8.森の中の追跡
私はベッドの中で目覚めた。
最初に目に入ったのは、梁が縦横に渡った丸太組みの天井。若草の匂いが漂い、開け放したドアと窓から夕陽が差し込んでいる。
起き上がって鏡の前に立ち、乱れた三つ編みを一旦ほどくと、毛先から始めて全体を丁寧にブラッシングした。
仕上げに柑橘が香るヘアオイルをなじませると、鏡台からリボンを一つ取り出し、うなじのあたりで結んだ。
鏡の中からは、険しい表情の潔子が見返している。
「大丈夫。俺に任せてください」と笑いかけると、鏡の中の潔子もぎこちなく微笑んだ。
西日が消える前にランプを灯し、外の井戸から水を汲み上げ、たらいに満たした。
窓やドアを閉めてかんぬきを掛けると、血のついた寝間着を脱ぎ捨て、しゃがんで下半身を洗った。
清潔な下着を身に着け、身体にフィットする木綿の黒いつなぎを着ると、その上から幅の広い革ベルトを腰にしめた。
足には、ふくらはぎまでの編み上げブーツを履いた。
倒れたテーブルをどけて、床板を一枚剥がすと、フェルトに包んで隠しておいた剣と弓矢が現れた。
弓に弦を張り、武具を携行するための皮帯を両肩から背中にかけて巻き付け、肩越しに剣と弓を収めた。
夕闇が迫っていた。
外から振り返ると、潔子の小さな家に邪悪な暴力が侵入して吹き荒れ、彼女が必死に抗った跡が否応もなく目に入った。
引き裂かれたベッドのシーツには、潔子が流した血の跡が残っている。
私はそっとドアを閉めた。
潔子の丸太小屋は、“エルフ村”のはずれにあって、集落よりも“実りの森”に近い。
実りの森は、彼女が造った。
様々な果樹が重なりあって生い茂り、交代で花を咲かせ、果実をつけてエルフたちの味覚を楽しませる。
私はそこに分け入った。
侵入者を追跡するのは簡単だった。
追われることを気にしていないのだろう。来た路をそのまま戻っている。
足跡もはっきりしており、下草や灌木の乱れと合わせれば、月明かりで十分だった。
潔子の感覚や肉体にも徐々に慣れてきた。
公安刑事だった頃、私は様々な身分偽装を行った。ビジネスマンやジャーナリスト、アウトロー、過激派などの活動家…
ブラッドワームを神の使者と崇めるカルト教団に、信徒となって潜入したこともある。
メタバースでの偽装工作経験もある。
だが、うら若きエルフに偽装するとは思いもよらなかった。
私は足取りを早め、やがて走り出そうとしたその瞬間、もんどり打って転倒した。
宙に放り出された感覚だった。
一瞬戸惑ったが、原因はすぐに分かった。
左手首に巻かれた銀のバングルに東京ガーディアンからのメッセージが浮かび上がっていた。
IT担当の光山がアバターのチューニングを完了したという。
インターフェースを通じて、私と同等の身体能力になるよう諸元を書き換えること。
それは、私が潔子のアバターを使ってファンタジアに潜入する条件の一つだった。
だが…
私は手近にあった切り株をメリメリと引っこ抜いた。
「やりすぎだよ、光山さん。
これじゃゴリラだ」
私は苦笑いした。
走り出した。
また徐々にスピードを上げる。
五分ほど全速力で疾走ると、森の奥に明かりが見えた。
焚き火の炎のようだ。
私は慎重に近づき、闇に紛れて状況を観察した。
やや逡巡したが、武器を構えずに焚き火の明かりの輪の中に踏み込んだ。
潔子を襲ったモノが、焚き火をぼんやり眺め、地べたに座って爪で地面を引っ掻いていた。
彼女は“ゴブリン”と呼んだが、身長は二メートル近くもありそうだ。
全身の筋肉がいびつに盛り上がり、黒光りする体毛が覆っていた。さらに頭から背中にかけて、たてがみが生えている。
ハイエナの化け物といった見た目だ。
私に気づくと驚いた様子を見せたが、すぐにニヤリと笑った。
両眼に赤い光が灯り、アゴからはみ出した乱ぐい歯に唾液が滴った。
「そーかあ!潔子ちゃん、
初めてのオトコが忘れられないんだねえ?」
ゴブリンが甲高い声で嗤うと、先の尖った真っ赤な舌がダラリと垂れ下がった。
「いいところに来たねえ!
トモダチも来てるんだ。
ほらあ!」
森の暗がりから仲間のゴブリンが十匹ほど涌いて出た。
そのうちの一匹が私の腕を掴んで鼻をうごめかせた。
「ふうう、エルフの戦闘服姿あ…堪らん!
ささ、楽しもう」
汚い爪が潔子の細い腕に食い込む。
「離っせえ!ボケ!」
私は怒りに任せてゴブリンの手首をへし折ると、抜いた剣を下から振り上げ、そいつの肩から先を宙に斬り飛ばした。
切り刻んでやる。
簡単に死ねると思うな。