ルナの航跡 17
第4章《錯綜》(1/4)
男は半地下の広い部屋の中で眠っていた。贅沢ではないが、日々を送るために必要なものは全て揃った部屋である。明るい色調の壁や毛足の長い絨毯からも、傍目にはこの部屋が男を幽閉する為の牢だとは見えない。広間と区切られた寝室には、天井近くに格子がはめられた小さな窓があった。そこからは一日に数時間しか陽が差し込まないが、窓の小ささも格子も、王宮の中の部屋という意味では珍しくはない。天井からぶら下がっている照明達は、男が眠っている間は灯を灯してはいないが、簡単ではあっても装飾が施されており、陰鬱な雰囲気を微塵も感じさせるものではなかった。
その小さな窓から差し込む朝日が男を目覚めさせた。ベッドに横たわったままの虚ろな頭で、毎日繰り返され、そして今日も繰り返されるであろう一日に思いを馳せた。いつものように、間も無く彼がやって来るだろう。そう思った矢先、男の部屋に近づく足音が響いた。機敏ではないが億劫な様子でもない、ゆっくりとしているが着実さを匂わせながら、男は立ち上がった。そして彼を迎えるべく、上着を羽織って広間に添え付けられた食卓の椅子に座った。そこにはいつものように、質素ではあるが温かみのある朝食が並べられていた。
「王国は、いや帝国や神聖同盟も含め、状況は混乱を極めております。」
男の部屋に入って来て来賓の椅子に座ろうともせず、彼は立ったまま唐突に切り出した。
「恐らく、ルナ殿は持ちこたえるでしょう。彼が既にリモー艦隊から離脱したとの報告も入って来ております。しかし、大陸北方の王国領土の喪失は決定的です。そしてついさっき、私はブリタニアの殲滅作戦に署名して来ました。本当にこの状況はあなたの望んでいたものなのですか?」
食卓の椅子に腰掛け、朝食を食べ始めていた男は、問い掛けに一端は動きを止めたが、再び並んだ食事に手を伸ばしながら応えた。
「取り返しの付かない犠牲を強いることになった。」
そんなものなのだろうか、と彼は憤慨した。想定外の犠牲? それだけで済まされることではないはずだ。なぜなら、臣民の生命と財産を守るのは、国王の最低限の責務ではないか。それをするために『王』という職務があるのではなかったか。彼は更に詰め寄った。
「この先にあなたの望む結果が導き出されるとお考えなのですね?」
この部屋に閉じ込められ問い掛けられているのは本当の王であり、この部屋を訪れて問い詰めているのは偽りの王である。
「皇帝が今の状況を想像していたわけではなかろう。それは確かだ。未だ余地はある。」
「本当にそうでしょうか。私には皇帝が恐ろしくてなりません。皇帝は全てお見通しなのではないかと考えてしまいます。」
「そうかもしれん。だが、それなら宰相達が黙ってはおるまい?」
「宰相派はもはや制御不能です。ブリタニアの殲滅作戦についても、私のサインは形式上のもので、私の意見など入る余地はありませんでした。」
「そうか。しかし、それは奴等の暴走と考えていいだろう。皇帝の指図ではないな。」
「それはそうでしょう。そして、宰相派の暴走を止められなくなっているのも事実です。」
ブリテン国王は粗食である。彼はそれも真似た。顔も素振りも、何もかもが瓜二つになった。傍目には同じ人間が鏡と会話しているように見えるだろう。多くは兎も角、血縁であるルナや王子までをも騙し通すために、王の複写は徹底的に進められた。皇帝のもとでの訓練の日々。宰相達を交えた仕上げの時期。そして、本当の王を拉致して観察し続けた。あれは何のためだったか。皇帝の野望を成し遂げるため、身も心もささげたのではなかったか。ところが、この王の人間性に惹かれ、宰相達の近視眼的な私利私欲に嫌悪を覚えた。対応に窮した時のためと本当の王の処刑を止めさせた時から、自らの野望が目覚めたのである。生殺与奪の権限を握りながら相手を頼る者が頭を垂れ、囚われの身でありながら権威をふるう者が粗食を旺盛に啄ばむ。そんな不自然で非常識な図柄は、二人の王が同一と見まがう外見を持ちながら、内面では極端な両極性を有しながら並存する、といった有り得べかざる構図を端的に現していた。
「一つ知恵を授けよう。」
食事の手を再び止めて、本当の王が語りかけた。
「王子だ。あれは切り札になる。貴様のためにも、王国のためにも、な。」
「しかし、どうやって……。」
もはや話を聞いてもらえなかった。朝食は大事な儀式なのだ。これ以上の邪魔立ては許さないという威圧感が偽りの王を圧していた。
「善処します。また、明日も参ります。」
偽りの王は男の部屋から退出した。
部屋に残された王は、粗食をついばみながら溜息をついていた。王を演じるあの男も、『王家の秘蹟』に毒されようとしているのか。玉石によってもたらされる力、それは王家の正当性を示すものとして長く敬われて来た。しかし、この王はその本質に気付いたのだ。五感を研ぎ澄まし、第六感を発動させる。そう信じられている王家の力は、実はそんな綺麗事ではない。人の心、それを食って玉石は生きているのだ。人から溢れ出る心の力とは、邪心に他ならない。良心はその人の中で昇華されてしまうものなのだ。よこしまなものやあくることのない欲望、妬み、暴力、体内から溢れ出たこういった思いが玉石を力付けている。玉石からすると、良心に司られる世が現れてしまうと、自らの存在を否定されることになってしまうのだ。これを防ぐために為政者に力を与え、争いの絶えない絶望の世界を作り出すのが、玉石の意思である。人間の根本的な欲望である性欲を極限まで高める『王家の秘蹟』。その隠微な儀式によって、王族は玉石に力を与え続けて来たということだ。この王の鋭い直感は玉石の意思と通じ、そしてそれを拒絶した。秘蹟の放棄である。しかし、こんなハナシを誰が信じるだろうか。時間を掛けて、そして確実に玉石の排斥を試みようとしていた矢先、宰相派の謀略にはまった。それ自体が玉石の介入によるものなのかどうかは分からない。そして今、王の職務はあの男と宰相派によって遂行されており、彼等に玉石の手が伸びても不思議ではない。究極の破壊兵器が、玉石の力を用いて開発されたとも言う。その兵器が発動した暁には、数多の欲望と怨念が渦巻くことになり、玉石の腹は大いに満たされることだろう。本当に取り返しが付かない事態が迫っている。ヤツなら、ルナならこの事態を収拾してはくれまいか。この期待は、為政者として、いや元為政者として、親心に政治力が曇った愚かな思いなのか。
そんな真相も知らず、部屋を出た途端、偽りの王は国王の威厳を振る舞いに付け加え、国王としてモノを考え始める。庶民の出とは言え、優秀な為政者の要素を持った男なのだ。本当の王は、答えをくれなかった。しかし、国王としてモノを考えれば、自ずと答えは見えてきた。宰相派は所詮官僚でしかない。国王だけが持つ権限、国王なればこそ揮える力、それらを駆使すれば、宰相達との関係を逆転させることは可能なはずだ。王室に急ぎ戻った王は、親衛隊の隊長を呼んだ。
「陛下、お呼びでございますか。」
椅子にちょっと体を傾けて座るいつもの姿勢で、王は親衛隊の隊長を手招きした。この仕草が重大な任務であることを意味する。
「王子を幽閉しろ。親衛隊が哨戒すること。」
ことの重大さに隊長の顔がわずかに引きつったが、すぐに承諾した。
「はっ。王子殿を幽閉致します。」
下がろうとする親衛隊の隊長を王が呼び止めた。
「面会は許さん。しかし、扱いは丁重に、な。」
「心得ております。」
「親衛隊として、余の警備にも余念がないように。」
王の身に危機が迫っていることを悟った親衛隊の隊長は、丁重に頭を下げて了解の意を現してから踵を返した。親衛隊独特の服装が王室から出て行くのを見つめながら、王は自問自答した。
これでいいはずだ。親衛隊に守らせておけば、宰相達は王子に手が出せない。宰相達が自分を抹殺しても、王子が健在な限り彼が次期国王になるので、宰相達が勝手な王を立てるわけにはいかないはずだ。
さて、次はどう手を打つか。宰相派の出方を見て……いや、後手に回るわけにはいかない。王国は崩壊の危機に立っている。立て直すには……。
王室で一人、思案に耽る王は、国王の責任というものの重さを味わっていた。
<続く>