生死の対価
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女の口から出たとは思えないような台詞に、丸い茶目が驚愕に見開かれる。しかしすぐにドロシーの目が本気を物語っていることに気付き、口を押さえられて何も言えない少年は慌てて首を横に振って答える。こんな所で死にたくない、当たり前のことだ。
「では、対価を」
「ふあっ?」
「対価だ。一番は金だが、金になるものであれば何でもいい。百歩譲って食料。それ以外なら要相談。無いなら捨て置く」
淡々と告げられる言葉に、少年は信じられないようなものを見る目で女を見つめていたが、徐々に不快が顔に表れた。それを答えとして、ドロシーは手を離して立ち上がり、何事も無かったように無言で踵を返す。少年は慌ててドロシーの防寒着の端を掴む。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ! 置いていかないで!!」
「だから、対価を寄越せば助けると言っている」
「あ……あんた一体なんなんです?! 助けてくれたと思ったら、金を要求するなんて!」
「通りすがりの傭兵だ」
嘘ではない。ドロシーは男爵令嬢であるよりも、傭兵であると言った方が正しい。そも、グリエッタで普通の貴族令嬢などしていても、あっという間に非業の死を遂げるだけだ。貴族としてのマナーはやっつけ程度。ドロシーは物心ついた頃から戦う術を学んでいた。
先程の身のこなしも、祖父と父、師匠から教えを学び、長年の傭兵稼業で培った賜物である。
「お前が鳥女に殺されたら身ぐるみ剥ぐつもりだったんだが、生きてたからな。その分も含めて対価を貰わなければ戦い損でしかない。責任を取れ」
「ひっ! み、身ぐるみ剥ぐなんて、野蛮な……!!」
「大体の人間は下心があって人助けをするもんだ。純粋に人助けをする人間なんて少数で、私は大半に入ってるってだけの話だろう。で、どうする? 対価を払うのか、払わないのか」
「た、対価なんて、僕には……」
「なら諦めな。運が良ければ他の狩人が通りかかるかもしれないから、それに期待しな」
「そ、そんな……! た、助けてくれたら、必ずお礼をします! だから助けてください……!!」
絶望に顔色を染め、片腕と両足で地を這う少年の助けを求める姿は余りにも哀れだ。しかしドロシーの感情は微塵も揺れ動かない。少年の手を力任せに引き剥がす。
「見たところ武器もない。自分の応急処置もできない。他者に助けを求めるだけの対価もない。お前が死にかけてるのはまともな準備もなく山に入った自業自得だ。助けたら礼をする? 山を降りる前に何かが起こるかもしれない。お前を助けたことで不測の事態が起きるかもしれない。何かあったらお前にその責任が取れるの?」
刃のような無感情な瞳と容赦ない言葉が少年を貫く。ドロシーは本気だ。ここで何も出さなければ問答無用で置いていく。そう思わせる程、グレイシャーブルーの眼に迷いはなかった。
「己の愚かさを他人に尻拭いさせるのであれば、今すぐにそれ相応の代償を払いな」
「……で、でも、僕はホントにお金なんて持ってなくて……とう……な、ナビル子爵様からのご命令で、グリエッタ男爵様の元にお手紙を届けに……」
ぐずぐずと今にも泣き出しそうな少年の台詞の中に、馴染みのある単語を耳にする。踏み出したかけた足を止めた。
ナビル子爵領はグリエッタ男爵領の隣に位置している。人口はさほど多くないが、そこそこ広い豊かな領地だ。
ナビルとグリエッタ、その間には越えるのに最低でも一日と半日掛かる山に隔てられている。慣れた人の足でもそれくらいなのだから、他の人間ならもっと時間は掛かるだろう。
故に−−滅多に無いことではあるが−−グリエッタ男爵家宛の手紙は一度ナビル子爵家に届けられる。その後、山歩きに慣れたナビル領の配達人がグリエッタに届けるという仕組みになっていた。これはかつて王女が幽閉された時代からそのまま引き継がれているやり方であり、王都からやってくる使者の御足労を考えるとその方がいいだろうと変えることもなく続いている。
ナビル子爵領所属の配達人はドロシーも顔馴染みで、白い髭の生えた足腰の達者な老人だ。少なくとも去年にはこんな頼りない子供はいなかった。
「……配達人は老人だったと記憶しているが」
「っ!! は、はい、そうです! リクさんはもう年だからって、僕に色々と教えられてたんです! 僕は、その、去年の春からナビル子爵様の元にいて、グリエッタ男爵のご子息様やご令嬢様とも顔見知りです! 今回もリクさんと一緒に男爵領に来てたんです! 本当です! 決して怪しい者じゃありません! 信じてください!」
再び踵を返して尋ねると、少年が藁をも掴んだ勢いで喋り出す。
少年をよく見てみる。ナビル領主邸の人間とは古い付き合いだが、こんな少年を見たことがない。しかし、確かに彼が言っている子息と令嬢ことドロシーの義弟と義妹は存在するし、老配達人の名前も知っているよう。嘘ではないように思える。
だとしたら、本来の配達人である老人は何処に行ったのだろう。
「……リク爺は?」
嫌な予感に顔を顰めながら老配達人の居場所を尋ねれば、口籠られる−−そういうことだろう。
「少し待っていろ」
「え? あ、ちょっと!!?」
背後から引き留める声を無視して少年が逃げてきた方向に向かう。
間もなくして、老配達人と少年が最初に襲われたであろう現場に着く。その証拠に、事切れた老配達人の死体が転がっていた。
それはただの死体ではなく、見るも無惨な死体だった。片手片足がもぎ取られ周囲に転がっており、裂けた胴体からは臓物が飛び出して湯気を立てている。
一縷の望みにかけていたが−−やはり駄目だったか。こんな光景は二十四年生きてきた中で何度も見てるし、これ以上のものだって見たことがある。慣れているとはいえ、顔見知りの死体はいつだって胸に応えるものがあった。
吐き気を催す匂いが漂う中で口呼吸しながら立ち止まり、周囲を見回す。見覚えのあるリュックが雪面に無造作に捨て置かれている。老配達人の愛用のものだ。
取りに行き、中を開けると、数日分の水分と食料と一緒に汚れ除けの皮袋に包まれた平たい物体を目にする。老配達人がこれから手紙を取り出していたことを見たことがあったので間違いない。滅多に来ない手紙の送り主を考える。父の関係者か、妹か弟の友人か。ドロシーには見当もつかないが、ここで中を確認する理由はない。
不意に凍て付く一陣の風が肌を刺す。空を見上げれば、灰色の雲が北方から運ばれて来ている。山の天気は変わり易い。早く立ち去らねば、帰りは雪に覆われるだろう。
顔馴染みで、世話になった老人だ。本来なら弔ってやりたいが、土は深い雪の下だし散らばった体を集めるのは時間が足りない。これから降り頻る雪の下に埋められ風化するか、血の匂いを嗅ぎつけた獣の食事となるか。申し訳無い気持ちが過るも、諦める他ない。死者に向かって祈りを捧げる。
「……必ず、送り届けます故、思い残さぬよう。どうか、女神アルマナの元に御魂が還り付きますように」
この世界を造ったとされる万物の女神アルマナ。彼女の元に逝くことによって、死後の平穏が約束される。辿り着かなかった、その時は――嫌なことを考えてしまい、頭を振って想像を掻き消す。結局の所、辿り着いたかどうかなんて、誰にもわかりはしないのだから。
口は悪いが、顔を合わせれば山歩きの極意だと言ってあれやこれやと薀蓄を語る元気な爺さんだった。老配達人の冥福を祈りながら天を仰ぐ。
「で、手紙は? お前が持っているのか?」
「い、いえ……でっ、でも、魔物に襲われる前に手紙の入った荷物を投げていたので、何処かにある筈です!」
投げ捨てたというよりは、お前に託したのではないだろうか? 憶測である。だが、責任感の強い彼のことだから、そうした可能性を考えてしまう。そう思うと、初対面のこの子供か憎たらしい気さえしてきた。しかし、幾ら臆病者の弱者でもナビル子爵からの遣いを無下にする訳にはいかない。深い深い溜息を吐いて、ドロシーは懐から取り出した布で少年の傷口を縛る。少年は呻き声ともっと優しくと文句を口にするが、ドロシーはそれを黙殺。寧ろ痛むように傷口に触りながら布を肩口に巻き付け、それを終えると足の傷を確認し、問題ないのがわかると掌で思い切り叩いてやった。
「足の怪我は大したことない。というか、肩口だって鎖帷子着てたお陰で大したことないだろうに大袈裟に喚くな。応急処置してやったんだから後は自分で歩け。さっさとグリエッタ男爵家に向かうぞ」
「え……あ、ち……ちょ、ちょっと、待ってください!」
「何だ?」
苛立たしさを含んで振り返るが、少年はさっきと同じ場所に座り込んだままだ。少年は何か言おうとしたが、鋭い怒りを感じて口を開いたり閉じたりを繰り返し、視界を右往左往させる。何をしてるんだと口を開きかけたが、ふと気づく。
「……もしかして、腰を抜かしているとか言わないよな?」
少年の顔が一気に真っ赤に染まる。
情けない。はあ……と深いため息を吐いて頭を抱える。ナビル子爵家の遣いでなければ、一も二もなく置いていく案件だ。しかし、数少ない交友と友好を結んでいる家の遣い。我慢である。時間が勿体ない。ドロシーは問答無用で少年の体を持ち上げ、背負った。
「なっ、何するんですか!?」
「歩けなさそうだから背負ってやってる」
「背負ってる?! じょ、女性に背負わせるなんてそんな、僕は」
「じゃあ引きずられるか? それともここで私が迎えを呼んでくるのを待つのがお望みか? 血の匂いを嗅ぎつけた魔物や獣に襲われるかもな」
「そ、それは嫌です!」
「じゃあ面倒くさいからいいだろう、このままで。君なんか私がいつも持って山越えするときの荷物よりもずっと軽い」
「かる……」
「わかったら黙ってろ。耳元でぎゃあぎゃあ煩い」
背中で暴れる少年を振り返りながら睨む。ぐっと言葉を詰まらせて大人しくなったので、ドロシーは屋敷に向かって歩き出した。
背後でぐずと鼻を啜る音が聞こえたが聞こえないふりをする。ドロシーにも悼む心はあるが、他人を慰める義理はない。
吹き荒び始めた風が悍ましい匂いを吹き飛ばす。少しばかり後ろ髪が引かれるが、致し方がない。ドロシーは向かい風が押し寄せてくる方向へと足を進めた。
会話一つなく無言のままで、暫くすると背中から静かな寝息が聞こえてくる。死を目の当たりにした恐怖こらの解放と雪山越えの疲労で心身ともに消耗していたから仕方がない。だとしても、見知らぬ人間の背で寝るとは図太い神経だ。そう思うと、毛皮の防寒着に涎や鼻水を付けられてないか気になった。
もしもの時は捨て置こうと心に決めるが、幸が不幸か、帰り道には危険とは出会わずに山を降りることが出来た。
ありがとうございました!