第三楽章
――――ウィル=フィアールカっ!!
霧の中で、声が聞こえる。誰かの声。
誰の声だろうか。ライアット? ……いや、違う。
――――思い出せ! 俺の名前をっ!!
この声を知っている。
懐かしい声。いつだったか、以前に聞いたことがある。
悲しい記憶と共にある、あれは、そう。
母の、葬式の後。
「――――っ!! フォルツァンドっ!?」
「よしっ!!」
頭にかかっていた霧が晴れていく。
ぼんやりとした感じが消えていき、視界に色と景色が戻る。
目の前には見覚えのある、小さな人型の影――――精霊。
「ようやく接続れたぜっ! やり方は覚えてんだろうな、ほらっ!!」
「えっ、あっ!!」
精霊――――フォルツァンド――――がウィルに向かって何かを投げる。慌ててそれをつかむと、それは分厚い一冊の本だった。
表紙は固く、黒地に流れるような銀の文字が描かれている。その表紙を開くと、記憶通り、ある一ヵ所でしか開けなかった。
「精霊の楽譜!! それに、このページは……」
「覚えてるみてーだな。それなら、それをどうするかも……分かるな?」
ピアノで、この曲を弾けばいい。それは分かっている。
「う、うん。……でも、僕」
弾けない、と言おうとした。
元々、誰かから技術を習っていた訳でもない。母が弾いているピアノを聴くのが好きだっただけ。
そして母が死んだあの日からは、自分からピアノに近づくこともしなかった。どこからか音が聞こえると、思わず立ち止まり聴いてはいたが……それだけだったのだ。
そう言おうとしたが、顔を上げると、フォルツァンドは険しい表情をしていた。その強さに、思わず言葉の続きを呑み込む。
「弱音を吐くくらいだったら、逃げりゃいいだろ。あいつが作った時間を、最大限に利用して。……あいつは、そのためにお前の身代わりになったんだろ?」
「そんなっ……!!」
「じゃあ、お前はどうするんだよ。ここでボーっと見てるつもりか? ……言っとくけどな、時間はねぇ。今大事なのは、できるかできないかじゃない。お前がやるかやらないかだ。……お前は今、何を、どうしたいんだ?」
「……僕、僕は……」
ぎゅっと強く目をつむり、下唇を噛む。
怖かった。もし、できなかったら、助けられなかったら――――自分のせいで、ライアットが死んでしまうから。……母と同じように。
でも。
もし今自分が動かなかったら。やったことがないからと、これ以上ぐずぐずしていたら。――――結果は同じ。いや、もっと悪い。
自分が彼を、見殺しにする。
「……ごめん」
楽譜を抱いて、走り出す。向うのは――――もちろん体育館隅にある、小さなスタンドピアノ。
今、何をしたいかなんて、決まっていた。フォルツァンドの言う通り、できるかできないかを考える意味はなかった。
――――やらなきゃ、ライアットは助けられない。
自分に出せる最高速度でピアノに駆け寄り、ふたを開ける。このピアノは誰でも自由に使えるように、普段から鍵がかかっていないことが幸いした。
唯一開くことができる『剣舞』という曲のページを開き、閉じてしまわないように気をつけ、楽譜を置く。
これで、準備は整った。
(……失敗しないように……)
「あんま硬くなるんじゃねーぞ?」
緊張していることに気付いたのか、フォルツァンドが明るく声をかけてくる。
「音楽ってのは、“音を楽しむ”から音楽なんだろ? だったら、完全に楽譜通りなんか、つまんねぇ。お前の音を、楽しめばいいんだ」
そう言って、なんの気負いもなく、にか、と笑う。その笑顔が、とても心強くて。
……気づいたら、緊張は霞のように消えてしまっていた。
「……うん、ありがとう」
椅子に座って、深呼吸を一つする。そして曲を始めるべく、最初の音に指をかけた。
高く高く、そして強く。
いくつもの音があふれだし、体育館中に響き渡り、跳ねまわる。
ホールが音に、支配されていく。
*****
「あー、良い音じゃねーか。まだ若干硬いけど、こんだけの音が出せれば十分だ。……んじゃ、俺もやってやるか」
何もない空間に、何かをつかむように片手をひらめかせる。するとその手には、さっきまでは無かった一振りの剣が握られていた。
――――今ウィルが弾いているのは、剣舞という曲。それは、その名の通り、剣をたずさえて行う舞踊のことだ。
「現世界で動くのも、久々だな……よっ、と」
フォルツァンドはそう言って、空中でくるりと一回転する。そして地面に足をつけた時、その姿は既に、人間の青年程の大きさになっていた。
「行くぜ、ああぁっ!!」
裂帛の気合とともに、魅縺へと飛び出していく。その速度は、人間と比べて格段に速い。数メートルの距離を一瞬で詰め、優雅な動きで剣を一閃させる。
魅縺はその攻撃によってライアットから離れ、後方へと回避した。
「お゛ォア゛ぁぁァッ!!」
怒ったように咆哮する魅縺。しかし、フォルツァンドがその声にひるむ様子はない。
「……残念だが、お前の言葉はここの奴らには伝わんねーぞ? ったく、こっちに出てこなくったって、お前の未練は流転世界で解消してもらえるってのに……馬鹿というか、一途というか」
言葉は悪いが、その口調は決して魅縺を見下していない。ただ、切ないような諦めの音だけが響いている。
魅縺に対して言葉を紡ぎつつ、ウィルの奏でる曲に合わせて、攻撃を続ける。魅縺は何とかそれを避けているが、フォルツァンドの舞に圧され、反撃の余地はない。
ウィルの指が、一際強く、鍵盤を叩く。曲調は猛々しさを増し、クライマックスへと差しかかる。
一瞬だけフォルツァンドの動きが止まり、素早く後方へと距離をとった。
「ウィルの音は聞こえたか? ……もしあれが気に入ったなら、次の生でまた聴きに来い」
晴れやかに笑うと、フォルツァンドは剣を持ち直した。旋律に合わせ、朗々と詠い始める。
「――――もしもお前が強いなら 弱者のための武器を持て
もしもお前が弱いなら 強者のもとで庇護を待て
自分の強さが分からないなら 俺のもとに集い来い
俺は司配者 強さの精霊フォルツァンド
……俺は強者だ。お前に庇護を、与えてやるっ!!」
ピアノの音が、低い方から高い方へと、段階的に上がっていく。その音には勢いがあり、力強さもある。――――そして同時に、とても優しい音だった。
その音を聞いて、フォルツァンドの表情が、思わず、といった様子でほころぶ。
「……よかったな、お前。送り手があいつで、さ」
そのまま、音の流れに合わせて駆け出し、剣を振るう。その攻撃は柔らかく、滑らかな軌跡を描き――――そして魅縺を両断した。
*****
フォルツァンドが剣を振るうのが、目の端で見えた。斬られた魅縺の姿が、泡のようになって消えていくのも。それを見ながら、ウィルは曲の最後を弾き続ける。
もっとうまく弾きたい。そんな思いでいっぱいだった。この曲の強さを、もっと音に表したい。そして、もっと優しい音で、弾きたい。
この『剣舞』はとても力強くて、勇壮な曲だ。恐怖に対して向かっていくための、勇気を与えてくれるような。そして、すべての困難を、打ち破ってくれるような。
……でも、今はそれだけではいけない気がした。
魅縺となってしまったのは、強い思いがあったから。それがなんなのかは、自分たちには分からない。それなのに、存在そのものから否定をして、力尽くで送り返すのはあまりにも気の毒だ。
だから、少しでもその強い思いが落ち着くように、優しい音で奏でたい。
指が最後の鍵にかかる。
その澄んだ余韻が消えた時、魅縺の姿は、体育館のどこにもなかった。