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2|斯人(2)

***


 きれいな夕日が見えたら、次の日は晴れる。言い伝え通り、今日は文句なしの晴天だ。

「では、行ってきます……お館」

 斯人は扉の前で深々と頭を下げると、六年ぶりの外へと足を踏み出した。予想以上のまぶしさに、目をつぶる。

「大丈夫?」

「慣れてくるとは思います」

 斯人はジャケットを脱いで、シャツに栞付きリボンタイを結んだだけの格好だ。さすがに、燕尾襟つきのテーラージャケットは人目につく。

「それにしても、詩音はどうしてまた、この森に入ったんですか」

「お父様と喧嘩しちゃって。でも、おかげで斯人くんに出会えてよかった」

「そうですか」

 斯人は町へ下りる道を覚えているらしく、詩音と遜色ない足取りで歩を進めていく。やがて、木立を抜けると、斯人は嘆声を漏らした。

「懐かしい……ような、新鮮なような。複雑ですね」

「六年ぶりだもの、もう新しい世界みたいに感じるでしょ」

 しきりにきょろきょろしながら、斯人は詩音について歩いた。

「この辺りはあまり覚えていません……あっ、もしかしてあれですか?」

 斯人が車道を挟んで向かいの道を指さしながら、青信号の横断歩道を渡ろうとした。その時、

「危ない!」

 詩音が慌てて斯人の腕をつかんで引っ張った。二人の目前で、車道の端を歩道の延長線と勘違いしているのか、信号を無視した自転車が走り去った。

「もう、危ないじゃない、ちゃんと周りを見ないと」

「青信号でしたよね」

「それでも! 右見て、左見て、もう一度右見て、渡るの!」

 長らく道路に出ていなかった斯人は、そのあたりの感覚が欠如しているらしい。詩音の言いつけに素直に従って安全確認した後、斯人は改めて道を渡った。

 そして到着したのは、今も花びらを舞わせる桜並木が植えられた歩道。人々が一瞥もくれずに通り過ぎる街路樹の一端で、斯人は満開の桜を恍惚と見上げていた。

「きれいでしょう?」

「きれいです……薄い花びらが、日の光の中で輝いて……詩音が言ったとおりです」

 斯人は、この世の全てに意識をつなげるように瞑目した。

「枝が揺れる音、乾いた晴れの香り、日差しの温かみ……。ああ、忘れていました。これが……世界なんですね」

 その言葉に、詩音は心が震えるのを感じた。彼女が何の気なしに過ごしてきたこの世界は、斯人が長く長く待ち望んでいた、尊いものだったのだ。今、積年の憧れの真ん中に立った彼の心中たるや、詩音にははかり知ることができないだろう。

 斯人はそっとまぶたを上げると、詩音を見つめ、花の色より淡い淡い笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、詩音。あなたのせいで自由になれて、よかった」


***


 そのまま、詩音は斯人を連れて町をそぞろ歩いた。公園、神社、小学校……と見てまわっていると、だんだん斯人の歩くペースが落ちてきた。

「もしかして、疲れちゃった? そっか、ずっと室内にいたから、あまり体力ないのかな」

「疲れた……んですかね、ちょっとよくわかりませんが……なんだか、この辺りに違和感が」

 そう言って、斯人は自分の腹部に手を当てた。詩音はぎょっとして、

「え、だ、大丈夫? 痛い? 気持ち悪い?」

「不快ではありますが……痛みとは違うような。何でしょう……」

「どうしよう、急に連れ出したから体調が……!?」

 慌てふためく詩音の耳に、小さな声が届いた。鳴いた虫は、斯人の腹の中にいるようだ。

「……もしかして、お腹すいてる?」

「ああ、そうか。これは空腹の感覚だったんですね」

「心配させないでよ、もう!」

 飲まず食わずの加護があった斯人は、空腹さえも忘れてしまっていた。脱力した詩音に、斯人は眉根を寄せて言う。

「意識したら、耐えられなくなってきました。あなたのせいですよ、責任とってください」

「わ、わかったってば。書寂館って、台所とかある? 十歳までは斯人くんもご飯食べてたんだよね?」

「ありますよ。冷蔵庫と、電子レンジと、コンロもそろってます。ただ、ホコリをかぶっているでしょうね」

「料理の前に掃除が必要だね……」

 詩音は苦笑しながら、スーパーのほうへ足を向けた。


***


 三階の生活空間は、階段がある本館だけでなく両翼にも広がっているようだった。台所があるのは、入口から見て左の棟だ。

 ようやく台所を使用可能な状態にしたころには、斯人の我慢も限界に近づいていた。

「詩音、もういいです。食べましょう、買ってきたもの、そのまま」

「だめだよ! 斯人くんは絶食後なんだから、ちゃんとお粥にするの! というか、卵とニンジン、生だよ!?」

 幸い、鍋などもそのままあったので、軽くすすいで使うことにした。詩音はスーパーで購入した白米と卵、ニンジンを袋から取り出し、そこでふと疑問を覚えた。

「水と電気って、どうやって引いてるの?」

「電気ではなく、霊力をエネルギーに変換して使っています。水はこっそり引いていますが」

「霊力で動く電化製品ってどこで買えるの……まあいいや。とりあえず、まずはお湯を沸かします。斯人くん、その間にニンジン切……れる?」

 頼みかけて、語尾は疑問形に終わった。よく考えれば、詩音が十歳の時は、包丁など持ったことがなかった。料理に興味が出だしたのは中学三年生ごろだ。心配する詩音の前で、棚から包丁を取り出した斯人は「こうですか?」と勢いよく刃を振りおろした。

「きゃあぁー!?」

「な!?」

「そんな切り方! 危ない! 手を切っちゃうし、ニンジンが宙を舞うよ!?」

「今の声、もしかして詩音ですか? 切られたニンジンの断末魔かと思いましたよ」

「マンドラゴラ!?」

 冷や汗たらたらの詩音が、「手は猫の手!」「野菜は押し切り!」と教授するが、台所に立つのも初めての斯人はぎこちない。

 詩音は、ほんの意趣返しの気持ちで、ちょうど同じ文言を引用してため息をこぼした。

「ああ、斯人くん。あなたがこれほどまで無能だとは思わなかったよ」

「ということは、あなたの目や耳やカリウムチャネルは節穴だったのですね。まあ、だろうとは思いました」

「だろうと思ったの!?」

 結局言い負けた詩音は、

「もう、そうじゃないってば! こう、だよ!」

 無気になって斯人の後ろに回ると、包丁を持つ彼の手に右手を重ねた。反対の左手は、やはり斯人の左手をつかみ、猫の手になるよう指の形を作らせる。

「こうやって野菜を押さえる! 包丁はこう! 動きを覚えて!」

 背中から前に腕を回し、斯人の両手を動かす。まるで二人羽織だ。ようやく斯人自身で正しい動きを作れるようになると、詩音はホッとすると同時に我に返った。異性の背中にぴったりと密着し、手を取っていた自分の体勢を客観的に見直して、彼女は瞬く間に赤面した。

(わ、わたしったら、必死だったとはいえ、なんてことを……!)

「詩音、水が泡立っています。これは沸騰ではありませんか?」

 詩音とは対照的に冷静な斯人が指摘する。なぜ落ち着き払っていられるのかと解せない気分で、詩音は鍋に白米を投入した。

「残りのニンジンはわたしがみじん切りにするから、卵を割ってくれる? これくらいならできるよね?」

「割ればいいんですよね。こうやって」

 台の角に思い切りぶつけられた卵は、あっけなく崩壊した。

「ああーっ、もう! 力入れすぎ! あと、卵は平面に打ち付けるの! わたしがやるから、斯人くんは台を拭いて!」

 あわただしくも調理は進んでいき、ようやく二人分のニンジン卵粥が完成した。

「今さらだけど、館内で食べていいの?」

「三階の、ここならいいですよ」

 椅子が三脚入れられた、四角いテーブルが食卓らしい。二人は向かい合うように座って、木製のさじをとった。

「いただきまーす!」

「いただきます……んぐ!?」

「え、どしたの!?」

 一口食べた斯人が、慌てて口を押える。ぎゅっとつぶった目じりに、わずかに涙が浮かんでいた。

「熱い……っ」

「あたりまえだよ! まさか、やけどしたの?」

「ヒリヒリします……せ、責任とってください」

「法廷で証言してもいいくらい自信あるけど、わたし悪くないよね。もう……お水とってくるから」

 台所に戻りながら、詩音はおかしくなって、くすくすと笑った。出会ったときは、人間離れした完璧さを醸し出していた斯人。実際、仕事も手際がいい。なのに、横断歩道の渡り方も危なっかしくて、料理はからっきし。あげくに食べ物でやけどするなど、まるで子供だ。

「子供、なんだろうな」

 蛇口をひねりながら、詩音はそうひとりごちた。

 六年間、仕事だけに従事してきた彼は、その間、あらゆる面での時が止まっていたのだ。いくら業務が玄人の腕だとしても、彼の中には、未熟な十歳の子供の部分が多く残されている。

(……たくさん、いろんなことを教えてあげたいな)

 春休みがもう残りわずかなのが、悔しくてもどかしくもあった。

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