憎まれ口も叩くが、辛そうにしている時、その涙を舐め取ってやることに躊躇はない。しかし、近づいた瞬間、深山の身体は宙を舞った。
アッパーカット――浅葉薫の渾身の一撃が炸裂した。
「え、ええ、カオル、なに……?」
「ミズキ」
予想外の攻撃に軽々と吹き飛ばされた深山は、殴られた顔を押さえながら、瞬時に立ち上がったものの、地獄の底から響いてくるような声色に、ぴたりと動きを止める。
下の名前を呼ばれたことで、深山は青ざめる。
名前を呼ばれるということは、浅葉が我を忘れている証拠なのだ。
「正座」
命令と云うよりも、しつけ。
背筋を震わせた深山は、置物のように正座して固まる。
「なに、やってたの?」
「えっと、味見……」
「あれは、誰?」
「よく知らない……」
「知らない相手を食べたの?」
「その、おいしそうで……」
正座する深山の前に、ゆらりと立ちふさがる浅葉。
彼の腕が大きく振りかぶられる。
殴られる――そう判断して、深山はぎゅっと目を閉ざす。
だが、痛みはやって来なかった。頭の上に、浅葉の手が弱々しく乗せられた。恐る恐る目を開いた深山は、目の前で相棒が崩れ落ちていることに気づく。両手を床に着いた体勢で、はらはらと涙をこぼしている。
「わー、カオル、やっぱりお腹痛いのか?」
深山は慌てる。彼女は当然、彼の胸中を悟ることはできない。
浅葉が先程、襲われたことも知らない。豹変した白船に押し倒され、唇を奪われた。それを振り切るように相棒を探し出せば、彼女はどこの誰とも知れない男を押し倒し、唇を奪っていた。浅葉は自暴自棄な思いに染まる――何もかも、もはや、どうでもいい。
「カオル、カオル、ごめんな」
「……なにが?」
「なんかよくわからないけど、ごめんな」
深山は慌てながら、必死に言葉を探していた。
「よくわからないから、俺、また何か間違えた。たぶん、またカオルに迷惑かけた。どうすればいい。何でもする。カオル、お願い。謝らせて」
浅葉もわかっている。彼女には別に、悪意も何もない。常識を知らない子供と同じなのだ。間違えることも、迷惑をかけられることも当然だ。浅葉はそこまで理解して、それでも彼女と共に歩いていくことを選んだのだから――。
「……カオル、抱きしめていい?」
浅葉は何も答えなかったけれど、力を失った彼の身体を、深山は無言でそっと抱きしめた。浅葉は男子として小柄な方だけど、深山はさらに小さい。両手をいっぱいに使って、がんばって包み込んだ。かつて巨大な翼を使って、疲れて眠る浅葉を守っていた時のように――抱きしめることのできない寂しさを感じていた頃を少しだけ思い出しながら。
「ごめん」
そんな二人の背後では、倒れたまま、見捨てられたような冬木。
「なにが、なんだか……」
一言だけつぶやき、彼は気を失った。




