1|詩音(7)
空気が揺らいだ。書寂館の動揺だ。詩音は間髪入れずにまくしたてた。
「いいの? あなたの維持に必要な唯一の仕書なんでしょう? 彼が死んだら、あなたも永らえられないはずよ」
生き物の最たる本能は生存本能だ。書寂館もその性質を持っているなら、生存に必要な仕書を失うことは避けたいはず。これだけ斯人を苦しめている書寂館も、本当に殺すことはしないつもりだろう。詩音はその仮説に全てをかけた。
「疑ってるの? ハッタリじゃないわ。わたし、本気よ」
詩音はカウンターへと飛び込んだ。引き出しをあさり、目についた千枚通しを手にすると、斯人のもとへ駆け戻った。そして、ぐったりと倒れこんだ斯人の半身を抱き起こし、白い首筋に先端を突きつける。
「いいこと? 命綱を殺されたくなかったら、日比谷くんを解放して! 代々続いてきたそんな因習、もう終わりにして!」
手が震えるのを隠しながら声を張る。ハッタリでないわけがない。本気などではない。出会ってたった数日だが、言葉を交わして、境遇を知って、助けたいと思った相手だ。千切れそうなほど細い呼吸を感じる。熱病に侵されたような体温が伝わってくる。そんな、虫の息となっている彼に凶器を突きつけて、平気でいられるはずがない。
あるいは、仮説が間違っていたら。書寂館が、それなら殺せと冷徹になったなら、全てが水泡に帰す。その不安もぬぐえない。
だが、それらを悟られれば終わりだ。なけなしの凄みをきかせて、千枚通しを握る手に力を込める。
やがて、正面の壁に、先ほどよりも幾分か落ち着いた字が現れた。
『明確な論理の破綻である。救いたい相手なれば、殺す由などなし。不自由ながら生き永らえさせるのが理なり』
詩音は冷たいつばを飲み込んだ。ここが正念場だ。怯えを片鱗ほども見せてはいけない。
「理由ならあるわ。友達が苦しんでいるのをこれ以上見たくないの。不自由なくらいなら、死んだほうがましよ。だってあの世は満ち足りているんでしょう」
『汝に、人殺しに手を染める覚悟があるのか』
「日比谷くんのためなら、わたしはやるわ。日比谷くんは外の世界から隔絶された存在。だったら、遺体は見つからないから、わたしは罪にも問われない。もう一度言うわ。わたしは本気よ。日比谷くんも、それにともなって書寂館、あなたも殺す覚悟がある」
書寂館は、それきり黙りこくった。詩音も、焦燥を押し殺して沈黙を貫く。静まり返った館内で、斯人の喘鳴だけが不規則に空気を震わせた。
引き延ばされたような時間の感覚。永遠に続かんとする膠着。
そして。
『小娘よ』
詩音の精神力が限界に達しようかという、その時だった。書寂館が、無音で沈黙を破った。
『私の負けだ。だが、契約は双方向であることを、努々忘れるなかれ――』
そう書かれた字が消えると、書寂館が放っていた威圧感は遠のき、赤くかすんだように錯覚していた視界も明瞭になった。何事もなかったかのように戻った空間に、座り込んだ詩音と、その腕に支えられた斯人が残された。苦しむ声も、荒い呼吸も、もう聞こえない。
詩音の手から、千枚通しが音を立てて落ちる。
「日比谷くん」
「……」
「……日比谷、くん」
「……」
「……斯人くん……!」
斯人の胸元に、しずくがしみを作った。危うくリボンタイの栞にこぼしそうになって、そっと手で覆う。
「ごめんね、斯人くん……殺すなんて言って、驚いたよね……怖かったよね……」
育ちのいい彼女にとって、ここまでの暴言は初めてだった。魂が汚れたと感じるほどの罪悪感が、今も胸の内でくすぶっている。それ以上に、弱った斯人に追い打ちをかけるような所業を働いたことが、心を痛ませた。申し訳なさと、緊張の糸が切れた反動で、涙が止まらない。
「でも、書寂館が、自分の負けだって言ってた。それって、要求を呑んでくれたんだよね。もう、自由なんだよね」
「……まったく、これからどうするんですか……」
斯人が薄く目を開いて、呆れたように息を吐いた。
「お館、言っていたでしょう……契約は双方向だと。感じますよ、僕の体が普通に戻ったのを。飲まず食わず不眠不休の加護を奪われました。……これからは、食費が必要になりそうです。睡眠時間も確保しなければならない。休んでいる間、仕事が進みません……。ああ、どうしてくれるんです。責任、とってくださいよ」
言葉とは裏腹に、表情は穏やかだ。これまでの、人間味のない張り詰めた緊張感は、夢の中にでも置いてきたように。
「うん……とるよ、責任。これからは差し入れを持ってきてあげる。料理も教えてあげるし、わたしにできるなら……仕事も手伝うから。でも、そっか。加護を奪われたってことは……引き換えに、本当に自由になれたんだね」
詩音の瞳に、先ほどよりも温かい涙が浮かぶ。
「これからは一緒に、たくさん世界を見よう、斯人くん」
「そうですね。では、まずは……」
斯人はゆっくりと首を巡らせ、床の上の桜に目をやった。斯人に最後の勇気を与えたその花は、日の光を透かして、きれいに咲いていたという。
「詩音。明日は、晴れるでしょうか」
「うん……きっといい天気だよ。だって、ほら、こんなにも」
美しい夕日は、森の中まで橙色の光をしみこませ、館の周りを温かく包んでいた。