誘拐の夜
廊下から差し込む明かりを頼りに、折りたたみ式の車椅子を広げる。静まりかえった部屋で安全装置がカチリと小さく音を立てる。僕はベッドで寝ているマナミを持ち上げ車椅子へと移した。全てを理解しているのだろうか、彼女は僕の顔を見るなり目に涙を浮かべた。
「人には女々しいから泣くなって約束させておいて、自分は泣くなんて、いったいどうなってるんだ?」
僕は耳元でそうささやき、ひざ掛けをマナミにかけ、ゆっくりと車椅子を押し出した。ひんやりとした深夜の廊下にはもちろん誰一人見あたらなかった。廊下どころか侵入した入り口の管理人室でさえ空っぽだったことを思うと、どんな警備体制をしているのだと怒りが込み上げた。けれども、そんなことを言えた義理じゃないかと、すぐに怒りは笑いへと変わった。念のために見つからないように、腰を曲げながらガランとした廊下を押し進む。点々と青白く光る非常灯が『出口はこちらです。』と僕らを導く。車椅子だけがカラカラと音を立てていた。
僕の誘拐計画は成功し始めていた。
残業から帰るとポストの中にはチラシやダイレクトメールがまるで冬の落ち葉のように溜まっていた。僕はそれらを無造作につかんでは、カンカンと鉄階段をのぼりながら仕分けしていく。桁が違いすぎて高いのか安いのか判断に困るマンションの広告、消印の無い近所の美容室の葉書、いつか覗いた買えもしない車のカタログなど。どれもこれも今の僕には不必要なものばかり。
ドアに鍵を差し込み部屋の中へと入る。冷え切った部屋の電気をつけ、テーブルの上にそれらを投げ捨てると、目新しい一通の茶封筒が混じっているのに気づいた。手に取り差出人を見ると、綺麗な筆字で村上裕子と書いてある。指で封の口を切りとると、中には緑色の紙と白いざらざらした紙が折りたたまれて入っていた。僕はその和紙のような白い紙を広げた。
田上悠介様
突然のお手紙をどうかお許しください。
悠介さんが私達の家族になられてから、もう二年が経ちました。早いものですね。初めてお会いしたのは夏祭りの暑い日。『今晩、彼氏を連れてくるからね。』って無邪気に笑った真奈美の笑顔を今でも昨日のことのように覚えています。父親がいないせいか、わがままに育ってしまった娘が連れてくる男性なんてどんな人かと心配していたのですが、悠介さんとお会いして、そんな考えを持ってしまったことを恥ずかしく思いました。私達家族は悠介さんの優しさ明るさに触れ、幸せを手にすることが出来ました。
この一年、悠介さんの献身的な介護のおかげで、真奈美は奇跡的に意識を取り戻し、今では少しの音を発することが出来るようになりました。しかし先日のお医者様の説明では、長いリハビリをしたとしても、立って歩くことはおろか、会話をすることなどは難しいだろうとの説明を受けました。もちろん私も真奈美もあきらめないですが、悠介さんにまで過酷なリハビリ生活をつき合わせることは出来ません。幸い向こうの遺族の方から死亡保険金の一部を頂いたおかげで、施設の費用を賄うことは出来ます。
二年間という短い結婚生活でしたが、悠介さんはまだ二十八歳。まだ十分に青春を謳歌できる年齢です。どうか娘のことを忘れて、新しい人生を歩んでください。そして私達にしてくれたように、新しい家族を幸せにしてください。くれぐれも私達のことは御心配なさらないで下さい。もともと親戚も無く、二人家族で楽しんできた身です。また親子水入らずの生活に戻るだけです。そしてこれは私だけの考えではなく、真奈美自信が望んでいることでもあります。どうかわがままな娘の最後のわがままを叶えてください。
お手数ですが、同封しました…。
僕はその手紙を読み終える前にくしゃくしゃに丸めて壁へと投げつけ、同封してあった緑色の紙にいたっては、封筒ごとビリビリに破りゴミ箱へと捨てた。
空っぽの管理人室の前の自動扉が開き、拍子抜けするぐらい簡単に僕らは外へ出ることが出来た。小高い丘の上にある施設なので、そこからはひっそりとした街を見下ろすことができた。そして来るときは気づかなかったのだけれども、空には無数の星が散らばっていた。
「寒くはないかい?」
僕の問いかけにマナミは小さく「ん〜ん。」とだけ答えた。僕は持っていたポケットタオルで濡れたマナミの顔を拭う。
「ねえ、中学生の時にも、マナミを誘拐しに行ったのを覚えてる?」
アスファルトの上をカラカラと音が鳴る。
「夜中に抜け出してもらってさ、自転車で二人乗りして裏山の公園に星を見に行ったのを覚えてないかな。なんだかあの時みたいだなって。ねえ、見てよ今日の夜空、すごい透き通ってる。ほらほらオリオン座。」
僕は指を刺してから少し車椅子を傾けた。あの頃と同じで僕は星座といえばオリオン座と北斗七星しか知らない。
「悠介、そういえばオリオン座のオリオンってどういう意味なのか知ってる?」
冷えたベンチの上でマナミが僕にそう質問をしたのを思い出した。僕は適当に『蝶々とか砂時計とかリボンの意味なんじゃないかな。』って見たままのことを言ったのを覚えている。なにしろそのときの僕ときたら、どうやってムードよくマナミとキスをしようかということで頭がいっぱいだったし、それになにより意味なんてどうでも良かったのが本音だった。周りの人や偉い学者とかがなんと言おうとも、僕らにとってそれが美しいものでさえあるならば、たとえその呼び名が『ひょうたん座』みたいな間の抜けた感じの名前であろうとも、僕は一向にかまわない。
車の助手席にマナミを優しく乗せシートベルトをつける。かがみこんだ僕はもう一度吸い込まれるかのように夜空を見上げた。もし輝き続ける星や月が無くなってしまったら、いったい僕は闇夜の中でどうやって生きていけば良いのだろうか?宇宙に浮かんだ永遠の蝶々がにじんでみえる。僕の顔を見たマナミが今度は高い音で「ん〜ん。」と『泣くんじゃない。』と問いただす。僕はマナミとの約束を破ってしまっていた。結婚式で号泣しすぎた翌日、『女々しい男は嫌いだから、もう私の前では泣かないで。』とマナミと指切りをした。そしてあれから一年が過ぎて、マナミが事故にあったときでも僕は涙を見せなかったのに、僕は今、まるでせきとめたダムが崩壊したかのように涙を流している。なぜなら周りがなんと言おうとも、あなたのいない干からびた世界を思うと、泣かずにはいられないからだ。
無数の星を背後に、月明かりがマナミの透き通った頬も輝かしていた。
「『女々しいから泣くな。』って言ってたくせに。」
そう僕はつぶやき、もう一度マナミのほうへと身を乗り出した。初めてキスをした星空の下のように、胸を高鳴らせながら。
完
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