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1|詩音(6)

「……――!?」

 二人の顔が凍り付いた。肌が粟立った。本能の底から恐怖を感じさせるそれは、すさまじい殺気。

 詩音は、慌てて辺りを見回した。何の変哲もない、図書館内だ。しかし、周りの空気が振動するほど、空間が赤く変色して見えるほど、館内は激情で満ち溢れていた。差し出していた手は震え、冷や汗が玉を結ぶ。何が起こったのか、と仕書に問いかけようとして、彼のただならぬ様子に気づいた。

「日比谷くん……?」

 斯人は瞠目したまま、胸に手を当てて、肩で息をしていた。状況をつかみきれない詩音が呆然としている間にも、だんだん呼吸は浅くなり、詩音以上の汗が頬を伝う。胸元をぎゅっとつかんで固く目をつぶると、彼はその場にくずおれた。

「日比谷くん!」

 詩音は悲鳴をあげて、斯人に駆け寄った。手にしていた桜の花が舞って、床に零れ落ちる。

「どうしたの、大丈夫!? 聞こえる!?」

 倒れた斯人のもとに膝をつき、声をかけるも、彼は片目を薄く開けるだけで精いっぱいのようだった。もう一度呼びかけようとして、詩音は憤怒の気配に顔を上げる。

 向かいの壁一面に、字が浮かんでいた。昼間見た、整った明朝体などではない。手で書きなぐったような、あるいはひっかいて傷つけたような赤黒い字が表していたのは、ただ一つ。

 『許さない許さない許さない許さない許さない』と、それだけを連ねていた。

「まさか……書寂館が……」

 真っ赤な殺気の中で、詩音が声を震わせる。やがて、壁の文字は新たな言葉を紡いだ。

『汝はこの私の仕書。外に出ること能わず。死より重い苦しみをもって、契約の重さを知れ』

「……お館……っ」

 斯人はかすれる声で呼ぶと、弱弱しく咳込んだ。

 詩音の手を取ろうとしただけで、外に出たいと望むだけで、瀕死の状態まで痛めつける。これが書寂館。これが斯人の主人。

「や……やめて、やめて! 日比谷くんは悪くないでしょう! こんなのひどいよ!」

『なんぴとの唆しであろうと、此奴の意思に相違無し。私を裏切る契約違反である』

 次々と浮かんでは消える書寂館の暴慢に、詩音は歯噛みした。斯人のためと持ち込んだものは彼の心を乱し、やはり斯人のためと差し伸べた手は、今も彼を苦しめている。何もかもが裏目に出た。

「ごめんなさい……わたしが余計なことをしたの、彼は悪くないの! お願いだから許して! もう解放してあげて! たった一人の大事な仕書でしょう!」

 詩音は力の限り叫んだ。書寂館は一言、壁に記すのみだ。

『誓え』

 主の命令を、斯人はかすむ目で捉えた。

『誓え、二度と望まぬと。汝は私の元で、代替わりのその時まで、使命を全うし続けられたし』

 結局、説得の余地などなかったのだ。今でさえ、詩音の訴えは露ほども響かなかった。書寂館の仕書への言葉は一方的な命令。もし書寂館が進言で納得する主であれば、斯人はとうの昔に自由を選んでいただろう。

『誓え、我が仕書よ』

「……っ」

『誓え』

「……僕、は……」

 腹ばいのまま、ゆっくりと視線を上げた彼は――ふと、床に散らばったものに目をとめた。薄紅の美しい花が、彼の瞳を縫いとめたように離さない。斯人は数回喘ぐと、再び伏して小さく呼んだ。

「……し、おん」

「え……」

「詩音……」

 斯人はくぐもった声で、ゆっくりと言葉をつないだ。

「桜は、どんな風に、咲いていたんですか」

「こ、こんな時に何を……」

「教えて、ください。木に残っていた、桜は、どこで、どんな風に生きていたんですか」

 必死にそう伝えた斯人の背中をさすりつつ、詩音は情景を思い出しながら答えた。

「街路樹の桜なの。道路沿いに咲いていて、日の光を透かしてきれいだった。たくさん、たくさん咲いてたよ」

 斯人が、浅く嘆息する気配があった。呆れを含んだ声で、途切れ途切れに言葉を絞り出す。

「全然……わかりませんよ、情景描写が、下手すぎです。言葉だけじゃ、何も伝わってこない。どんな香りがするんです、どれくらいまぶしいんです。どんな風が吹く中で、どんな音が聞こえる中で、あなたはそれを見たんですか」

 斯人は息を継いだ。諦めきれない未練が、吐いた息から聞こえた。

「ああ、詩音。この桜はいったい、どんな風に生きていたのでしょう。きっと美しい。きっと素晴らしい。世界は、そんな素晴らしいものであふれている。僕はそれを、いつまでページで知るのですか。いつまでも、ページで知るのですか……」

 そこまで言って、斯人は息をつめた。震えるほどに体を固くして、さらなる苦痛に耐える。書寂館の殺気は、質量さえもちそうなほどの濃度になっていた。彼の言葉が、反逆の意思として断罪対象となったためだ。

 そう――彼は、反逆したのだ。誰かの手を取って示すのではない、自分の言葉で伝える意志。

「日比谷くん……」

 詩音は降り続く殺気に慄きながら、必死で考えた。

(どうすれば……)

 ようやく、斯人は自分の気持ちに向き合い、決意したのだ。摘み取られてなるものではない。

(どうすれば、書寂館から解放してあげられるの)

 詩音の言葉には聞く耳を持たない。斯人の意見も聞き入れない。そんな非情な図書館に、一矢報いる手は。

 考えている間にも、斯人の体力は限界へと近づいていく。このままでは、命さえも危ない。

 斯人が、書寂館に殺される――。

(――!)

 一瞬の清風を感じた。詩音の中で、ある一つの仮説が組み立てられる。

 斯人は言った。彼は書寂館の唯一の仕書であると。

 そして、こうも言った。仕書は書寂館の維持に欠かせない存在であると。

 成長する有機体、生きている図書館――書寂館。

 ランガナタンは、新しきを取り入れ、古きを捨て去る図書館の性質を、生き物の本能になぞらえた。もし書寂館が、生き物のもつ本能を網羅しているなら――。

「――書寂館!」

 その声は、令嬢らしからぬ勇ましいものだった。

「あなた、それでも図書館なの!?」

 書寂館が、見えない視線を詩音へ向けた。ひるみそうになりながらも、彼女は勇猛果敢に叫ぶ。

「図書館は全ての人の知る権利を保障するところ! それは年齢も、性別も、どんな社会的地位も関係なく平等に与えられるべき恩恵よ!」

 斯人は伏したままだ。はやる気持ちを抑え、詩音は大図書館を相手取る。

「あなただってそうでしょう。住んでいるところが違う人にも知る権利を。その理念で存在しているんでしょう! 日比谷くんはそれを支えるために、あの世の人たちの『知りたい』という願望をかなえるために働いているのに……その日比谷くんには、外の世界を知る権利すら与えてくれないの!?」

 書寂館は黙ったままだ。詩音の言葉が多少なりとも効いているのかもしれない。だが、斯人への暴力は止まない。平行線の予感を覚えて、詩音は最後の手段に出た。

「……あなたがどうしても彼を離さないなら。これ以上拘束して、蹂躙して、苦しめるなら――」

 詩音の瞳が陰った。一線を超える躊躇は束の間、彼女は黒い言葉を放った。


「――わたしが、日比谷くんを殺すから」

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