第四楽章
気づいたら、周囲が暗かった。
「……う、ん……? あれ……」
少しして、自分が目を閉じていることに気付き、ゆっくりと目を開ける。すると、見覚えのある白い天井が視界に広がった。なぜか体が横になっているようだ。
「よかった。ようやく目が覚めたみたいだね」
「……え? うん……。……あれ?」
ひょこっとウィルをのぞき込んでくる、よく見知った顔をを見て、思わず体をはね起こす。起こしてから頭がぶつかるかもしれないと思い至ったが、相手の方が反応早く頭をひいてくれたようで、そんなことも起きなかった。
「クーシュ……? なんでクーシュが学校に……?」
クーシュとは、ウィルの兄のような存在である。物腰が柔らかく、普段からよく彼の面倒を見てくれている。
しかし、既に学校に行く年齢ではない彼が、どうして学校にいるのか。
と、そこまで考えて、ウィルは辺りの風景が学校のものとは全く変わっていることに気づく。
「え、ここ、僕の部屋!? あれ、僕たしか学校で魅縺がいて、体育館のピアノが……!?」
「落ち着きなさい、ウィル」
ぴしっと鼻をはじかれる。見た目はそんなに大した攻撃ではないのだが、その威力は、
「……い、いたい……」
思わず鼻を押さえ、涙目になってしまうくらいに強かった。けれどそのお陰で、急速に思考が落ち着いていく。
「おいおい、大丈夫かぁ?」
横からフォルツァンドの心配そうな、かつ笑みを含んだ声が聞こえてくる。彼がここにいるということは、さっきまでの状況は、決して夢ではない。
冷静になった頭で、部屋をぐるりと見回す。そこは紛れもなく自分の部屋だ。しかしさっきまでは確実に、学校の体育館のピアノの前にいたはずだった。一体あれから何があって、自分はここにいるのだろう。
「……俺は何か水分を取ってくるから、その間にフォルツァンド、説明を頼むよ」
そう言って、クーシュは部屋を出て行った。彼の言葉に何となく違和感を覚えながらもうなずいたウィルは、その通りに体の向きを変え、フォルツァンドを視界に捉える。
「えっと、フォルツァンド、何が……じゃない、そうだ、ライアットは!?」
あまりにも状況が変わりすぎていてぼけっとしていたが、それどころではない。
彼は一体どうなったのか。
「あー、落ちつけ落ち着け。……とりあえずあいつは生きてるぜ」
「ほんとに……!?」
「もちろん。……ただまぁ、魅縺に若干生気持ってかれてるから、まだ目は覚めてねぇ。ま、少したてば起きるから、大丈夫だ。心配すんな」
「…………よかったぁ」
気が抜けて、今まで起こしていられた体がぱったりと後ろに倒れてしまう。そのままの状態で、体にかかっているタオルケットをぎゅっと抱きしめ、心の底から安堵の表情を浮かべた。生きている。助けられた。その実感が、ウィルの中に広がっていく。
嬉しそうなウィルを、フォルツァンドがのぞきこむ。こちらは得意げな表情を浮かべている。
「な? そうだろ?」
「え?」
「『やれば、できる』だろ?」
「あ……。……うん」
ウィルはフォルツァンドの言葉に一瞬驚き、そしてその言葉を噛みしめるように静かにうなずいた。
*****
「そうだ、なんで僕はいきなり家にいるの? さっきまでちゃんと学校にいたよね?」
「ああ、お前ぶっ倒れたんだよ。魅縺を送り返した後、すぐに」
「たおれた?」
「そ。んで、さっきいたあいつが学校に来て、お前をここまで運んできた、と。……ま、久々につながったからな。気力が尽きたんだろ」
「気力がつきる……ってどういうこと?」
ウィルのその言葉に、フォルツァンドが不思議そうな顔をする。
「ん? ……もしかして、その辺まではまだ思い出してねーのか?」
フォルツァンドの質問に、ウィルは素直にうなずく。彼が“思い出していない”というからには、彼と出会ったときに聞いているはずなのだろうが、さっぱり覚えていない。
そもそも、フォルツァンドと出会った時のことでさえ、未だにはっきりと思い出すことができないのだ。思い出せるのは、母の葬式の後にピアノを弾いていたことと、その時弾いていた曲や楽譜の名前、そして彼の名前だけだ。弾き始める直前と、弾き終わった後のことはさっぱり覚えていない。
それなのに、母の葬式の様子は詳細に覚えている。その一日の内で、ほんの一時の記憶が曖昧なのだ。部分的すぎる記憶の欠落に、一縷の違和感と不安を覚える。
「……まぁ、しょうがねえか。もっかい教えてやるよ。結構重要だから、ちゃんと覚えておけよな」
うなずいた形のまま動かないウィルの様子を気にする風もなく、フォルツァンドは説明を始めた。
接続者が精霊の力を借りるためには、現世界と同意世界の二つの世界間をつなげなければならない。その時に重要なのが、精神力の強さである。
精神力とはすべての行動を支える元となる力であり、何かをする時の原動力やエネルギーとなる力のことだ。簡単にいえば“意志の強さ”であり、接続者の精神力が強ければ強いほど、精霊たちも強大な力を使うことができる。
更には、接続者によっては一度に複数の精霊とつながることができる者もいるが、その場合必要な精神力の強さは(精霊単体の場合の精神力)×(つながる精霊の数)となるのだ。
「フォルツァンドたちが力を使うのに必要なのは、“媒体”じゃないの?」
ウィルの疑問はもっともだった。
それぞれ接続者は“媒体”というものを持っている。ウィルでいえば楽譜であり、そこに載っている曲を弾くことで精霊は力を使える――――つまり、媒体を“使用する”ことで力が使えるのだ、という認識が世間でも一般的なのだ。
「媒体ってのは、俺たちと現世界をつなぐ道筋の役割が主なんだ。後は、お前たち接続者の力の強さを俺たちに伝えやすくするくらいかな。……基本的に俺たち精霊の力になるのは、お前達の精神力。なんでかって言うと、お前たちの体ってのは、世界間を抜け超えることができないからなんだ」
フォルツァンドは一度説明を止め、ウィルの様子を窺うが、彼は少し困ったように考えている。
「んーと、そうだな……。……よし、鏡を思い浮かべてみな。お前は鏡の前に立ってて、鏡には自分の姿が映ってる。その状態で鏡の中の自分に触れようと手を伸ばしても、鏡に遮られて届かない。……それじゃあ、鏡の中の自分が考えてることが何かは、分かるか?」
「鏡の中の僕が考えてること……? ……それって、鏡の前にいる僕が考えてることと、同じじゃないの?」
「そ、同じ。それじゃあ後は置き換えればいい。鏡の前のお前を現世界、鏡の中を同異世界、そして、鏡をそれぞれの世界の接地面。で、考えてることってのは、“意志”だから精神力」
精霊とは、元々同異世界の存在。そのために、彼らとつながる時にも“鏡”、つまり世界同士の接地面と言うのは生じてしまう。それゆえに、物理的なものはすべてはじかれてしまうのだ。なので、接地面を超えて共有できる精神力が重要となる。
「あ、それで、お前が倒れたのはその精神力……つーか、気力がつきたから。ほら、よく“気力で持ちこたえる”とかいうだろ? 何かを成し遂げるために気力だけで頑張ってて、それが終わると気が抜けてふらふらする……そんな感じのことが起こったと思えばいい。二、三回弾くうちに慣れるから、心配すんな」
その説明に、今度こそウィルは納得したようだ。神妙な声で「分かった」とつぶやくと、何事かを考えるように眉を寄せる。
「どーした? まだ何か、分かんないことでもあんのか?」
「……なんか、フォルツァンドの話を聞けば聞くほど、どうして忘れてたんだろうって、ふしぎで……」
やはりその疑問が消えない。今の話はとても重要な話だった。そんな話を綺麗に忘れてしまうことなど、有り得るのだろうか。
「あー……そうだな……。俺にもよく分かんねえけど……」
と、ノックの音が響き、扉が開いた。
先程出て行ったクーシュが、ようやく戻って来たらしい。持っているお盆には、ティーセットが乗っている。
「もうだいぶ調子は良さそうだけど、もう少し休んでおいたほうがいい。……はい、ウィルの好きな、リラックスできるお茶を持って来たよ」
「わぁ、ありがとう、クーシュ。……でも、もう寝てなくても大丈夫だよ」
「無理はだめだよ。みんなだって、心配してるんだから。……だろう? フォルツァンド」
「ああ。今日くらいは、ゆっくり休んだ方がいいと思うぜ」
そのかけあいに、さっき覚えた違和感の正体が分かる。
「あのさ、クーシュとフォルツァンドって、前にも会ったことある?」
「え?」
「あ?」
二人が不思議そうに返事をする。だが、ウィルにはそれがひっかかっていたのだ。
彼が目覚めたときから、クーシュはフォルツァンドがいるのが当たり前という様子だった。更には、彼の名前までも知っていた。一体どのようにして知り得たのか。
すると、クーシュは苦笑いを浮かべて答える。
「あのね、ウィル。自分がどれくらい気を失ってたと思ってる? 君の目が覚めるまでの間、フォルツァンドにいろいろと話を聞いていたんだよ。……ほら、そんなことを気にしてないで、休みなさい」
「あ、そっか、そうだね」
それもそうだと納得したウィルは、折角なので淹れてもらったお茶を飲む。すると体が軽くなり、疲れていたのだろう、再び睡魔が襲ってくる。
ウィルはその眠気に身を任せ、ゆったりと眠りに就いた。