22 蘇る恐怖
大陸「人の地」の南西端、そこはオーグル山脈の終わりであり、裾野に広がる森に沿った街道も、南西からぐるりと大きく時計回りに北へと進路を変える。
その北へと街道が伸びる直前、リュウ達の車両は路肩に停車していた。
リュウ達が旅を始めて三日目の事である。
「あらぁ、見事に割れてんなぁ……スペア有って良かったな……」
「このタイプは弱いですからねぇ……スポークが有れば衝撃をもっと逃がせるんですが……」
前後に繋がる前側の荷車の横に降り、壊れた車輪を見下ろすリュウと同じく困った顔のミルク。
走行中に異音に気付いたミルクが、速やかに車両を停止させたのだが、既に車輪は割れてしまっていた。
車輪はスポークの無い一枚板の円盤で、車輪の外側に革が巻いてある簡素なものであり、ミルクの計算以上に衝撃緩衝に弱かった様だ。
「ま、スペアはまだまだ有るし、早く交換してしまおう……」
「そうですね、今ならまだ日暮れまでに町へ着けそうです……」
やれやれとリュウは後部荷車へ向かい、ミルクはその後をすいーっと飛んで付いて行く。
今日のミルクの服装は、暇を持て余したリュウによる青いデニム風ジャケットとショートパンツ姿であるが、天使の翼は移動が楽な為に随時使用している。
因みにココアは白のお揃いで、荷車内でアイスと一緒に雑談している。
「車輪割れちゃってました。エンバさん、車輪の交換手伝って下さい」
「分かりました」
「でしたら、私達も荷下ろしを手伝います」
「いえ、急ぐんでそのままでいいです~」
「え……でも……」
「いーから、いーから」
リュウがエンバに協力を求め、エンバが素早く荷車を降りる。
リーザ達も手伝おうとするが、それはリュウによって止められてしまった。
「荷下ろししなくていいのかしら……」
「リュウ様の事だから、何か考えがあるのよきっと……」
リーザが不安そうに呟き、リズは分からないながらもリーザを宥めた。
ジャッキなどという便利な代物が無いこの世界では、荷車の車輪を交換する場合、積荷を降ろさなければ車輪が浮かず、荷下ろしは必須なのだった。
リュウは壊れた車輪と車軸を繋ぐ留め金を外すと、スペアの車輪を取り出して来たエンバに声を掛ける。
「エンバさん、もう簡単に外れるんで、サクッと取り換えて下さいね」
そう言うとリュウは積荷が満載された荷車の下、車輪の縁に潜り込む。
「取り換えてって、リュウ様――」
「いきますよぉ! っしゃあぁぁぁっ! んぎぎぎぃぃぃ……」
「ちょっ!? と、なんて無茶な! く、これで……交換しましたっ!」
まだ荷下ろしもしていないのに、と怪訝に思うエンバが声を掛けようとするのを遮り、リュウの掛け声と共に壊れた車輪が浮き上がる。
数百キロはあろう荷車の車輪が浮き上がり、その有り得ない光景にエンバが目を丸くするが、ぼけっとしている場合ではない、と慌てて車輪を交換して叫んだ。
「ふい~、やれば出来るもんですねぇ……俺、頑張った!」
荷車を背中で押し上げていたリュウは、ギシッと音を軋ませながら車輪を接地させると、よろよろと荷車の下から出て来てニカッと笑う。
「大丈夫ですか!? 後は俺がやりますので、リュウ様は休んで下さい……」
「では、よろしくぅ~」
呆れ顔でエンバが残りの作業を引き継いで、リュウには休む様に言うと、リュウはふらふらと後部荷車に戻った。
「だ、大丈夫なんですか!?」
「今見たはずなのに信じられない……」
「リュウって、たまにとんでもない事するよね……」
リュウが戻った先では、残った面々が未だに信じられないといった顔で、リュウを見つめている。
「お疲れ様でした、ご主人様」
「さすがご主人様ですぅ」
だがミルクとココアは人工細胞を使っての行為だと分かっているので、当然の様ににっこり微笑んでいた。
「いやぁ、リーザさんが不安そうだったんで、急いでみました……」
「えっ、す、すみません……気を使って頂いて……」
照れ隠しに鼻をポリポリ掻くリュウに、リーザは少し顔を赤らめて恐縮する。
そこへ車輪の取り付けを済ませたエンバが戻り、男二人はその後の車輪の様子を確認しに前部荷車に移動すると、ミルクの操作で再び車両は移動を再開するのだった。
「姉さん、もう五年経つけど、やっぱり怖いんだ?」
「えっ!? そ、そんな事無いわよ……」
後部荷車では、リズがリーザに近寄ると、小声で意を決した様にリーザの怯えについて切り出し、リーザは狼狽えながらも否定しようとした。
「嘘よ……さっきまでの姉さん、凄く顔が強張ってたもの……」
「え、そんなに!? もう克服したと思ってたのに……」
だがリズに表情を指摘され、リーザはしゅんと肩を落とす。
「リュウ様もだからあんなに急いでくれたんじゃない……」
「ごめんね、リズ……私、リュウ様のお役に立つ事ばかり考えて、こうして付いてきてしまった訳だけど……さっきまでは車両が速いから、この危険な一帯もすぐに通過できると思って……本当に心配なんてしていなかったのよ……」
非難めいたリズの言葉にリーザは謝ると、それまでの心境をポツリポツリと言い訳する。
「でも車輪が壊れたって分かった途端に、姉さん真っ青になったわよ?」
「……」
だがリズに車輪が壊れた時の事を聞かされ、リーザは言葉も無く俯いてしまった。
「そんなに怖いなんて……そりゃ、あの事件は悲惨だったんだろうって思うけど、普段の姉さんはそんな事噯にも出さないし、今朝の説明の時も普通に話していたし、気付かないじゃない……」
リズは力なく俯いてしまったリーザの、普段の姉らしからぬ姿に驚いた。
どんな時でも気丈に振舞う姿を見てきて、とっくに忌まわしい過去など克服したと思っていたからだ。
しかも、今朝はリーザ自らその事を皆に注意喚起していた為、尚更今の姉の姿が意外だったのだ。
リズの言う「あの事件」とは、この南西へ向かっていた街道が、北へ大きく時計回りに曲がる一帯で度々起こる、略奪事件の内の一つだった。
以前からこの大きく曲がる街道一帯では、「闇の獣」と呼ばれる犯罪集団による略奪行為が横行しているのだ。
「闇の獣」は昼夜を問わず街道を通る者を襲い、物資だけでなく命をも奪う。
襲った痕跡はほとんど残さぬ周到さで、被害に気付き捜索しても、街道のどの辺りで襲われたのか、その手掛かりを見付けるのも容易ではなかった。
過去に数度、魔王の勅令により大規模な捜索も行われたが、その痕跡すら発見できぬ有様なのであった。
そして五年前、魔都からの帰路に就いていた、評議会で将来を有望視された四名の若者と、六名の護衛からなる一団が襲われ、忽然と姿を消してしまう。
だが、事件から二十日近く経って、南西端で大きく曲がる街道から北へ最も近い小さな町に、唯一の生存者が傷だらけで転がり込む。
その生存者こそ、四名の若者の内の一人であった、リーザなのであった。
リズは当時のふさぎ込んでいた姉を知っている。
だが、半年も過ぎた頃から、姉はAランクの治癒術士として自立し始め、リズはそんな姉に尊敬の念さえ覚え、その背中を追い掛けハンターになった。
今では口喧嘩もするが、それでも治癒術士としての姉は妹として誇らしく、いつまでも乗り越えるべき壁として存在する姉に、悔しい思いを抱いて来た。
なのに今、目の前に居る姉は、ただの怯える少女に思えた。
「ごめん……わ、私も大丈夫だと思っていたのよ……万が一の時も、リュウ様の桁違いの強さなら問題ないって……情けないよね、私……」
リーザも自身がこれ程までに動揺するとは思っておらず、戸惑っていた。
この五年でリーザは治癒術士として様々な経験を積んで来た。
ハンター達とチームを組んで、森を駆け巡り、危険な目に遭う事も多い。
それでも、あの時の無力な自分とは違う、と頑張って来た。
事件の事を忘れる事は無かったが、もうそれは過去の出来事なのだ――
そう思っていたはずなのに、あの場所から動けないと分かった途端、言い様の無い恐怖に囚われてしまったのだ。
「ううん、情けなくなんかないわ。姉さんはそれでも此処に居るんだもの……まぁ、過去の怖さよりリュウ様と一緒に居たかったって事じゃないの?」
リズは弱音を吐くリーザを励まそうとするが、良い言葉が浮かばず、からかう事で状況を変えようと試みる。
「な、何を言い出すのよっ!? 私はただ、少しでも力になろうと――」
「魔人族の女は強い男を好むもんね。そういう意味ではリュウ様は別格に強い訳だし、姉さんも紛れもなく魔人族の女って事なんじゃないの?」
当然の様に憤慨し、言い訳しようとするリーザを遮り、リズはここぞとばかりに日頃負け越している舌戦に挑む。
「ば、馬鹿な事言わないで! リュ、リュウ様は七つも年下なのよ?」
「そんな事言ったら、副町長のとこなんて、奥さん十も年上じゃない。それに、姉さん女房の家庭多いわよ? 姉さん、知らないの?」
慌てて反論するリーザが言葉を噛み、リズは余裕を持って反論を潰す。
そして少し小馬鹿にした様に、首をかしげてリーザを見る。
「あ……う……」
「あー、でもダメよ。リュウ様には私が居ますから!」
顔を赤くして言葉の出ないリーザに、リズは内心ニヤニヤが止まらない。
そして、勝利を確信しつつ止めを刺しに行く。
「そ、そんなのダメよ!」
「どうして? 姉さんは力になりたいだけなんでしょ?」
予想通りのリーザの反対に、リズは努めて平静な顔で、先のリーザ自身の言葉を引用する。
完璧なチェックメイトだ、とリズが思ったその時、リュウが立ち上がってリーザ達の下へやって来る。
「ッ! リズ……お、覚えてなさい……」
リーザもリュウの動きを察知し、悔しそうにリズを睨み、リズは舌を出した。
驚愕すべきは、姉妹のやりとりが周りに知られず小声で行われた、という事か。
「交換後の車輪に問題無さそうなんで、余裕で夜までに町に着けそうです」
「ありがとうございます、リュウ様。エンバもご苦労様でした」
「良かったです。町に着いたらリュウ様、一緒に買い物しませんか?」
交換後の車輪の報告に来たリュウに、リーザは慈愛の笑みを返し、リズは微笑みとねだる様な眼差しを向ける。
驚愕すべきは、この変わり身の早さの方かも知れない。
「リズ、買い物と言うけど、今から行くネクトの町には商店とか無いわよ?」
「ええっ!? それほんとなの? 姉さん……」
リーザにネクトの町の現状を聞かされ、あっさりとデートを潰されたリズは、疑いの目をリーザに向ける。
「オーグルトで言う、商店、露店などは本当に無いの。その代わりに宿で購入できる仕組みになっているのよ。ただし……いつも品薄らしいわよ?」
「そんなので大丈夫なの?」
だがリーザに真面目な顔で説明され、リズはこれから行くネクトという町が心配になった。
「宿の女将さんの話だと、魔都の援助が無ければ厳しいそうよ……出稼ぎに行く人も多いらしいし――」
「あの、リーザさん……そんなだと、食事代とか宿代とか高いんじゃないですか? 俺、あんまりお金持ってないんですけど……」
更に説明を続けるリーザだったが、横から話を聞いていたリュウに改まった口調で質問され、笑顔を向けようとして頬が引き攣った。
リュウの顔色が青かったからである。
「し、心配は無用ですわ、リュウ様! 実は町長から支度金を用意して頂いていますので、魔都まで何も心配する事は有りません!」
「え!? そ、そうだったんですか!? なんだ、良かった~」
慌ててリーザが支度金の話を聞かせ、リュウは安堵のため息を吐く。
「ご主人様ぁ、ヴォルフ退治の報酬、持ってますよね?」
「うん。銀貨十枚と金貨二枚だろ、最初に貰った生活費しか使ってないぞ?」
そこへ割り込むココアに報酬を確認されるリュウは、使い込んでないぞ、と言わんばかりに胸を張って答える。
「「えっ!?」」
「え……何?」
直後にリーザとリズに驚かれ、リュウは何かおかしな事言ったっけ、と少し不安になる。
「銀貨じゃないですよ、ご主人様。大銀貨ですぅ」
「あ? そうだっけ?」
「ご主人様、簡単に騙されそうで怖いですぅ……」
ココアは主人の間違いを指摘するが、主人の反応にちょっと呆れている様だ。
「ヴォルフって撃退するだけで、ドンガを仕留めた報酬の倍なんだ……凄い」
「何言ってるのリズ、倍だなんて少ないわよ……」
リュウとココアが話す傍らで、リズがその報酬の高さにボソッと呟くと、リーザが小声で異を唱える。
リーザにしてみれば、ヴォルフの危険度はドンガなどとは桁が違う。
一頭のヴォルフでも相当の怪我人や死者が出るのだ。
それが群れともなると、命が幾つ有っても足りやしないのである。
だが今はそんな事よりも、とリーザはリュウに話し掛ける。
「あの、リュウ様はずっとギルド内で過ごされてきたから仕方ないのですが、町に着いたら少し……物価についてお勉強しませんか?」
普段はしっかりしたミルク達が居るから問題ないが、リュウが一人でとなると、本当にココアの言う様な事態になりかねない。
それは買い物だけでなく、この先また魔獣を倒した場合においても、適性な報酬を受け取る為に必要なのだ。
「え、あー、そうですね……じゃあ、お言葉に甘えて教えて貰おうかな……」
リーザににっこり微笑まれて、リュウは少し照れながら提案を受け入れる。
頭の中は既に、宿で隣に座るリーザから優しく教えて貰う妄想で一杯だ。
「それなら私だって、教えられますよ!」
「何言ってるの、リズは魔獣の適正価格知らないでしょ? いつも受付のローズリーさんに任せっきりなんだから……」
姉さんにだけ良い格好させられない、とリズも教師役に名乗りを上げるのだが、どうやら不得意な分野が有った様だ。
「え、そんな事まで必要……?」
「それは分からないけど、必要になった時、リュウ様が困らない様にするべきじゃないの?」
「そ、そうね……」
いくら何でも大袈裟じゃないかと思うリズだったが、リーザの尤もな言い分には反論できず、この場は引き下がるしかなかった。
こうして、先程の舌戦での勝者と敗者は、あっさりとその立場が入れ替わるのであった。
「皆さーん、そろそろ手荷物の準備と、荷車に保管しておく荷物の整理をお願いしまーす」
タイミングを見計らったかの様に、ミルクが町での準備を促す。
一泊だけとは言え、その間に盗難などに遭わぬ様、置いて行く荷物は前部荷車と後部荷車の下の荷台に詰め込み、ミルクとココアで頑丈なワイヤーで包んでしまうのだ。
わいわいと皆が指示に従って荷物の整理を始め、必要な手荷物だけを用意して、全員が後部荷車の上部荷台に集まる。
するとミルクとココアによって、車両後部から直径二ミリ程のワイヤーが伸び、宿泊中では不要な荷物をそれぞれの荷台で一まとめにしてしまう。
「凄いですね、こんなに細いのに切れないなんて……」
試しに以前に使っていたナイフでワイヤーを切ってみようとするエンバは、その刃こぼれしてしまったナイフを見ながら感嘆の呻きを漏らした。
同時に、新品のナイフで試さなくて良かった、と安堵のため息を吐く。
「盗みに来た人イライラするでしょうね、見えてるのに取れないなんてね」
そう言ってリュウがニィッと笑うと、皆も呆れた様な笑いを漏らす。
そんなやり取りをしている間も、車両は北へと順調に走る。
やがて車両は立札の立つ小さな分岐を西に折れ、木を組んだだけの簡素な門を潜り抜け、ネクトの町に入って行くのだった。




