序章
――カシャ。
無情にも響いてしまった音に、目の前で四つん這いになっていた男性は弾かれたように顔を上げる。
遠目からではよく分からなかったが、彼の肌も髪の色も雪のように白かった。喪服のような黒い着物と対照的でより際立っている。
男性の口元は吐瀉物で汚れており、微かに特有の生臭さがにおってきた。
青天の下、花々が咲き誇る庭には似つかわしくない光景と臭気だ。買い物でたくさん詰め込んだリュックやエコバックが肩からズレ落ちそうになる。
本当に、最悪な瞬間を、激写してしまったらしい。誤解をされる前に申し開きをしよう。
断じて、私は事故や騒動があってもカメラを向けるタイプの野次馬ではない。どちらかと言えば現場で働く皆様の邪魔にならないように早足で立ち去る、人畜無害なタイプだ。
だから違うんです。『お前がゲロ吐いてんのおもしろいから撮ってやるよ!』という下衆な考えからシャッターを切った訳ではありません。
スマホの電波が立たなかったから。電波が入る場所を探していたら、貴方を見つけたんです。場所と道を尋ねようと思ったら、液晶をスワイプしてしまい、気付いたらカメラを起動していたんです。
男性はゆらりと立ち上がると、私に向かって歩き出した。蒼白い顔には僅かに怒りの感情が滲み出ている。
「おまえ、此処は立ち入り禁止区域だぞ」
「いや、あの、私は仕事帰りに買い物して、気付いたら此処にいて!」
「外に護衛がいただろう」
ありのままで状況を説明しても相手から同意を得られない。それは当たり前かもしれない。私だってよく分からないのだから。
そう、私は仕事帰りに買い物をした後、夜道を歩いていた。桜並木が有名な道に入った時に、月明りに照らされた狂い咲きの桜を見つけた。血を吸ったように紅い桜に君の悪さを覚えながら、何故か触りたくなった。その柔らかな花弁を触れた瞬間、気が付いたら此処いたのだ。
状況を整理したら更に分からなくなってしまった。どう考えても原因はあの桜としか思えない。呪いの桜か何かだったのだろうか。夜から昼になっているし、明らかに場所が変わっている。
「その絡繰を寄こせ」
目の前まで迫ってきていた男性にスマホを取り上げられる。そして画面いっぱいに表示されているであろう自分が嘔吐している姿の写真を見て、目を大きく見開いた。
「なんなんだこれは!」
乱暴に画面をタップされたスマホが泣き出すように音を立てた。
――ピロンッ
あ、これムービーの音だ。おそらく触ったことでカメラから画面が切り替わってしまい、ムービーになったのだろう。
思い通りに操作できなかったことに彼は苛立ったのか、突然語り出した。
「僕が、此処で泣いているのは秘密にしていたのに!」
おやめあそばせ? ご自分から弱点を晒す必要はないのよ!
私は蒼褪めながら首を横に振った。私のその反応に男性は頬を赤くした。もちろん照れてではない。明らかに目がつり上がっており、怒りからくる表情変化だ。
「頑張っているんだよ! 弟二人が優れているから、僕だって、僕だって」
彼の告白がますます止まらない。一度感情が昂って話し出すと止まらなくなるタイプだろうか。お酒飲んだら絡み酒になりそう。
「みんなの、期待に応えたい一心で、ただ疲れたからッ、一息つきたかっただけなのに」
うんうん、気持ちは分かる。でも此処で心中を打ち明けるおしゃべりは必要なくない。見ず知らずの他人には重い告解です。
それにしても、と周囲を見渡す。
どう見ても此処は私が知っている場所ではない。それに庭に咲き誇る花々には明らかに見たこともない品種の花がある。白い石で出来た小さな噴水が向こう側にあり、庭のあっちこっちに水路がひかれているのが見える。
言葉はわかるから日本だとは思うし、この場所から出たら見慣れた土地に出るのかもしれない。
ただ一抹の不安はある。
周りにある風景が現代的ではないからだ。遠くに見える宮殿のような城は明らかに異国風だ。日本のような城ではない。赤色で塗られた城は沖縄にある城のようにも見えるし、中国の城のようにも見える。ただ全体的に意匠が丸いのだ。童話に出てくるインドや東南アジアの宮殿っぽくも見える。
彼の着ている服も着物をアレンジしたような衣装だ。上半身は着物のように着こなしているが、鮮やかな刺繍が施されている。ボトムスは袴というよりワイドパンツを思わせた。
金の帯には如何にも高そうな宝石がぶら下がっており、多分いいとこの坊ちゃんなのかもしれない。
頼むから、観光地と現地職員がコスプレしているだけであってほしい。
「あ、あの、それムービー作動してますから!」
「はあ? むーびー?」
どうやらスマホを知らないらしい。彼は操作一つしていない。此処は私が知っている現代ではないという予感が更に高まる。
そんな私の心情を知らずに、彼は何を言っているのか分からないと言った表情でスマホを見てから画面を弄り出す。ややあってから苛立った様子でスマホを投げて寄こしてきた。
画面を見ればロックがかかっている。どこかボタンを押して、ロックがかかってしまったのだろう。
「動かない」
「指紋認証ですから」
「じゃあ、おまえがやれ」
散々な扱いを受けた自分のスマホに憐れみを覚えながら、指紋認証を解除する。
作動していたムービーを切ってから撮れたばかりのムービーを流す。
『僕が、此処で泣いているのは秘密にしていたのに!』
ばっちり撮れていた。
突然流れ出した自分の声に彼は酷く狼狽える。
「え、あ? なんだそれは。おまえは奇術師なのか」
「普通の会社員です」
「僕の弱みでも握るつもりか」
「滅相もございません」
ただ、と言葉を続ける。
「私、此処に迷い込んでしまったみたいなので場所を教えていただけませんか。その代わりにさっきのこと黙っておきますから」
たとえ脅迫まがいだと罵られたとしても私は此処がどこなのか知らなくてはいけなかった。本当にごめんなさい、と心の中で何度も謝る。
彼は溜息をつきながら教えてくれた。
「此処は花連国だ。今目の前にあるのは花水城である。民ならば皆知っている筈だ」
かれんこく。かすいじょう。
全然知らない。そんな国名も城も聞いたことがない。これが異世界転生ってヤツか。あれ、私死んだの。
声にならない叫びをあげて、私は膝から崩れ落ちた。クレジットカードがあるし、電車と飛行機があればワンチャン帰れるかもと思ったが、そんな話ではなさそうだ。
どうしようか、と頭を抱えていた時だった。
金属が擦れ合う音と走ってくる音が一斉に聞こえてくる。
「ラン様、ご無事ですか!」
武装した男女が数名駆け込んできた。やはり武士のような恰好ではなく、異国情緒あふれる甲冑を着こんでいる。弓や槍を携えており、兵士というべきなのだろうか。
「何やら言い争う声が聞こえましたので来てみれば、この女は侵入者ですか」
スラッと抜かれた剣に驚いてしまい、慌てて正座をする。切っ先を喉元に突きつけられた私は冷や汗が止まらない。戸惑いなく抜かれた剣は妖しく光を帯びている。
「奇妙な装いに大量に抱えた荷物。もしやシャーマンの類いなのか」
「しゃ、シャーマン?」
これ以上分からない単語を増やさないで欲しい。あと荷物が多いのは明日から連休だから買い溜めしていただけなんです。
「これは――」
彼の視線はある一点に注がれる。そう、私のスマホだ。事故とはいえ、彼の弱みを握っている証拠がこの中には保管されている。
青年は躊躇いがちに視線を彷徨わせてから、私の肩に腕を回した。そしておむもろに口に開く。
「……彼女は私の恋人だ」
今日二番目くらいの衝撃発言に目を剥く。否定しようにも状況的に難しい。何より絶対に殺される。
突きつけられた切っ先が少しだけ引かれた。
「本当ですか」
おっかない兵士に凄まれて、肩を竦めた。これは書類提出期限を守れなかった時の高校教師の眼差しと似ている。
返答に困った私の耳に、彼は低い声で囁いた。
「おまえ、このまま此処に居たら確実に死刑にされるぞ」
ボソッと言われた一言に戦慄する。私は笑顔で兵士の皆さんに宣言した。
「はい、私が恋人です!」
命を守るためならば恋人を名乗るくらい安いものです。
「言い忘れていたな。私はランだ。この国の第一位の後継者であり、次期瑞君となる者だ」
分からない単語がまた出てきたが、どうやら私が相手にしていたのは所謂皇太子だったらしい。
そんなことある?
「で、おまえの名は?」
「あ、結衣です」
促されるがまま私は素直に名乗るのだった。
不安を覚えるには展開が早すぎて、楽しむにはまだ余裕がない生活が幕を開ける予感がした。