2/4話 夏
「穂波、本当に行かないのか? 好きだったろう、温泉」
場所は自宅の駐車場。早朝だというのにうっすらと汗をかくほどには暑く、蝉の声がうるさいくらいだ。
車の運転席に座った父さんが、少し寂しげにこちらを見返している。
中肉中背で僕とよく似た目立たない顔つきだ。僕が中年になったら、まさしく今の父さんのようになるのだろう。
「うん、大丈夫。母さんと二人で楽しんできて」
父さんの言葉に、僕は端的にそう答えた。コミュ障な僕でも流石に両親とは多少会話ができる。
確かに温泉は結構好きだ。何せ入浴中は喋らなくても良いから。運悪くコミュ強のおじさんとかと一緒になるとしんどいけど。
目を閉じ、誰とも喋りませんという感じで入浴してても、たまに目をこじ開ける勢いで話しかけてくる人がいるんだよなぁ。本当にたまにだけど……
さておき、今は温泉よりも優先すべき事がある。なので、避暑地への二泊三日の温泉旅行には彼らだけで行ってもらおう。
「そう…… じゃあ二人で楽しませてもらうわね。穂波。勉強を頑張るのは良いけれど、暑いから熱中症には気をつけてね?」
助手席から心配そうな視線を送ってくる母さんは、息子の僕から見ても小柄で若々しい。
僕は目元が母さんに似ているそうだけど、正直よく分からない。
「うん。そっちも気を付けて。ほら、もう出発する時間じゃない?」
「あぁ、そうだな…… それじゃあ、行ってくる」
最後まで僕を気にかけてくれる両親を、僕は半ば追い出すように送り出した。
車が自宅の駐車場を出て、角を曲がるところまで見送ったところでふぅと息を吐く。
僕の両親は平凡だけど立派な人だ。普通に稼いで一軒家を建て、生まれた時から人と接するのが苦手な僕を、根気強く、愛情を持って育ててくれたと思う。
小さい頃は、両親以外の人間と対面するだけで手が震え、汗と動悸が止まらなくなった。
けれど彼らが色々と手を焼いてくれたおかげで、今ではギリギリ普通の生活を送れるくらいには改善した。相変わらず他人と話すの極めて苦手だけど。
その事には感謝しかない。でも、そんな立派な両親を見るたびに、自分の情けなさが浮き彫りになるようでしんどくもある……
どうしてあの両親から僕のような人間が生まれたのだろうか。親戚の中にも、僕みたいに対人スキルが低い人は見たことが無い。
--あぁ。そういえば母方の親戚の子に、僕と似た雰囲気の子が居たな。
彼は僕と違ってコミュ強に見えたけど、何故か一方的に親近感を覚えてしまうような子だった。
けれどその彼も、去年の秋に突然行方不明になってしまった。思い出したらまた悲しくなってきた……
とぼとぼと家に戻った僕は、一人で朝食を摂ってから二階の自室に上がった。
部屋の中の本棚には漫画や石像などが載った美術雑誌、棚にはフィギュアなどで溢れ返っている。お小遣いの全てをつぎ込んできた結果だ。
人と話すのは苦手だけど、人自体が嫌いなわけじゃ無い。なので僕がこういった趣味に走ったのは、自然な事だったのだと思う。
学校で誰とも話さない日も珍しく無く、家に帰ったら漫画やアニメ、フィギュアなどを愛でる日々。
そんな孤独感を紛らわすばかりの日常は、二宮さんと出会ったことで一変した。
僕に取っては極めて異例な事だけど、不思議と二宮さんとの会話は苦にならず、ただただ楽しい。
これほど他人の事を考えたことはなかったので、まだよく分からないけれど…… 多分僕は彼女に恋をしているのだと思う。
「よし…… 行こう」
自室で制服に着替えて家を出る。
今は夏休みで、帰宅部の僕には当然部活もない。だけど向かうのは学校。もちろん二宮さんに会うためだ。
彼女ともう直ぐ会えると考えるだけで、沈んでいた気分が上向く。
スキップしそうになるのを必死に抑えながら、僕は彼女の待つ学校へと急いだ。
汗だくになりながら学校に辿り着き、二段飛ばしで階段を登って教室のドアを開ける。
そこには、いつものように教壇を見据えて座る二宮さんが居た。
『やぁ。おはよう岡田君。今日も早いね』
涼やかな声で迎えてくれる彼女に、思わず笑みが溢れる。
『おはよう二宮さん。流石に八月も半ばになると暑いね…… でも、二宮さんの清涼感のある声のおかげで少し楽になった気がする』
『ま、また君は…… そんな事言ってないで早く窓を開けたたまえ。この日差しの感じ、きっと人間には厳しい室温なのだろう?』
『うん、そうさせて貰うよ』
彼女の言葉に素直に従い教室の窓を全開にする。ベランダ越しに、グランドで元気に声を出している野球部の姿が見えた。この暑いのによくやる……
さらに教室のドアを開け放ち、廊下側の窓も全て開ける。すると半ばサウナのようだった教室に風が流れ、一気に気温が下がった。
ふぅ…… このくらいの暑さだったら乗り切れる。この教室にエアコンは備え付けられているけれど、夏休み中は当然使用できない。
タオルで汗を拭きながら二宮さんの隣の自席に座ると、心配そうな声が聞こえてくる。
『やはり、ここはだいぶ暑いみたいだね…… ねぇ岡田君。夏休み中にまで日参してくれるのは本当に嬉しいよ。
でも、君の体が心配だし、君の交友関係への影響も不安だよ。私のような得体の知れないブロンズ像にかまけていないで、友人…… は難しいのか。ご両親と旅行にでも行ってみたらどうだい?』
『大丈夫だよ二宮さん。家からハンディ扇風機と冷たいお茶も持ってきてるから。
あと、高校三年生の夏に遊び呆けている人の方が少ないんじゃないかな……
僕にとって、勉強を見て貰うのに二宮さん以上に適任の人は居ないよ。他の人だと碌に質問することすら不可能だし……』
『む、それもそうか…… 分かったよ。私が君に役立てる数少ない事だ。精一杯教師役を勤めさせて貰うよ』
『二宮さんは存在そのものが僕に取っての福音なんだけど…… さておき。よろしくお願いします、先生』
『あ、ああ…… えっと、では引き続き確率からやっていこうか。昨日君が帰宅してから、うまい説明の仕方を思いついたんだ』
『え、ほんと? ありがとう!』
会っていない間も、彼女は僕のために考えを巡らせてくれていた。その事がたまらなく嬉しい。
僕は早速数学の教科書を開き、二宮さんに見てもらいながら受験勉強を始めた。
彼女は、教科書を一読しただけで入試の過去問を全て解いてしまうほどに頭が良く、教え方も上手なのだ。
この事は、彼女の声が僕の幻聴では無い事の証明になりうる。何せ僕の学力は極々平凡なもので、彼女のような天才を僕の脳が生成出来るはずがないのだ。
ところで、通学制大学と違って、通信制大学には入試が無く、書類選考と面接だけらしい。
元々通信制大学を志望していた僕が、なぜこうしてセンター試験の対策をしているのかというと、もちろん二宮さんと一緒に居るためだ。
学校卒業後も彼女と会うには、普通に考えたらここの先生になるのが一番だろう。私立なので移動もほぼ無いだろうし。
けれど、僕のコミュ力では学生にものを教えることはかなり厳しいし、教えられる学生の方がかわいそうだ。
一方で、事務職の施設管理部あたりだったらかなり良さそうなので、今はそこを狙っている。
で、非常に苦心しながら担任の先生に色々と聞いてみたところ、ここの教職員に通信制大学の卒業生は皆無だった……
そんなわけで、進学先を地元の偏差値高めの通学制大学に切り替え、今は受験勉強に精を出している形だ。
もちろんちょうどよく事務職の募集がかかるかも問題だし、僕にとっての最難関である面接をどう乗り越えるかという課題もある。しかし、チャンスを掴むための準備はできるだけしておきたい。
あと、二宮さんには大学卒業後の進路については話していない。話したら、また気に病んでしまいそうだからだ。
楽しい勉強の時間は瞬く間にすぎ、お昼を挟んで午後になった。
午前中は僕が二宮さんに勉強を見てもらって、午後は二宮さんに僕が本を読んで差し上げる。これが夏休みにおける僕らの過ごし方だ。
彼女のリクエストで図書館から借りてきた『論語』を一緒に読み、最後に二宮さんのお手入れして、夕方頃に解散となった。本日も非常に充実した一日だった。
ちなみに、今日一番の試練は午後の一番気温が上がった時だった。
二宮さんは暑そうにする僕に、「岡田君、私の体はブロンズ製だ。多少涼を取れるかも知れないから、くっ付いてみるかい?」なんて事をおっしゃったのだ。
正直、めちゃくちゃ魅力的な提案だった。基本的に僕は手袋越しにしか彼女に触れないので、素肌で密着することを想像しただけで心拍数が跳ね上がった。
しかし、汗はブロンズ像の腐食の原因になる。僕は鉄の自制心を持ってその提案を固辞した。よく我慢したと、自分で自分を褒めてやりたい……
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