薔薇_弐
結衣は居場所が定まらない様子でギュルの斜め後ろをついて歩いていた。本来ならば先頭を歩いた方がいいのだろうか、身分の高い人を押しのけて前を歩くのが正しいのか分からなかったのだろう。
ギュルもそんな様子を察したのか、結衣の手を取り上げた。
「麗しい花を盗人から隠したい気持ちはあるけれど、今は見せびらかしたいからね。お隣をどうぞ」
なかなか聞かないであろう台詞を臆することなく彼は言ってのけた。結衣は戸惑った様子で曖昧に笑って誤魔化す。お姫様になったようだ、と言えば聞こえはいい。けれども王族や皇族とは無縁の人生を送っていた彼女にとっては、どう切り返すのが正解か分からないのだろう。
「あ、ありがとうございます」
とりあえず結衣はお礼を言った。ギュルは一瞬だけ目を細めてから、足を止めた。そして繋いだ小さな手の甲に唇を落とす。
「えっ、ああ!?」
短く悲鳴を上げた彼女は、スポッと小気味良く音を立てながら思わず手を引き抜いた。
「挨拶しただけじゃないか」
ギュルは複雑そうな表情で見下ろしてきた。
「こういう扱いは慣れていないので、びっくりしました。失礼なことをして、すみません」
堂々と受け取れば良かったのかもしれないが、日本人ではまずしない挨拶だ。結衣は胸の辺りを押さえながら俯いてしまう。さらりと流れた髪の間からは赤くなった耳が見えた。
「その花の恥じらいに免じて許す」
紅くなっている顔にかかっている髪を撫でつけながら彼はそう言った。艶っぽく笑うその顔を、まともに見られない結衣は声を発することも出来ない。――思えば恋愛経験が少なかった。ほぼ職場と自宅の往復だけで時間を過ごして、休日はカフェや雑貨屋巡り、自宅にいる時は職場に持って行くご飯のストック作り、映画やドラマを見ながら過ごしている事が多かった。稼いだお金を自分一人のために使い、一人でいる時間の楽しさを知っているからこそ、誰かと恋愛になる事が少なかったのだと思う。
「あの、発言しても許されるでしょうか」
結衣は小さく挙手をすれば、ギュルはどうぞと言わんばかりに片目を瞑って頷いてみせた。
「口説き文句みたいなものに慣れていなくてですね、その、少しだけ控えてくださるとありがたいです」
「それは友人としての頼みか?」
「え、あ、そうです! 友人としての頼みです!」
免罪符を得たと言わんばかりに、結衣はキラキラとした表情で彼を見上げた。
「友人の頼みならば聞き入れなくてはいけないな」
快活に笑いながらギュルは言葉を続けた。
「けれども友人を思って忠告しよう。キミだっていずれ結婚する。ならば今のうち男に慣れた方がいいとも友人としては思うのだが」
「え」
結衣は声を上げた。友人としての頼みをあっさり断った男の顔を凝視してしまう。
「それにそんな初々しい様子では兄上、ラン皇子の恋人ではないと周りにバレてしまうぞ」
「あー、たしかにそうです、ね……」
何か違和感を覚えたのか、彼女は言葉を詰まらせる。ややあってからとんでもない失態をしたことに気付いて、慌てて両手で口を塞いだが遅かった。
「ふっ、仮面夫婦ならぬ仮面恋人といったところか。キミは素直でいい子だなあ」
口から魂が出ていそうな顔で結衣はその言葉を聞いていた。ギュルは余裕たっぷりな笑みで、彼女の頭を撫でてやる。
「アレは元々女っ気がなかったんだ。夜伽を手ほどきする侍女すら拒否して、周りに誰も近寄らせなかった。男色の噂もあったほどだぞ。そんな中でキミが突然現れた。おかしいと思う方が普通だろう?」
「ああ、そうなんですね……」
初めて知る情報に結衣は乾いた笑みを漏らす。
「オレとしてはあの堅物にどんな手練手管で籠絡したのかが気になったが、どうやらソッチの線はなさそうだな。何か弱みでも握ったか」
彼女は努めて表情を変えないように努力しているつもりだった。何も答えずに笑顔を貼り付けたまま、頑張ってギュルを見つめる。
「おっ、適当に言ったが本当に当たった」
けれども呆気なく看過された。彼はどうやら観察眼に優れているようだ。
観念した様子で結衣は大きく溜息をつく。それでも決定的な答えは吐かずに、こう言った。
「……もうこれ以上聞かないでください」
「それも友人としての頼みか?」
「友人からの、切実な、頼みです!」
「キミは宮中に向かないなあ。今からでも友人止めて、オレの恋人になるか。悪いようにはしない。猫でも愛でるように可愛がるさ」
甘い蜜に誘うような声音に結衣は溜息をつく。
――なんとなく魂胆はわかる。多分私が持っている情報が欲しいんだ。正直自分の知っている事がどれだけの意味を持つのか分かってはいない。ただ人の弱みを嬉々と語る真似をするのは良くないと思う。と言いつつスマホでそれを撮ってしまった自分が語れることではない。おまけに脅迫紛いまでしてしまった。これ以上人としての品格を落とすのはまずい気がする。あと二股は良くない。うん、例え偽装関係だったとしても。
「……どんな関係になっても何も言いません」
毅然として、というにはやや震えた小さい声だが、それでも彼女は視線を逸らさずに伝えるべきは伝えた。
ギュルはわずかに目を見開く。それから少年のように破顔する。
「本当に宮中に向かないなあ」
「私もそう思います」
詰めていた息を吐き出してから結衣はふとあることを思い出す。
「あの、さっき、兄上っておっしゃいましたよね」
彼はランのことをたしかに「兄上」と呼んでいた。皇子であるランを兄上と呼べるということは――。
「ああ、言ったな」
ニヤリと笑ったギュルは蠱惑的だ。反対に結衣の顔色はみるみる蒼褪めていく。殿下と言う呼称を聞いた時点でも薄々察していたが、ここにきて確信を得た。
「花連国の皇子であり、第三位継承者のギュルだ。改めてよろしくな」
彼の自己紹介を聞き終えた結衣は蒼白い笑顔を貼り付けたまま、無言で土下座をするのだった。