1|詩音(4)
***
「日比谷くん!」
三度目の来訪は朝十時ごろだった。しんと静まり返ったがらんどうのフロアの真ん中で、斯人が渋面を作って詩音を見返す。
「どうしてそんな顔してるの?」
「……開館中に来なかっただけ助かりますけど」
「助かった顔には見えないよ。っていうか、今日は休館?」
「書寂館の開館時間は午後六時から午前五時までです。今は閉館中ですよ」
「えっ、まさか昨日のは、閉館直前じゃなくて、開館直後だったの!?」
斯人いわく、彼岸と此岸は昼夜が逆転しており、こちらが夜の間、あちらは活動時間の昼だという。夜に幽霊が出る、という一般論は、実はここから来ているらしい。
「ってことは、日比谷くんは夜通し接客して、昼は……寝ないんだよね。何してるの?」
「もちろん仕事をしようとしたところで、あなたが来たわけです。そちらこそ、何をしているんですか? 手の中に何を隠しているんです?」
斯人が、おわん型にして合わせた詩音の両手を視線で示す。詩音は無邪気な笑みを浮かべた。
「えへへー。日比谷くんにお土産。外の世界を見せてあげようと思って」
「外の世界を……?」
「ここにいたら、季節さえ感じられないでしょ? だから、まずは季節感のあるものをと思って、こちら!」
詩音が両の手を開くと、中からひとひらの白が舞った。花弁のように見えるそれは、しかし自ら羽ばたいて空中を泳ぎだす。
「モンシロチョウでーす!」
「館内にそんなものを持ち込まないでください!」
「えーっ、せっかく捕まえてきたのに……。日比谷くん、外に出なかったらチョウにも会えないから」
「会えなくて結構ですよ! 早く捕まえて逃がしてください、この虫愛づる姫君! 本に卵を産み付けられたらどうするんです!」
「あっ、それはダメ」
過ちに気づいても後の祭り、チョウはひらひらとトリッキーな動きで逃げていく。
「日比谷くん、虫取り網とかない?」
「外に出なかったらチョウにも会えない僕がそんなものを用意しているとでも?」
「だよねー……」
素手で捕まえようにも、気配を感じるとかわされてしまう。詩音が外で見つけたときは、チョウも相当油断していたのだろう。
「仕方ありませんね……来なさい、ハク!」
斯人が声を張り上げた。斯人以外いないはずの書寂館で、誰を呼んだのか。その答えは、力強い羽ばたきとともに現れた。大階段でつながる二階から舞い降りてきたのは、翼長二メートルはあろうかという猛禽。詩音の記憶の片隅が閃いた。
「この子……!」
「ハク、あのチョウを捕まえて外へ逃がしてください」
ハクと呼ばれた猛禽は、斯人の頭上を二周ほど旋回した後、鋭く滑空してチョウを捕らえた。そして、あれよあれよという間に、滑るように二階へと戻っていく。
「上に行っちゃったけど……」
「バルコニーから逃がしてくれるのでしょう。彼もそこから入ってきたはずです」
「というか……あの鳥は……」
「僕の式です。仕書の手助けをしてくれる霊的な存在といったところです」
「し、式って……。普通のフクロウに見えるけど……」
「フクロウではありません、ワシミミズクです。式でなければ、あのように的確に僕の言うことを聞くわけがないでしょう」
「それもそっか……うーん、いよいよファンタジーだね」
「事実は小説より奇なり、です。それはともかく、変なもの持ってこないでくださいよ」
「ご、ごめんね?」
***
「日比谷くーんっ!」
一旦帰って昼食後。再びやってきた詩音に、斯人はしかめっ面を向けた。
「どうしてそんな顔してるの?」
「当たり前でしょう。濡れた体で入ってこないでください、本はあなたと違ってデリケートなんです」
道中、突然の天気雨に降られたのだ。長い髪も白いブラウスもぬれそぼり、肌にぴったりとくっついてしまっている。
「失礼しちゃう! こう見えても、わたしだって繊細なんだから!」
「本は湿気に晒されるとカビが生えるんですよ。悔しかったらあなたもカビてごらんなさい」
「カビてまで張り合いたくない!」
白い頬を紅潮させて怒る詩音の相手はそれ以上せず、斯人は二階に向かって叫んだ。
「ハク! タオルを持ってきてください! 例の来客が濡れネズミです!」
「言い方!」
間もなくして、タオルを足でつかんだハクが飛翔してきた。心遣いには素直に感謝することにする。
「ありがとう、ハク。日比谷くんも」
「まったく……。そうだ、お館、大丈夫ですか。館内の湿度はどうです?」
斯人は部屋の壁に向かって話しかけた。書寂館への問いかけのようだが、相手はどのように答えるのか、と詩音が不思議に思っていると、
「わ……!」
目の前の現象に、声を漏らす。壁に、まるで浮き上がるように文字が現れた。明朝体で書かれたそれは、『問題ない。湿度は六割二分だ』と読めた。
「これが、書寂館の言葉!?」
「はい。お館は声を持ちません。その代わり、館内ならどこでも文字を記すことができるのです。壁でなくても、例えば手帳のページなどでも」
伝えることを伝えたからか、壁の文字はすっと消えた。
「ちなみに、プライベートな私室以外は、館内どこにいてもお館には僕たちの声が聞こえていますし、姿も見えています。下手なことはしませんように」
「しないよ!」
業務以外では不遜な態度の斯人をひとにらみすると、詩音は気を取り直してポケットからスマホを取り出した。元はといえば、これを見せに来たのだ。
「日比谷くん、あのね。ここに来るまでにすごいものを見つけたから、写真撮ってきたの」
「写真?」
詩音がスマホを操作すると、斯人は「これは……」と物珍しそうに画面を凝視した。
「虹! 山に入る前に見えたの。きれいに撮れてるでしょう?」
天気雨だからこその幻想的な七色の弧。山とは反対側、町の方角に、何にもさえぎられることなくかかっていたので、大喜びでシャッターを切ったのだ。
「これも、館内にいたら見られないからね。どうかな?」
「確かに、虹など久しく見ていませんね……」
気に入ったのか、彼は夜の水面のような目で、じっと写真に見入っている。詩音はそっと満たされた気分になった。今度は何を持ってこようかと考えていると、
「虹……まだ見えますかね」
「えっ?」
斯人は詩音にスマホを返すと、彼女を大階段へいざなった。初めて上がった二階には、やはり書架が立ち並んでいた。斯人はもう一つ上へ足を進める。ついて上った三階には、それ以上への階段がなく、ここが最上階であることがわかった。
三階は、これまでとは打って変わって本棚がほとんどなかった。それどころか、縦長のタンスや、テーブルを挟んで向かい合ったソファなど、生活感のある調度品が置いてある。
「ここは……」
「僕の生活空間です。書寂館は職場兼自宅ですので」
「だから三階だけ、階段とフロアとの間に扉があったんだね。プライベート空間だから」
「ええ、閉館中は今のように開け放っていますがね」
階段をぐるりと回って反対側へ行くと、ガラス戸が見えた。開けて入ると、そこは弧を描く柵に囲まれた半円のバルコニー。三歩進めばへりに着いてしまうほどのこぢんまりとしたもので、花もインテリアも何も置かれていない。だが、殺風景かといえば、決してそうではなかった。生い茂る緑ごしに、これだけ町並みが一望できるパノラマがあれば、鉢植えや飾り棚など不要だろう。雨は上がったようで、二人はそのまま外へ出た。
「わぁ……すごい。あ、あれ、わたしの家!」
「あの豪邸、あなたの家だったのですか……」
詩音は手でひさしを作って視線を巡らせたが、天気雨の奇跡は消えてしまったようだった。今はただ、トルコ石のような鮮やかな空に綿雲が浮かぶだけだ。
「……見えませんでしたね」
「そうだね……」
斯人は踵を返して、ガラス戸のほうへ戻った。戸に手をかけると、詩音に背を向けたまま、彼は静かに言葉を紡いだ。
「ここは、僕が唯一、外の世界に触れられる場所なんです」
「そう、みたいだね。でも、たった一か所でも、あってよかったじゃない。……よく来るの?」
「いえ、最後に来たのはいつだったか」
詩音は目を丸くした。斯人は外界を望んでいるはずだ。あえて室内に閉じこもるのは、なぜか。
だが、そのことを問う言葉は、斯人の失望したようなため息で、霧のように消えた。