第十一話 玉菊灯篭
第十一話 玉菊灯篭
七月、蒸し暑い吉原では活気が出てきていた。
酒宴も多く、大見世から河岸見世までも客が溢れている。
「おはようございます。 潤さん」 梅乃が男性職員に挨拶をする。
「おはよう。 梅乃は、いつも早起きなんだな~」 そう言って、梅乃の頭を撫でる。
この男性職員は 片山 潤一郎と言う。 いつも笑顔で、爽やかな若い衆である。
「今日も、ここを頼めるかい?」 片山は、梅乃にホウキを渡した。
梅乃がホウキで掃いていると、少し後に小夜がやってくる。
「梅乃、おはよ♪」 小夜はニコニコしていた。
「どうしたの? なんかニコニコしてる~」
「聞いちゃったの! 勝来姐さん、水揚げをしたって」 小夜は興味津々であった。
(小夜、凄いな……私には想像できない……)
「私は、いつやるのかなぁ……?」 顔に似合わず、小夜の大胆な発言に梅乃は引いていた。
「小夜、ちょっと頼めるかい?」 采が見世の外まで出てくると
「はい。 お婆」 采は小夜のお使いを頼んでいた。
「いってきまーす」 小夜は小走りで買い物に出掛けていく。
「梅乃、今日は潤の手伝いをしておくれ。 玉菊灯篭の飾りつけだ」
采が言った後、梅乃は片山の傍で手伝いをする。
「この灯篭に色を入れて飾るんだよ」 片山は、梅乃に優しく教えていた。
玉菊灯篭とは、江戸時代の吉原で活躍した玉菊の供養の為のイベントである。
玉菊とは、諸芸に通じた才色兼備の花魁のことで、京保十一年(一七二六年)に二十五歳の若さで亡くなっている。
多くの人に慕われ、親交のあった引手茶屋がお盆に吊るしたことが始まりである。
その後、引手茶屋や妓楼が趣向を凝らした灯篭を吊るすようになり、吉原を代表する年中行事になっていたのだ。
「今年は、どんなのにしようか……」 片山は頭を悩ませていた。
「せっかくだから、目立ちたいですよね……」 梅乃も考えていた。
「何しているの?」 菖蒲が声を掛けてくると
「菖蒲姐さん、おはようございます。 今、潤さんと一緒に玉菊灯篭の模様を考えていたんです」
「玉菊……あぁ、もう、そんな時期なのね……」
「菖蒲姐さんも描いてみませんか?」 梅乃は、紙と筆を出した。
「いいの? やってみたい♪」 思ったより菖蒲がノリノリであった。
(あの時は泣いていたり、落ち込んでいたけど……もう大丈夫そうだ)
梅乃は、菖蒲の様子を見て安心していた。
「私、つい人と比べちゃうのよね……だから、玉芳花魁の禿をしてても「誰よりも、しっかりしなきゃ!」って思っていたのよ。 いつも余所の禿を意識していたの……私が私を苦しめていたのよね……」 菖蒲は、心の棘を捨てるかのように話し出すと
「菖蒲姐さんは、しっかりしていて凄いな~って思っていました」 梅乃も、思った事を話している。
「変な風に見てなかった?」 菖蒲が聞くと、梅乃は首を横に振って
「私は、菖蒲姐さんが好きです」 梅乃の言葉に、菖蒲はご機嫌になっていく。
「ありがとう。 じゃ、昼見世の用意をするわね」 そう言って、菖蒲は妓楼に戻っていった。
梅乃は、灯篭に貼る紙に下絵を描いていく。
「おっ! いいね~」 片山は梅乃の絵を誉め、お互いに見せあっていた。
そして当日、吉原のイベントが始まった。
各見世で灯篭を置いて、賑やかな吉原に人が溢れかえっていく。
三原屋の昼見世も気合が入っていた。
梅乃は、見世の外から張り部屋を見ていると
「ゲホゲホ……」 と、咳をしている菖蒲が目に入る。
(風邪かな? まさか、流行り病では?) 梅乃は心配になった。
しかし、よく見ると菖蒲はキセルを咥えていた。
(菖蒲姐さん、キセルなんて吸ってたっけ?) よく思い出しても見た事がない。
(なるほど、そうか…… 頑張っているんだな……) 梅乃は幼いながらに菖蒲の努力を尊敬していた。
そこに、若い男性が張り部屋を眺めているのを梅乃が気づく。
(誰にしますか~?) 梅乃は心の中で興味津々だった。
その時、男がクルッと振り向くと
「お嬢ちゃん、僕に何か?」 若い男は、梅乃に話しかける。
「い、いえ……誰にするか見てただけで……」 梅乃は誤魔化していた。
「ふ~ん。 お嬢ちゃんは、この見世の禿かい?」
「はい。 梅乃と言います」
「そう……何歳だい?」 「十歳です」
そんなやり取りをして、男は去っていった。
すると、 「お前が邪魔したから客が行っちまったじゃないか!」 妓女は梅乃に怒鳴りつけていた。
「すみません、姐さん」 梅乃は頭を下げて、見世の中に戻っていった。
そして夕方、多くの妓女が引手茶屋に向かう。
指名が入った妓女は、客を迎えに行くのである。
しかし、そこには菖蒲の姿が無かった。
菖蒲は指名も無く、今日も妓楼で待機をしていたのだ。
(姐さん……)
そこに小夜が菖蒲に話しかける。
「姐さん、今です」 小夜が菖蒲の手を引き、張り部屋に向かった。
本来なら昼見世の時間だけ張り部屋に入って、指名を夜に貰う。
つまり、ライバルの居ない、この夜の張り部屋を独占できるのだ。
「ここに居ましょう。 小夜も一緒に居ますから……」 そんな小夜の気遣いに菖蒲は涙を浮かべていた。
「それなら私も……」 そして、梅乃も張り部屋に入ってきた。
それから十分ほど経った頃、昼間に梅乃と話した若い男性が三原屋に来ていた。
「昼間の禿の子だよな?」 若い男性が格子の外から話しかけてきた。
「あっ、昼間の……こんばんは」 梅乃が頭を下げる。
「君も妓女の真似を?」
「いえ、姐さんとお話しをしていました……」 梅乃はニコニコして話していた。
若い男性は、しばらく黙っていたが
「この方は妓女かい?」 若い男性が聞くと
「はい。 菖蒲です」 菖蒲は、梅乃より先に声を出す。
「よし、今日は俺と遊ぼう」 若い男性は、飛び込みで菖蒲を指名した。
「はい。 お婆と話してきます」 梅乃が立ち上がり、采の元へ駆けていった。
「お婆、引手茶屋からじゃなく、直接来た客なんだけど……」 梅乃が采に言ったが、渋っていた。
(一人の若い客が飛び込みか……遊び慣れてないのか?) 采は思っていたが、最初の指名くらいは……と、大目に見ようとしていた。
そして、客の元に采が向かい
「あの……ウチは大見世って言って引手茶屋を通さないとダメなんだけどさ、今日は特別にいいよ」 采が若い男性に説明をして中に入れると
「それなら、引手茶屋に行けばいいですかね?」 若い男性は、見世の外に足を向ける。
そこで梅乃が肘で菖蒲をつつく。
(―はっ!) 菖蒲が若い男性に声を掛ける。
「よかったら、引手茶屋まで案内します―」
こうして菖蒲は、若い男性と一緒に引手茶屋まで向かっていった。
「やるじゃないか~」 采は、梅乃と小夜を誉めると
「えへへ~」 梅乃と小夜は、ニギニギをして称え合っていた。
(化けるのは、どっちだろうね~) 采は、将来を楽しみにしていた。
そして、酒宴には梅乃と小夜も呼ばれていた。
「お嬢ちゃんも食べなさい」 若い男性は食事を振舞ってくれた。
「あの……」 菖蒲が声を出す。
「どうしました?」 若い男性は菖蒲を見る。
「いきなり来て、私は何と……」 菖蒲は生真面目で、軽いノリでの営業は不向きであった。
「僕は、近藤 喜十郎と言います」
「私は、菖蒲です」 そんな会話から二人は仲良く話しをしていく。
そして時間が経ち、
「それでは、用意をしてまいります」 菖蒲は立ち上がり、一階の大部屋で支度をしていた。
そこで、菖蒲は客を迎え入れた。
朝、菖蒲は早くに目が覚める。
隣には喜十郎が寝ているのを見て、ホッとしていた。
(やっと、客を取れた……) 菖蒲は安堵感でいっぱいになっていく。
そんな喜十郎に感謝と、何か不思議な感覚を抱き、顔を愛らしく眺めている。
夜明けと共に、菖蒲は喜十郎の衣服を綺麗に畳んで帰り支度をしていた。
そして、初の後朝の別れ
「喜十郎様、本当にありがとうございました。 またお会いできますか?」
菖蒲らしい言葉で喜十郎に話すと
「もちろんです」 喜十郎は、菖蒲を抱きしめた。
菖蒲は、恋する乙女のような瞳で喜十郎を見送る。
『ぽ~っ』 姿が見えなくなるまで見送った菖蒲は、大きく息を吐くと
「乙女ですね、姐さん♡」 梅乃が菖蒲の耳元で囁いてきた。
「うっ……見てた?」
「はい♡ しっかりと♪」 梅乃が答えた瞬間に、菖蒲の顔が真っ赤になり
「このマセガキが~」 菖蒲は恥ずかしさを消すように、梅乃を追い回していく。
「朝からウルサイよ! 他の客も居るんだよ!」 そして大部屋の妓女が二人に怒鳴った。
「すみません、姐さん……」 菖蒲は慌てて謝り、静かにしていた。
(でも、梅乃は皆を幸せにしてくれる……本当に小さなお天道様だわ。 まるで玉芳姐さんみたい……)
菖蒲は、梅乃の存在に感謝をしていた。
吉原の玉菊灯篭は、おおいに盛り上がっていた。
(菖蒲も、これで変わったかね……あとは、勝来だ) 采はニヤリとする。
「これでよし。 あとは、昼見世の時間までお休みください」
「ありがとう……」 勝来が小さい声で言う。
それから数時間後に起きる事は、まだ誰も知らなかった。