消費される英雄 ~~ 友情の終わり ~~
地鳴りのような歓声が、シラクスの街を揺らしていた。
「メロス!」「セリヌンティウス!」「友情よ、永遠なれ!」
王宮のバルコンに立つメロスは、慣れた仕草で右手を上げた。口角は引き上げられ、完璧な「英雄の微笑」が顔に貼り付いている。だが、彼の耳に届くのは意味を剥ぎ取られた音の奔流であり、目に映るのは狂熱に浮かされた無数の顔、顔、顔。
隣に立つセリヌンティウスを、メロスは盗み見た。
親友は、穏やかな、悪く言えば精彩を欠いた笑みを浮かべて、同じように手を振っている。その表情には、この茶番に対する葛藤の色も、大衆への侮蔑も浮かんでいない。ただ、与えられた役割を静かに受け入れているように見えた。
視線を落とせば、広場の中央には、自分と親友が固く抱き合う姿を模した巨大な銅像がそびえ立っている。王が建てさせた「友情の碑」だ。あの日の出来事は詩になり、劇になり、こうして石にまでなった。誰もがその「美しい物語」を愛し、疑うことを知らない。
――違う。
メロスは心の中で呟いた。
俺が走った道は、こんなに喝采に満ちたものではなかった。泥にまみれ、賊に襲われ、一度はすべてを投げ出して川の濁流に身を委ねようとした、孤独で汚れた道だった。民衆が消費しているのは、綺麗に洗い流され、磨き上げられ、都合よく編集された「物語」だ。
そして、その物語を演じ続ける自分は、王の計算通りに動く操り人形であり、民衆が貪る感動の、ただの供給源に過ぎない。
「メロスよ!」
甲高い声援が飛ぶ。メロスは再び顔に笑みを貼り付け、大きく手を振った。
走り終えたはずのメロスの足は、見えない鎖でこのバルコンに縫い付けられていた。
今、彼こそが、王の人質だった。
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重厚な扉が閉まると、嘘のように熱狂が遠ざかった。
金の刺繍が施されたカーテン、大理石の床、熟した果物が山と盛られた銀の皿。王から与えられた「英雄の私室」は、豪奢な牢獄だった。
メロスは、首にかけられていた勝利の証である月桂樹の冠を引きちぎると、床に叩きつけた。乾いた葉が、ぱらぱらと虚しく砕ける。
「……見たか、セリヌンティウス」
メロスの声は、怒りで震えていた。
「あの目、あの声! まるで檻に餌を求める家畜だ! 俺たちは見世物じゃない!」
セリヌンティウスは動じない。彼は窓辺の長椅子に腰掛け、葡萄酒の杯を静かに傾けていた。
「その家畜のおかげで、我々の生活は安泰だ」
杯を揺らしながら、セリヌンティウスは答えた。
「王は我々を英雄として遇してくださっている。二度と君が人質になることも、私が処刑台に上ることもない。……それの、何が不満なのだ?」
「安泰だと?」メロスは叫んだ。「これは偽りだ! 王が作った虚構だ! 俺が命を懸けて示したかった信義は、こんな安っぽい芝居じゃない!」
「では、真実とやらを叫んで、再びあの日に戻りたいのか? 君が賊に襲われ、私が処刑を待つ、あの日に?」
セリヌンティウスは静かに立ち上がると、苦悩に顔を歪める友を、まるで遠い存在を見るかのように見つめた。その目に宿るのは、同情でも、怒りでもない。ただ、深い疲労だった。
「メロスよ」
その声は、ひどく穏やかだった。
「君はもう十分走ったではないか。……今更、走って何になる?」
その言葉は、鋭い刃となってメロスの胸を貫いた。
激昂していたのが嘘のように、彼の体から力が抜けていく。目の前にいるのは、かつて命を預けてくれた親友ではない。王が作ったシステムの中で、安寧という名の新しい根を張った、見知らぬ男だった。
バルコンで大衆に囲まれていた時よりも、今、この瞬間のほうが、メロスは遥かに孤独だった。
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「離せ!」
メロスは、羽交い締めにしようとする衛兵の腕を振り払った。自己を失う恐怖は、彼に常ならぬ力を与えていた。王の私室の扉を蹴破るようにして、彼は中に転がり込んだ。
「王よ!」メロスの声は嗄れていた。「あなたは邪智暴虐の王だ! かつては人の命を奪ったが、今はもっと狡猾だ! あなたは人の心を弄び、魂を殺している!」
玉座ではなく、窓辺の寝椅子に腰掛けたディオニス王は、読んでいた書簡からゆっくりと顔を上げた。
メロスの絶叫が、静かな部屋に響き渡る。
「あなたの作る平和は偽りだ! あなたが語る友情は商品だ! 俺は、俺の魂は、そのための道具じゃない!」
すべてを吐き出したメロスを、王は黙って見ていた。やがて、その口元に、まるで新しい玩具を見つけた子供のような、無邪気で残酷な笑みが浮かんだ。
「道具ではない、か。面白いことを言う」
王は楽しげに言った。
「ならば、証明してみせよ。お前のその魂に、我が与えたこの平和を覆すほどの価値があるというのなら」
王はバルコンへと歩み、眼下に広がるシラクスの街を見下ろした。「良いだろう、メロス。お前にもう一度、走る機会を与えてやろう」
王は振り返らずに続ける。
「三日だ。三日間、猶予をやる。その間に、この街の誰か一人でいい。お前の言うその『真実』とやらが、我が与えたこの安寧よりも尊いのだと、心から納得させてみせよ」
「もし、やり遂げたなら…」メロスの問いに、王はこともなげに答える。
「王座を明け渡そう。お前の勝ちだ」
「だが」
王は振り返り、その目を愉悦に細めた。
「もし誰一人お前の言葉に耳を貸さなかったら――お前を処刑し、新たな殉教者にはしてやらん。お前は、広場の民衆の前で、自らの言葉でこう言うのだ。『私は間違っていました。王の与えた平和こそが、絶対の正義です』と。そして、お前の魂は完全に死に、永遠に生きた銅像となるのだ」
それは、死よりも残酷な罰。
だが、メロスに残された道はなかった。ここで引き下がれば、待っているのは緩やかな自己の喪失だけだ。この絶望的な賭けに、彼は頷くしかなかった。
「……わかった。その勝負、受けよう」
「存分に走るがいい、英雄メロス」
王は、心底楽しそうに笑った。
「お前の二度目の、そして最後の徒競走だ」
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陽はまだ高い。勝負の第一日目。
メロスは、シラクスの心臓部である広場にいた。自分と親友が、偽りの友情で抱き合う銅像が、彼を無言で見下ろしている。
彼は、その台座に、よじ登った。
ざわめきが起こる。英雄の突然の行動に、人々が足を止め、遠巻きに集まり始めた。
「シラクスの民よ!」
声が震える。だが、それは恐怖からではなかった。
「お前たちが信じる物語は、嘘だ!」
集まった人々の困惑を無視して、メロスは続けた。
「俺は英雄などではない! あの旅路で、俺は泥にまみれ、疲れ果て、友を裏切ろうとさえした! 美しい物語などでは断じてない! あれは、一人の弱い男の、醜く、必死のあがきだったのだ!」
真実だった。彼が、彼の魂が、必死に記憶している本物の叫びだった。
しかし、人々の反応は冷ややかだった。顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。
「何を言っているんだ、この男は」
「私たちの感動を汚す気か」
「劇で見たのと、全然違うじゃないか」
その時、群衆の中から声が上がった。
「狂人め! 王の与えたもうた平和に泥を塗る気か!」
王の放ったサクラだ。だが、その声は、乾いた薪に投げ込まれた松明のように、人々の心に眠っていた不満に火をつけた。
「そうだ! 英雄の務めも果たせなくなった、ただの耄碌した男だ!」
「俺たちの楽しみを奪うな!」
その声が引き金だった。さっきまでの好奇の目は、今や明確な敵意に変わっていた。
「帰れ!」「嘘つき!」
罵声と共に、腐った果物や石が飛んでくる。
石の一つがメロスの額を打ち、熱い血が視界を濡らした。彼は、よろめきながら台座から降りた。人々の顔には、もはや何の期待も、尊敬もなかった。ただ、心地よい物語を邪魔されたことへの、醜い怒りだけがあった。
(そうか……)
メロスは悟った。
(こいつらは、真実など欲してはいないのだ。ただ、消費し続けるための、都合の良い『感動』が欲しいだけなのだ……)
第一日目は、終わった。
誰一人、彼の声に耳を貸す者はいなかった。
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セリヌンティウスの私室は、静かで、穏やかな光に満ちていた。彼が手ずから育てているという鉢植えの緑が、窓辺で鮮やかだ。
そこに、メロスは現れた。額には乾いた血糊、服は汚れ、しかしその目だけは、少年のような、純粋な光を宿していた。セリヌンティウスなら分かってくれる、という、ただ一つの希望の光だ。
「メロス! その姿は…」セリヌンティウスは駆け寄り、その肩に手をかけようとした。
「セリヌンティウス」
メロスの声は、不思議なほど穏やかだった。彼は友の手を、そっと制した。
「広場で何があったか、聞いたか」
「……ああ、噂は聞いている」
「そうか。だが、どうでもいい。大衆が何を信じようと。……俺は、お前を信じている」
メロスは、真っ直ぐに親友の目を見た。
「王と賭けをした。三日の間に一人、真実を分かってくれる者を見つけろと。なあ、セリヌンティウス。お前だけは、知っているはずだ。あの日の、本当の俺たちを。お前が『そうだ』と言ってくれさえすれば、俺は勝てるんだ」
その言葉に、セリヌンティウスの顔が苦悩に歪んだ。彼は友の目を見られない。視線は、豪奢な調度品と、窓の外の平和な街並みの間を彷徨う。
(戻るのか? あの日に? 処刑台の上で、刻一刻と死が迫る、あの恐怖に?)
やがて、彼は顔を上げた。だが、その目に宿っていたのは、友情ではなく、冷たい決意だった。
「……その真実とやらは」セリヌンティウスの声は、乾いていた。「一度、私を殺しかけた」
「……なに?」
「今のこの暮らしは、王のくださった偽りかもしれん。だが、それは私に平和をくれた。……なぜ、平和を捨ててまで、お前の真実とやらに付き合わねばならんのだ?」
「セリヌンティウス、お前……」
「物語は終わったんだ、メロス」
セリヌンティウスは、友に背を向けた。
「もう、そっとしておいてくれ」
拒絶の言葉は、静かだった。だが、それはどんな罵声よりも、メロスの心を深く抉った。
目に宿っていた最後の光が、ふっと、消えた。まるで、風の中の蝋燭のように。
彼は何も言わなかった。言うべき言葉など、もはやなかった。
ただ静かに踵を返し、光に満ちた部屋を、後にした。
第二日目。
メロスの魂は、ここで完全に死んだ。
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日没の鐘が鳴り響く中、メロスは王宮の扉を叩いた。約束通り、彼は戻ってきた。魂の抜け殻となって。
玉座で、ディオニス王は彼を待っていた。
「見つかったか、メロス。お前の真実を信じる者が」
メロスは、ただ力なく首を横に振った。その目は、底なしの沼のように、何の光も映していなかった。
「そうか」
王は頷いた。そして、意外なことに、彼は微笑んだ。
「だが、お前は逃げずに戻ってきた。その信義、褒めてやろう。最後の最後まで、見事な主役だったぞ」
その声には、何の温かみもなかった。ただ、使い切った道具の働きを労うような、乾いた響きだけがあった。
王は立ち上がり、メロスの肩を叩くと、バルコンへと促した。眼下には、王の命令で集められた民衆が、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
メロスは、手すりに両手をついた。そして、練習した操り人形のように、口を開いた。
「私……は、間違っていました。王の与えたもうた平和こそが、絶対の正義です」
その言葉を合図に、民衆から歓声が上がった。王の慈悲と、改心した英雄を讃える声だ。
歓声の中、メロスは静かに部屋へと戻された。そこでは、側近の一人が、みすぼらしい外套と、小さな革袋を差し出した。「王からの、最後の恩情だ」
側近は衛兵に囁いた。「騒ぎにならぬよう、裏口から静かに出せ。もう、彼に役目はない」
数分後、メロスは一人、王宮の裏口から、ゴミのようにシラクスの街に捨てられた。
同じ頃、バルコンで民衆の歓声に応えていた王は、すぐに飽いたように踵を返した。側近であり、物語の脚本家でもある詩人が、彼のそばに控えている。
「やれやれ、友情の物語もこれで終わりか。民衆はすぐに飢えるぞ」
王は、まるで道端の石を蹴るように言った。
「さて、次はどうする? 敵国の姫との、悲恋物語などはどうだ? 新しい感動が必要だ」
王の目は、もうメロスのことなど見ていない。
次の「商品」を、次の「英雄」を、そして、次の「感動」を、冷ややかに見据えていた。
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