たったひとつの、ウソ。
貴方ってば…どうして、こう、最後の詰めが甘いのかしら。
私に言ってたでしょう?
「これなら完璧だ!」って。
「幸せな老後を迎えようね」って。
私、今、全然…幸せなんかじゃ、ないわよ?
こんなにぼろぼろと泣いてる私が、幸せそうに見える?
飾り気のない真っ白な部屋で。
ねぇ、お願いだから。
困った笑みを浮かべて『もう来ないでいいよ』なんて、言わないで。
ただそばに居るだけで、嬉しいの。
その顔が見れるだけで、幸せだから。
『話ができなくなるから』
それなら、私がいっぱい、お話しをしてあげる。
常にそばにいることは、許してもらえなかったけど。
毎日の『おはよう』くらいは、言わせてよ。
私が入院した時、毎日、来てくれたじゃない。
通勤の途中に寄ってくれただけだから、すぐいなくなってしまったけれど。
あの時の私の、唯一の楽しみで……心の支えだった。
『キミの負担になりたくないから』
……そんなのどうでもいいよ。
今まで私の方こそ、いっぱい面倒をかけてきたじゃない。
どんな時だって、私の事を1番に考えて、動いてくれていた貴方。
今くらいは、貴方を1番に考えさせて?
時間はたっぷりあるんだから、一緒にいさせてよ。
『どうせ寝てるだけになってしまうから、来ても気づけないし』
それでも、良いんだよ。
いてくれるだけで……良いんだ。
静かにしてるから、そばに居させて?
『キミの泣き顔は、見たくないから』
それはごめん。
でも、ここだと泣かない。頑張るから。
腫れぼったい目なのは、許して。
家にいるとね、涙が止まらなくなっちゃうんだよ。
今も止まらないけど。
でも、家にいるよりは、ずっと我慢できてるんだから。
付き添いはダメって言われちゃった。できる事ならずっとそばにいたいのに。
一人で二人の家に帰るのは、イヤだよ。
カーテンを閉めっぱなしの、薄暗いリビングで。
貴方があの日、何の気なしに椅子にかけた上着が、そのままになっているのを見つけて、涙があふれて止まらなくなる。
いつから置きっぱなしにしてたの?
下駄箱の棚上に、置き忘れられた作業用の軍手。
「こんな所に放置しないで、ちゃんと洗濯機に入れてよね?!」
怒る相手が、いない……。
何をしようにも、ここは貴方との思い出がいっぱいで。
堰を切ったように涙があふれてしまって、何もできなくなっちゃうんだ。
『暇でしょう?気晴らしに、どこか出掛けてきたら?』
夢と現の境界が、曖昧になってきた貴方。
それでも、私を優先しようとするのね。
面会時間いっぱいいっぱいでしか、一緒にいられないけど。
貴方のそばで…こうやって、隣に座って、ぼんやりしてる時間、好きだよ。
帰り際に、そっとキスを落とす。
……キスより涙が…たくさん落ちてしまったけど。
(ねぇ、私の負担になりたくないと思うのなら、早く帰ってきてよ)
もともと持病があって、若い頃から度々、救急車のお世話になっていた私。
私より、貴方の方がずっと長生きするんだって言ってたじゃない。
『キミが寂しくないように、しっかりと看取ってあげる』って笑ってたじゃない。
『キミの全てを見届けて。それから、僕も死ぬんだ』って。
じゃあ「頑張って私の倍以上、ずっとずっと長生きしてちょうだいね」って……。
言ったでしょう?
私より少しだけ年上の貴方。
普通に生きたのでは、私の方が長生きしてしまうから『頑張らないといけないね』って、笑ってたじゃない。
こんなところで、初めてのウソなんて、吐かないでよ……。
頑張って見せてよ。
私を1人にしないで……。
『結婚は人生の墓場だ』なんて、全然ウソ。
とっても幸せだった。
全ての医療器具から解放された貴方は、微笑んでいるようにも見える、穏やかな表情で。
今にも瞳を開いて、起き出しそうなのに。
すやすやと浅い寝息を繰り返しては、徐々に……呼吸すら止めてしまった。
やっと…やっと帰ってきてくれた貴方への、最後のキスは冷たくて、硬くて。
隣で泣いているうちに、朝が来てしまった。
つける人がいなくなってしまった結婚指輪。
何十年ぶりかに出した、お揃いのリングケースにしまおうとして。
中から、貴方に贈ったメッセージカードが出てきて、私の心を抉った。
こんな所にしまってあったのね。
これを書いた時の私は、結婚式の準備で忙しくて。
余裕がなくなってしまうくらいに、これからの事に頭の中がいっぱいで。
走り書きのように、少し歪んだ文字で書かれたメッセージ。
『これからもよろしくね』
なんで、こんなところから出てくるかなぁ……。
貴方ってば、考えることまで私と一緒なのね。と、また世界がぼやけて溶けてしまう。
ぽろぽろと、もう枯れ果てたと思っていたのに、涙が幾重にもあふれ出す。
(私もね、貴方からのメッセージカードを、ケースにしまってたんだ)
一緒にしまってあった、私のリングケースを開ける。
中からは、同じ模様のメッセージカード。
でもね、私が貴方に贈ったメッセージカードだけ、角が丸くよれて、古ぼけている。
理由は、ちゃんと知ってるからね?
いつもお財布に入れてたもんね。
……最後の入院の前に、指輪と一緒に…ここに戻したんだね。
『失くしたらイヤだから』
失くしてもいいのよ、こんなもの。
ずっと…お守りがわりに持っていてくれたんでしょう?
……持たせてあげればよかった。
今は、後悔ばかりが浮かんでは消え、涙をあふれさせる。
私への、今も真新しく見えるほどに綺麗な、メッセージカード。
(大切すぎて、指輪のケースにしまいっぱなしだった)
私なんかより、ずっと達筆な文字で一言だけのメッセージ。
『幸せにする』
ねぇ、ちゃんと責任持って。
最後まで幸せでいさせてよ。
また、涙が止まらなくなっちゃったじゃない。
ああ、でも、ここにいるのが私で良かった。
貴方に、こんな思いをさせずに済んだのだもの。
良かった……。
******
『生まれ変わったら、また一緒になろう!今度こそ、きっともっと長く楽しめる!』
「それ、いいね!…楽しみにしてるから、ちゃんと見つけてね?」
痛みを抑えるための点滴で、呂律がまわらなくなった口で、一生懸命に喋っては、優しい笑みを浮かべていた貴方。
「絶対に見つけてね…?」
『キミもちゃんと探してよ?』
「もちろん!」
私も…ぼやける視界の中、満面の笑みで答えた……。
でも、私もひとつだけ。
貴方にウソを吐いてしまったの。
貴方が、私にひとつだけウソを吐いてしまったように、私も、ひとつだけ。
ごめんなさい。
私は、貴方が見つけられないところに来てしまった。
さようなら。
大好きな…大好きだった、貴方。
お互いに、好きで好きで、ずっと一緒にいたいと思える相手を『運命の人』と言うらしいけれど。
その『運命の人だと良いね』って、指輪を交換したときに、仄かな確信を持って、お互いに笑って話していたけれど。
……その本当の相手は、私では無かったみたい。
私には、こちらの世界に運命の相手……番がいたらしい。
それは、この世界で生きていた、貴方ではなかったみたい。
そう知らされた時、不意に涙があふれてしまった。
……それほどまでに、私は本当に幸せだったから。
でも、私のこの幸せは……貴方と出会うはずだった『誰か』のものだった。
貴方を…貴方から受け取るはずだった、このたくさんの幸せを、私は奪ってしまったみたいなんだ。
ねぇ、貴方は本当に、幸せだった?
私なんかじゃなくて、本当の運命の人と出会えていたのなら、貴方は…もっと長生きできたのかもしれない。
……本当に、本当に、ごめんなさい。
今度こそ、ちゃんと運命の相手を…見つけてあげてね。
本当に詰めの甘い貴方だから、うっかり間違えちゃったのだろうけど。
今度こそ、今度こそ、絶対に見つけるんだよ!
それが私じゃなかったのは、とても悔しいし、悲しいけれど。
次こそは…もっといっぱい、楽しい時間を過ごしてね……。
******
「……セシリア?どうしたの?…入るよ」
「ん…?」
自室のドアが開くと、片手にランタンを持った、幼い男の子が入ってきた。
犬のような可愛らしい耳がついている、獣人の男の子で、私の弟…だ。
「泣いてるみたいな音が聞こえたんだけど、大丈夫?」
「大丈夫…」
「大丈夫には、見えないなぁ……」
無意識に鼻を啜ったら、ずぴー!と変な音がしてしまった。
ベッドのサイドに置かれている小さなテーブルセットの上にランタンを置くと、水差しから水を入れたコップを渡される。
「全然、大丈夫じゃなさそうだけど……怖い夢でも見た?」
「違うよ、すごく、懐かしい夢。懐かしすぎて、泣いちゃった」
少ししゃくり上げてしまっていて、言葉が途切れ途切れになる。
涙は…止めようと意識してるのに、ぽろぽろとあふれてしまって、止まる気配がない。
「そう?……夢は願望だったり、後悔だったりを強く見せるから。そう言う時はね…ほら」
ベッドから上体を起こしている、私の手をぎゅっと握りしめる。
幼児特有の丸みを帯びた、体温高めのほかほかふにふにの柔らかな手が、私の手を包み込もうと、頑張っている。
「やっぱり、冷たい」
「……冷えちゃったかな?」
「じゃあ、温まるまで繋いでてあげる。心が冷えると、手も一緒に冷えるんだよ。……温めると、一緒に心も温まる。さぁ、あったかいうちに寝ちゃおう?」
小さなランタンに照らし出される、弟の柔らかな笑みが見えた。
気持ちは落ち着いてきたはずなのに。
ほっとしたからなのか、余計に涙が止まらなくなる。
……幸せでいてね。
そう願ったけど。でも、やっぱり、貴方もこっちにいてくれたら良かったのに。
私が、貴方の運命の相手だったら良かったのに。
ランタンの炎が、ぼやけて、溶けて、ぽろぽろとこぼれていく。
私は今、それなりに幸せだよ。
優しい人たちに囲まれて。
守りたい人たちもいる。
ねぇ、貴方は、幸せ?
どうか、どうか、幸せでありますように。
心から、たくさんの笑みを咲かせていますように。