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恋のブシツ

作者: 空野みち

「人は何故恋に落ちるのだろう」


陳腐な詩のような台詞だった。

しかし、反して感情の籠らない無機質な声だった。


また始まった……。

私は、フーと息を吐いて(此処でのポイントは細く長く)なるべくゲンナリとした感情が籠らないよう努めて声を出す。


「恋に理屈なんかありませんよ」


私の向かいの席でコーヒーを燻らしていた丹精な顔立ちが、私の答えに片眉をクイと上げた。

同時に顔の一部のような無駄のない眼鏡がチカリと光る。


ああ、来る。

私は、また深く息を吐いた。


「恋に理屈がない?何だその普遍的な知性のない回答は。君はまず、考えることを知るべきだ。人は学ぶ生き物であり知る喜びを知る。かのアリストテレスもこう言っている。哲学は驚きから始まる、と。いいか。そもそも先ず、恋という概念を考えなければならない。人は恋をするとどうなるのか。まずそこから検討しようではないか」


ああ、始まった。

いきなり私に変な質問を投げかけ、あまつさえ答えたら答えたで息継ぎなしで悪態交じりの文句が帰ってくる。

この、賽崎 巳継という男。

私の所属する「文庫サークル」略して「文サー」。

文庫本好きの文庫本のための健全で素晴らしいサークルだ。

活動内容はいたってシンプル。好きな文庫本を持ち寄り、読む。

これといった崇高な目的はないが、各自好きな時間に勝手に部室のコーヒーを片手に文庫本を堪能できる。

私にとって、これとない最高のサークル……なのだが。

最近の問題。

この一年上の先輩、賽崎という男の存在。

類稀なる丹精なルックスと、少し冷たい雰囲気。

初めて文サーを訪れた時、長い足を組んで文庫本を捲る仕草のあまりの美しさに息を飲んだ。

賽崎は大学内でちょっとした有名人で、容姿端麗・成績優秀の賽崎と噂を耳にしない人はいない。

しかし、そんな彼が一躍有名人なのには他にも理由がある。

彼に興味を示したありとあらゆる女性たちは言った。「彼ってついていけないわ」と。


彼との会話が成立する人がどのくらい居るだろうか。

彼は、興味のあることしか語らない。

興味のあることしか耳を傾けない。

つまり、コミュニケーション能力皆無だ。

成績優秀・容姿端麗にして奇人変人難攻不落な男、それが賽崎巳継。


あんなに美しい様子で読んでいた本の題名がエロティシズムの何たらとかいう題名だったのには、はっきり言って引いた。

私のトキメキを帰せこんちくしょう。

若干、文サーへの入部を考え直しかけた私であったが、回りの文サーメンバーによれば、「変に刺激をしなければ彼はいたって大人しく健全な部員である」らしいとのこと。

よって、私は晴れて文サーメンバーとなったのである。


だがしかし、何故か入部して以来、私は賽崎さんに何ら干渉されている。

何故か彼が本を読んだ後、疑問や感想を私にぶつけてくるのだ。

最初は、まさか自分に言っているとは思わず、思いっきりスル―してしまったが。

「君だ、君に言っている」と半ば尋問のような声で言われてしまい、私は泣く泣く読みかけの(ラブ・ファンタジー)から顔を上げたのである。

その宇宙規模に難解な質問に、私が彼の納得のいく回答を返せるはずもなく。

この時も彼に散々嘲られた挙句、延々と彼の持論を聞かされたのである。

そしてそれ以来、この時に留まらず彼は私に何だかんだと話しかけてくるようになった。

私が何時、彼を変に刺激した。文サーメンのウソつき!


そして、この自由参加のサークルであるに関わらず、この男と私の遭遇頻度と言ったら無い。

部室に来る都度この人いる。どういう因果だ。


今日も2限が休講で、暇を持て余し部室に来てみれば・・・やっぱりいるし。

しかも、二人きり…。この人、講義にちゃんと出てるのだろうか。

寧ろ、この部室に住み着いてるんじゃ…。


「聞いているのか。君は」


「はいはい。聞いていますよ。A10神経を流れる快感物質ドーパミンが視床下部を刺激して性欲が発生する。また自律神経から体中に伝達されて、心拍上昇。あ、私恋してる。ですね」


何時の間にか持ち出されたホワイトボード。

描かれている賽崎画伯による脳の図を頼りに、今まで彼がつらつらと言っていた事を、聞いていた証明とばかりに述べておいた。どんな講義より集中力を要するな・・・。


「大分簡略化されているが……まあ、良しとしよう」


「ありがとうございます」


多少不満気ではあるが、どうやら及第点はもらえたらしい。


「それで、だ。恋だの愛だのはホルモンによる因子メカニズムに過ぎない化学反応ということになる」


「ロマンの欠片もない言い方ですが…まあ、そうなりますね」


「だが、これは恋をすることによって起こる反応であって、恋に落ちるシステムではない。つまり、恋をすることが前提条件であるからして…」


賽崎さんは、またブツブツと迷宮に入り込んでいく。


実際私要らなくね?と思わなくもないのだが、話を聞いていなかったり、話を無視して本を読んでいると怒るのだ。吹雪の如く……。


「好悪は扁桃体から発生すると言われ、感情の源は扁桃帯により左右される。そもそも、愛情とは幼少期の親からの愛情、つまり愛着理論を……」


「賽崎さん」


私は永遠に続きそうな彼の言葉を遮った。

此処は、この幾日で培った賽崎スキルが必要だ。

止めるタイミングを間違ってはならない。

彼の言葉は冷静かつ理論的であるが、どうもまどろっこしく伝わりにくいのである。


「何を仰りたいんです?」


彼の言いたいことは、何故恋に落ちるとか物質がどうとか、そんなことではないのではないかと思ったのだ。

何故って、それは。

何となく。

賽崎さんは私をじっと見ると、彼らしくもなく視線を泳がした。

ほら、図星。


「恋に落ちた」


何時も自信満々に朗々と語る彼にしては、頼りなく掠れた声がそう告げた。


「へえ!そうですか。それで相手はどんな人です?」


あっけらかんと感心した声を出して賽崎さんに笑いかけてやる。

彼は顔を真っ赤にして、グルリと後ろを向いた。

乱暴にホワイトボードに描かれた図を消していく。


あら、いじめすぎた?


「とんでもない鈍感で知性の欠片もない。ジョルジュ・バタイユを知らないなんて話にならない。題名の印象だけで低俗で卑猥な想像を抱くなど!外見が秀でて美しいわけでもない、心根が聖人君子のようなわけでもない。無駄に恋愛に夢を抱いて、キラキラな表紙の本ばかり読んでいる。そんな奴だ!」


あからさまな上に酷。


貴方が思うより、私は鈍感な訳ではありませんよ。

賽崎スキルをナメテもらっては困る。

何で、毎回部室で会うのかとか、毎回変な話を振ってくるのかとか、気づかないはず無いでしょう?

私は、にんまりと笑った。


後姿からでも賽崎さんの耳が赤いのが分かる。

恋の物質分泌中。


賽崎さん。まだ気づいてあげません。

だって悔しい。あなたより先に私の方があなたを好きになったなんて。

だから、あなたが言うまで私は教えません。


嗚呼、本当に恋とは不思議だ。

何だって、こんな厄介な人…。


「何故、そんな奴に恋に落ちたか。自分が理解できん」


どうやら落ち着いたらしく、すっかり元に戻った白皙の美貌が振り返り不遜に眼鏡を挙げて見せた。

そんなの、お互い様ですよ。


「恋は理屈じゃないんですよ、賽崎さん」


まだまだ、私たちの攻防は続きそうだ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 恋の物質分泌中って、なんかいいですね。
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