霧の中の牙
霧の中をしばらく歩いたが、霧を抜ける様子が無い。
相変わらずほとんど先が見えないまま、ただひたすら歩いている状態だ。
同じところをぐるぐる回っている気さえする。
「まずいな……いったん戻るか?」
「あの」
「ひゃっ!」
焦り、考え事をしている時にいきなり声をかけられたので思わず変な声が出てしまった。
見ればさっき部屋にいたトロそうな奴が立っている、こんな所まで追いかけてきたのだろうか? とりあえず反射的に殴らなくてよかった。
「あの、これ、学校案内ですわ。さっきはあっという間に飛び出して行ってしまわれたもので……」
冊子を手渡された。
こいつ、こんな事でここまで追いかけてきたのか?
やっぱりどこか抜けているのかもしれない。
「サン・アルヴン魔術学院……魔術だあ? あの化物女、あたしを魔法少女にでもしようっていうのか?」
「あら、サン・アルヴンは古くからある伝統校ですわ。あなたも魔法を習得しに来られたのではないのですか?」
魔法……そんな単語を耳にするとは思わなかった。
そりゃあ使えれば便利そうだが、伝統ある格式高い全寮制の女子校なんて刑務所みたいなものだ、ちょっと笑えない冗談だな。
「わざわざ来てもらって悪いけど、こんなものは必要ない」
冊子をトロ女に突き返すと、しばらくキョトンとした顔をしていたが、すぐに何かに気が付いたような表情に変わった。
「あの、気を使っていただいて申し訳ありません。でもわたくしの分はもうありますから、受け取ってもらってかまいませんわ」
気を使って私の分をくれたとでも思ったのだろうか、お人好しめ。
「そうじゃない、戻るつもりはないと言ってるんだ」
「え……」
やっと理解したか、トロいのは見た目だけにしてくれ。
「でも、トイレは屋外にはありませんわ、校舎に戻りませんと」
「違う」
こいつには理解力というものが無いのか?
もう面倒くさくなってきた。
「おらっ!」
こういう時は思い知らせた方がいい。
勢いを乗せた回し蹴りをトロ女の顔面目の前で寸止めする。
「戻るならひとりで戻れ、あたしに関わるな」
これだけ脅せば諦めるだろう。
トロ女に背を向け、再び霧の中を歩き出す。
とはいえ、このままこの霧の中を進んでも意味がない気がするな……どうしたものか。
ドッ!
痛てっ、どうしようか考えていると突然背後から突き飛ばされた。
「なんだお前、いきなり――」
関わるなと言われて怒ったのかと思い振り返る。
だが、トロ女の姿は思っていたよりもずいぶん下にあった……地面に倒れていたのだ。
「お前……」
服が赤く染まっている、ケガをしているのか? 駆け寄ろうとしたが、別の気配を感じて足が止まる。
それと同時に、気配のした方向からゆっくりと何かが姿を現した。
獣……いや、姿は狼のようだがやたらと大きく二本足で立っている、狼男ってやつか? そんなものが本当に存在するのか?
「グルルル……」
真っ黒い影のような狼男は、低く唸りながらこちらの様子を伺っているようだった。
その刹那、狼男の体が揺らめくように動いたと思うと、その姿はいつの間にか私の後ろ側に移動している。
速い! 霧のせいもあってほとんど動きが見えなかった。
それと同時に頬にわずかな痛みを感じた、少し切られてしまったのか。
このままではバラバラにされかねない……だが、この状況に私の心が怒りで満たされていくのを感じる。
それは名前も知らない奴が私をかばったからかもしれないし、単純に切られて頭にきているだけかもしれない、ともかくこの場から逃げる気などは全くしなかった。
「あたしに……敵意を……向けるんじゃない!」
怒りに反して自分でも驚くほど頭は冷えていた。
今度は狼男が飛びかかってくるのがはっきりと見える、それどころか体が勝手に動くかのように一瞬早く自分のほうが狼男に飛びかかっていたのだ。
ドガッ!
鈍い衝撃音が響いた、私の放った蹴りが狼男の頭を捉えた音だ……私の足が無事な所をみるとそうなのだろう。
頭蓋に大きなダメージを負った狼男は大きくよろめいて霧の中に消え、そのまま二度と姿を見せることは無かった。
「ふん、ざまあ無いな……あ!」
そうだ、トロ女! 私をかばってケガをしたのか? 慌てて駆け寄りその体を抱き起す。
見れば背中に大きく傷を負っている……思ったより深い。
「くそっ、余計な事しやがって!」
トロ女を抱え上げて校舎の方へと走る。
死なれちゃ目覚めが悪い、脱走するのはまたいつでもできるだろう、だがこっちはかなりヤバそうだ……呼吸音が小さいし、体温がかなり低くなっている。
さすがに冷や汗が出た。
まっすぐ引き返しているつもりだが方向は合っているのか? でも進むしかない、ひたすら前に進むんだ。
「おかえりなさい、危ないところだったわね」
霧の中で声を掛けられ足が止まった。
いつからそこにいたのか、気付けば正面にあの先生と名乗る化物女が立っている。
もしかしてこいつなら、何とかなるかもしれない。
「あんた……なあ、魔法が使えるのか? こいつを治せるのか!?」
化物女はトロ女の体を受け取り抱きかかえると、そのまま後ろを振り返り、深い霧の中へと歩いていく。
「魔法は治る傷の治癒を早めるだけ、致命傷を負えば魔法ではどうにもならないわ。よく覚えておきなさい」
やがて、ふたりの姿が完全に見えなくなる。
ふと気が付くと、いつの間にか霧は晴れ、私は学校の正門前に立ち尽くしていた。
その日の夜、あのトロ女は部屋に戻ってこなかった。
どうしても寝付けなかった私は部屋を抜け出し、フラフラと誰もいない廊下を歩く。
そのうちに、自分でも気が付かないうちに随分高い所に出ていた。
古い見張り塔のようなものだろうか。
風が気持ちいい。
何も考えず、ぼんやりと闇夜を眺めるのも悪くない。
「こんな所で、どうかなさったのですか?」
誰かに話しかけられた、でも今は振り返る気力もない。
今日一日でいろんなことがありすぎた。
「知り合い……じゃないな、ルームメイト、か? そういや名前も知らないな。……そいつが自分のせいで死ぬかもしれなくて……いや、何でもない」
妙な気分だったせいで、関係ない奴にペラペラ喋ってしまった。ああ鬱陶しい、もう部屋に戻るか。
「エリザ……エリザベート・ヴラドヘイムです、忘れないでくださいね」
聞き覚えのある声にハッとした。
……トロ女か? 振り返るが誰もいない。
「こちらです、こっち」
おかしなことがまだ続いている。
声のする方を見ると、塔の外側の出っ張りにあのトロ女が蝙蝠のようにぶら下がっているではないか。
トロ女は目が合うとニコリと笑い、身を翻して目の前の手すりへと飛び移った。
「そういえば、まだお名前をお聞きしてませんでしたよね?」
「あ、ああ、メル……奥里 明瑠だ、メルでいい、よ」
この時、あっけにとられていた私の顔はさぞ間抜けだったろう。
後から自分でもそう思った。
「メル……素敵なお名前ですね。わたくしの事はエリザとお呼びください、本名はあまり知られたくありませんので……命の恩人であるあなただから特別に知っておいてほしかったんですの」
「命の……あ、そういえばお前、傷は?」
「はい、メルが助けてくださったおかげで夜まで持ちこたえる事ができました。もう何の心配もいりませんわ」
夜まで? それと傷が関係あるのか? かなりの深手、いや、下手をすれば致命傷だったはずだ。
「実はわたくし、吸血鬼なんですの。お日様が沈んでいる間は不死身なので、あれくらいの傷は問題にならないんです」
魔法の次は吸血鬼ときた。
夢だったらそこそこ面白かったのだが、どうも現実らしい。
こうして私はエリザと名乗る吸血鬼と『先生』に出会った、一日にふたりもの怪物に。
おまけに簡単には出られそうにない魔法学校……なんだか疲れがどっと出てきたぞ。
情報が少し多すぎるから考えるのは明日にする、そうすればどこまでが本当に現実なのかわかるだろう。