嘘吐き
眼が、視線が怖い。
いつからそんなことを思うようになったのだろう。
別に幼いころにいじめられた経験があるわけではない。逆に自分の周りには常に強者が付き、自分は常に排他する側の人間だった。ついでに霊感があって見えちゃいけない奴の視線に怯えていたなんてことも、もちろんない。
だが、怖い。
人と話すとき相手の目を見ながら会話なんてできない。すれ違う人々の視線と交わらないように常に下を向いて歩いてきた。
嘘が見破られそうで。お前は嘘吐きだと糾弾されそうで。
別に暗いわけじゃない。友と言えるような人は何人もいる。肌を重ね、愛し合った事だってある。人当たりがよく、誰とでも気軽に接する人格者。そんなような評価をよくうける。
「相談に乗ってくれてありがと」
「お前の話は面白いな」
「君に任せてよかった」
なんだって引き受けた。なんだって笑って返していた。
排他されるのを恐れていたから。
人当たりよく、周りからはみ出ず、調和を崩さないように生きてきた。嘘に嘘と嘘を重ね、自分を守り、他者を持ち上げ、自分の不利益を常に回避してきた。
そして、気付いてしまったのだ。ある時から。常に逃げながら生きていたことに、その先に辿り着いたのが虚構の海だということに。
常に仮面を被っていたという自明に辿り着いた。
―――愛する者にはその為の仮面を。
―――頼る者にはその為の仮面を。
―――怯える者にはその為の仮面を。
―――憎む者にはその為の仮面を。
多くの仮面を身に着け、多くの嘘をばら撒き、全ての人を騙した。自分自身すら。
それぞれの仮面は完璧だった。完璧するため嘘をつき、仮面の穴を塗り潰した。それぞれの仮面を繋げる為に嘘で装飾した。
―――愛する者にはその為の嘘を
―――頼る者にはその為の嘘を。
―――怯える者にはその為の嘘を。
―――憎む者にはその為の嘘を。
独りになって呆然とした。
自分を知る人が誰もいないことに気付いてしまったのだ。そして、自分自身ですら知らなかったことにも。
歩み続けているうちに次々と増えていった仮面。手から溢れ、零れ落ちる程になっても一つ一つの人格、個性、趣味、対応、全てを把握していた。
―――では自分は?
わからなくなっていた。全ての仮面を剥ぎ取り、全ての嘘を洗い流し、本当にまっさらになった自分の姿が。
鏡に写る自らの姿を見つめる。全ての嘘と仮面を剥ぎ取った自分を見つめる。
そして、愕然とした。そこに写っていたのは「ただの男」だった。
全てを失った喪失感は無く、全てを手に入れた幸福感も無い。
勇ましさは感じられず、弱々しさも感じられない。
大きくもなく、小さくもない
寛大さは感じられず、狡猾さも感じられない。
そこには何もなかった。
虚無だけがそこに満たされていた。
男は己という名の虚無が漂う鏡を見つめ続けた。
暫くするとなぜ自分が愕然としていたのかわからなくなっていた。
男はソファに戻り、深く腰掛ける。
妻と子供を無くし、友に裏切られ、職を失い、病魔に身体を蝕まれた男は、酒を一口含むと傍らに置いてあった銃へと手を伸ばした。
男は最期の仮面を被ることを決めた―――
嘘吐きの完全体はこんな感じなんだと思う。