1|詩音(2)
月夜のような声を聞いて、振り返った。声の主は、中央の巨大な階段の踊り場に、いつの間にかたたずんでいた。
モスグリーンをもっと暗くした、深い色のスーツのような服装をした人物だった。年若い青年――否、詩音と同じ年頃の少年だ。真っすぐな黒髪はおとがいの辺りまであり、前髪もやや長めだ。白い肌と線の細さが中性的な、人形めいた端正な顔立ち。しかし目つきは無感動に冷えていて、愛想という言葉からは地球半周ほど遠い。同年代のはずなのに、クラスメイトの男子たちが百年かかっても手に入れられないような、理知的で落ち着き払った風格をまとっていた。
「えっと……」
人間であるかどうかすら疑わしいほど洗練された雰囲気に、詩音は戸惑った。その間にも、彼は半紙のような静寂に黒い足音を落としながら、大階段を下りてくる。近づいてくるにつれて、スーツに見えたその衣服が風変わりなものであることに気づいた。テーラードジャケットの襟は、セーラーカラーのように後ろに流れ、しかもその裾は切れ込みにより分かれている。燕尾服のテールのようだ。白いシャツの胸元に結んでいるのは臙脂のリボンタイだが、結び目からは短冊のような紙が垂れ下がっている。見ようによっては栞のようでもあるそれには、左右対称の見たことのないマークが施されていた。手にはめているのはフォーマルな純白の手袋。一式、何かの制服だろうか。
装いに気を取られていた詩音は、階段を下りきった少年へのいらえを失念していたことに気づき、慌てて口を開いた。
「わ……わたしは白柳寺詩音。この山の表に住んでいます」
「どうやってここへ来たんです?」
「えっ?」
交通手段を聞かれているのだろうか。だとしたら徒歩だ。
詩音がそう答えると、少年は「そうですか」とまぶたを閉じて、
「では、もうお帰りください。そしてこの図書館のことは、どうかご内密に」
「……は!?」
淡々と言い放った少年に、詩音は詰め寄った。
「ちょ、ちょっと待って、どうしていきなりそんなことを!?」
「ここはあなた方に開かれた図書館ではありません。お引き取りを」
口調は丁寧だが、強制退館させようとしていることに違いはない。彼が何者かも分からないままだが、万人に開かれし知の殿堂から利用者を無下に追い出そうなど、褒められた行為ではない。取り付く島もない様子の少年をぎゅっとにらむと、詩音は記憶の海から武器を引き抜き、それを突き付けながら堂々と言い返した。
「あなた、知らないの? 国民はみんな、平等に図書館を利用する権利をもっているの。年齢とか、性別とか、そういうので差別されちゃいけないんだよ?」
――伊達に父と口論してまで司書を志望しているわけではない。詩音は、高校の勉学の傍ら大学レベルの図書館情報学を独学し、ある程度の理論武装をしているのだ。
少年は軽く目を細めた。それを不信と受け取り、詩音はなおもまくしたてる。
「嘘だと思う? じゃあ調べてみて。ユネスコ公共図書館宣言っていうのがあって……」
「――『公共図書館は、その利用者があらゆる種類の知識と情報をたやすく入手できるようにする、地域の情報センターである』」
詩音は瞠目した。ため息交じりに、少年は続ける。
「『公共図書館のサービスは、年齢、人種、性別、宗教、国籍、言語、あるいは社会的身分を問わず、すべての人が平等に利用できるという原則に基づいて提供される』……このことですかね」
よどみなく唱える口調には、一片の迷いも見られなかった。答え合わせの必要なく直感的に分かる。彼は、一字一句違えることなく宣言をなぞった。
唖然とする詩音に、少年は変わらぬ態度で応じた。
「確かにユネスコ公共図書館宣言にはそうあります。ですが、それがここにも当てはまるかといえば、答えは否です。まず、この図書館は公共図書館ではない。そして、国立国会図書館が基本的に十八歳以上しか入れないように、大学図書館が大学生にアドバンテージのあるサービスを行っているように、この図書館にも対象があるのです」
高みから降ってくるような少年の言葉に、詩音は何も言い返せなかった。自慢の知識は、一矢も報いることができなかった。たった一つの切り札を難なくいなされ、劣勢に立たされた詩音は、
「もう一度申し上げます。――お引き取りください」
有無を言わさぬ語勢に屈し、再び重い扉に手をかけた。
***
詩音は自室で、クッションを抱きながら仏頂面を浮かべていた。
結局、図書館での一件で毒気を抜かれた詩音は、素直に帰宅した。案の定、父は不安の海で溺死しそうになっていて、詩音は少し罪悪感を覚えたものだ。それからは、進路の話題は暗黙の箱に閉じ込めて、いつも通りに過ごすこと丸一日、現在午後五時四十五分。
「やっぱり気になるなぁ、あの図書館……」
春休みの暇に飽かせて、詩音はずっと山林の奥の不思議な図書館について考えていた。辺鄙な場所に立つ、ほぼ無人の書の宝庫。そして、あの慇懃ながら高圧的な態度の少年。
「内密に、か……。もしかして、何か秘密がある……?」
思い立ったが吉日、とすぐさま着替えて、母に断りを入れると、詩音は暮れだした森の中、バロックの館を目指した。行きは遮二無二走っていたため、往路の道筋は覚えていないが、帰りは冷静だったのでルートは大体わかる。しばらく進んでいた詩音は、歩を止めて辺りを見回した。
「この辺だと思ったんだけど……ないなぁ。まさか幻だったなんてこと……あっ、あれって」
近くの木の枝に、前回も見かけたフクロウらしき白い鳥が止まっていた。高さにして五十センチメートルを超えそうな大型のそれは、黄金色のどんぐり眼で詩音を見つめ返すと、突然翼を大きく開いた。思わず詩音は一歩退く。彼女の前を滑空し、紙飛行機のような姿は右ななめ奥へと飛び去っていった。その方向に灯る温かい光に気づいて、詩音は安堵の息を漏らす。どうやら、幻想などではなかったようだ。詩音は窓明かりへ向かって走り出した。
薄暗闇の中、どっしりと腰を据える図書館は、昼間とはまた違った趣を見せた。眠らない聖堂、というキャッチを思い浮かべてから、午後六時を過ぎてもまだ開館している事実に感心した。この辺りの市立図書館はもう床に就いている時間だ。
ドアノブを握ると、思考が額を横切るように駆けていく。昨日の少年はいるだろうか、また追い返されるだろうか、いや、いたとしても入る、そしてこの図書館の秘密を聞くのだ。彼らが走り去った後、よし、と詩音はドアを押し開けた。
中に入った詩音は、今度こそ幻覚を疑った。昨日とは全く様相が違うのだ。
書架の前では老若男女が品定めをし、ソファでゆったりと読書にふける人もいる。本を出し入れする小さな音、抑えられた話し声、めくられたページのため息。活気に満ち溢れた、静かににぎやかな図書館がそこにあった。
「なんだ……利用者、いるんじゃない」
自然と笑みを浮かべながら、詩音は昨日お預けを食らった右側の書架のほうへ歩き――すぐに、立ち止まった。ひどい違和感だった。こんなにもたくさん人がいるのに、まるで存在しているのは自分一人だけのような感覚。
その原因はすぐに分かった。足音だ。短い芝のようなカーペットを踏む音が、一つ分しか聞こえない。当たり前だ、見渡せば誰も彼も、足を動かして歩いてなどいない。床をすべるように移動し、無重力のような軽やかすぎる動きで椅子に座る。
これこそ幻影か。この世のものとは思えない光景に、しかし詩音は首を振る。彼らは、確かにそこに存在している。虚像などではない。かといって、この世のものと認めたわけでもない。それは、きっと。
「あなたは――!」
足音がした。暗色に身を包んだあの少年が、焦燥した様子で詩音のほうへと歩み寄ってくる。
「なぜ、またここに……」
「ねえ、ここってもしかして」
少年の言葉を遮っておきながら、詩音はそれを口にするのをためらった。いくら大胆不敵な彼女でも、認めるのには勇気がいる。だが、これが現実なら。
「――幽霊に開かれた図書館なの?」
少年の、苛立ちと諦念の入り混じったような渋面が、その答えだった。