三途の川と不確実性の海
目を覚ますと、そこはだだっ広い草原だった。心地よい風が吹き、そして、太陽がないにもかかわらず明るかった。私は起き上がり、あたりを見渡した。
誰もいない。そう思った瞬間、私の背後に人の気配が現れた。振り返ると、そこには古代ギリシャ風の衣装をまとった美少年が立っていた。
状況が呑み込めない私に向かって、その美少年は爽やかな笑顔で話しかけてきた。
「おめでとうございます。あなたは天国に迎えられました」
私は困惑した。彼の言う通りここが天国だとするならば、つまり私は死んだということになる。まだやり残したことは山ほどあるというのに、まったくもって迷惑な話だ。当然そのような話を受け入れられるはずがない。
「唐突にそのような話をされても困ります。ここが天国だということは、私は死んだということですよね? だとしたら、それは私にとって天国ではありません。やり残したことが山ほどあるのです。それをやり遂げられなかったという後悔が残るのなら、ここは私にとって天国だとは言えません」
私はできうる限り冷静に答えた。それでもなお、彼は淀みのない笑顔でこちらを見ている。
「ここはまだ天国ではありません。そこの川を渡った先が天国です。あなたは天国へ逝く権利を得たのです」
彼の後方をよく見ると、なるほど、たしかに川があり、その向こうは霧のようなもやで隠れている。これが世に言う三途の川か、想像していたよりかずっと綺麗じゃないか、などと考えていると、彼はセールスマンのような物腰の柔らかさで、天国がいかに素晴らしいところかを説きはじめた。
「たしかに、やり残したことに未練は残るでしょう。しかしそれは、天国に行けば必ず解消される問題です。天国には、誰もが生前に経験したことのないような幸福があります。少し時間が経てば、やり残したことなどどうでもよくなることでしょう」
彼の言う通り、天国と言うからには、そこには幸福と呼べる何かがあるのだろう。彼の顔にも悪意は見られない。しかし私は納得がいかなかった。私の思考の中には、川向うの濃霧よりも濃い霧がかかっていた。
私はたまらず言葉を返した。
「あなたは天国には生前に経験したことのないような幸福があると言うが、それがやり残したことをやり遂げる幸福より勝っていると、どうして断言できるのか?」
すると彼は少し困ったような顔で、なだめるように語りかけてきた。
「心配はいりません。今までいらした方は、みな幸福になりましたから、間違いありません」
彼の表情から、私はそうとうに面倒くさいことを言ってしまったのだと察した。しかし言いだした以上、ここで自ら身を引くわけにもいかない。私は内心申し訳ないと思いながら、さらに畳みかけることにした。
「過去、すべての来訪者が天国を幸福なところとみなしたとして、それがこれ以後も続くかどうかはわかりませんよね? もちろん、今まで相当な数の人が天国を訪れたでしょうから、確率的にほぼ確実とみなすことに異議はありません。しかしここを訪れた人の中には、私のように天国行きを拒否した者だっているのではないですか?」
「それは……」
美少年は美しい顔をほんの少し歪めた。私は勢いに任せ、さらに続けた。
「一度拒否した人が、生き返ってやり残したことを片付け、再度訪れたということはなかったのですか?」
「ありました」
「ならば私もそうしたい。後からでも同じことなら、後回しにしても問題ないでしょう?」
「しかし生き返ってから悪行を行い、地獄に落ちた人もいます」
美少年は少しむきになったように言い返してきた。だが私はなおも食い下がった。
「もしそういった経緯で私が地獄に落ちるのなら、それは私の自業自得です。つまりそれは、私の個人的な話です。いったい何の問題があるのでしょう?」
「お言葉を返すようですが、現時点であなたの幸福は確定しているのですよ? 今さらより不確実なほうへ向かうことに、何の意味があるというのですか?」
美少年はついに質問を返すようになった。そこで私は彼の質問に素直に答えた。
「行為の持つ意味、それは解釈です。私にとって、不確実性のほうへ向かうことは必ずしも不幸なことではありません。対して、赤の他人から幸福だと勧められたことを鵜呑みにするのは、幸か不幸か以前に納得がいかないのです。そう、私が必要としているのは納得なのです」
思わず口をついて出た言葉だった。納得。私が求めているのは納得だ。納得の先にあるのは確かな満足。極めて個人的な、自己満足だ。うまくいくかどうか、幸福になれるかどうか、それらを含めた不確実性の海へ漕ぎ出すこと。それこそが、私にとっての納得であり満足なのだ。
「ならば何も言いません。あなたがそうしたいとおっしゃるなら、そのようにいたしましょう」
美少年はついに根負けした。ここでやっと、私の気持ちは鎮まった。
「ありがとう」
私がそうひと言だけ口にすると、美少年は複雑そうに微笑んだ。私は彼に背を向け、三途の川とは逆の方向へと歩いて行った。
目を覚ますと、そこは集中治療室のベッドの上だった。手術後だろうか。全身がところどころ痛い。そうだ、私は徐行せずに交差点に進入してきたワンボックスに撥ねられたのだ。
私は手足の指を動かしてみた。正常に動く。痺れもない。どうやら神経はやられていないようだ。治療が終われば、また普通の生活に戻れるだろう。運転手に治療費を請求するのが大変そうだが、それもなんとかするしかあるまい。
これから私は、三途の川より広いであろう、不確実性の海へと漕ぎ出さなければならない。その前に、もう少しだけ休養することにしよう。私は再び目を閉じた。