17 秘蔵書の行方
夕方に向けて日が傾きだした頃、修二のワゴン車の周りには再び大勢が集まっていた。
小菊が子供達に囲まれている横では修二が園長夫婦や職員らと談笑しているが、リュウとエリは忘れ物をチェックしに部屋に戻っていて、ここには居ない。
リュウに連れられた小菊が退所の意向を伝えた際、園長や職員達に動揺は無く、むしろ待っていたと思えた程に手続きは思いの外早く処理された。
小菊の父親の出所が近い事を知る彼らもまた、小菊の身を案じていた為である。
そればかりか、住まいを移すなら早い方が良いと小菊を促し、小菊は感傷に浸る暇も与えられぬまま、引っ越し作業に取り掛かる事となったのだ。
それを知らされた子供達は突然の事に動揺を見せたが、「小菊姉ちゃん結婚する事になったんよ」というエリのスタンドプレーが功を奏し、場はお祭りムードへと一転し、子供達は笑顔で荷物運びを手伝ってくれたのだった。
リュウは当初の予定であったパソコンと、大して多くもない衣類などをワゴン車へと運び込み、残った物は子供達へと譲った。
小菊の荷物はリュウの数倍は有ったが、それでもワゴン車には十分なスペースが残されていた。
これはベッドやタンスなどの家財道具が施設の設備であり、運ぶ必要が無かったからであるが、リュウの荷物が極端に少ないのは、衣類が元々少ない事と、小菊と違って書籍類をほとんど持ち出さなかった事にある。
いや、本来ならば少なくとも十数冊の書籍を持ち出すはずだったのだが、エリがリュウの部屋に移った事で、その所在が分からなくなったからだ。
「おい、エリ……」
「どしたん? リュウ兄」
「お前が部屋移った時さ、袋戸棚に何か残ってた?」
「あー、あの、だまし絵の箱! あれ、リュウ兄が描いたん?」
小菊にお守りを渡そうと自室へ向かうエリは、後ろからリュウに声を掛けられて歩きながら応じるが、続く問いにハッと振り返ると、キラキラした瞳を向ける。
だまし絵の箱とは、戸棚に何も入っていないかの様に見える絵をリュウが何度も描き直し、段ボール箱に張り付けた力作の事であるが、エリが気付いていたという事実にリュウの頬が引きつる。
それでもまだ望みは有る、と気を取り直すリュウは、努めて平静を装って質問を続ける。
「ま、まあな……で、それ今どこに有る? お前の部屋に置いたままか?」
「うん、使わせてもらってるよ? 加奈も綾香もまんまと騙されとったし!」
「使っ!? ……そ、そうか……」
だが笑顔で答えるエリにリュウは絶句し、全てを悟った様に力無く項垂れた。
リュウにとってだまし絵の事など、どうでも良かった。
段ボール箱の中身こそが大事なのだ。
なのに中身は既にバレているらしく、エリを直視できないリュウ。
「……リュウ兄、まさか気付かんとでも思ってたん? 確かにパッと見は気付かんけど、物入れようとしたら気付くに決まってるやん」
「うぐぅ……」
そんなリュウに心底呆れるエリの声が突き刺さり、羞恥に呻きを漏らすリュウ。
自分より背が低い者が見る事を想定した、だまし絵の出来はなかなかの物だが、絵を描く事ばかりに夢中になって、騙された者がそこに物を入れるかも知れない、との思いに至らなかったなど、間抜けの極みというものである。
それでもリュウは、羞恥に赤く染まる顔を上げる。
どんな屈辱に塗れようとも、箱の中身だけは回収せねばならぬのだ!
「そ、それでな……エリ……その……中に入ってた――」
「燃やした」
「もっ――ッ!? う、嘘だろ? マジで? 没収してどっかに――」
『ご主人様!?』
『ッ!』
だが箱の中身に対するエリの回答は非情で、ショックに打ちひしがれるリュウが無様に取り乱すのだが、主人の異変を感じ取ったミルクに頭の中で呼び掛けられ、ハッと我に返る。
「小菊姉ちゃんが焼却炉で燃やした。姉ちゃん……顔、真っ赤やったで?」
ミルクの事など知る由も無く、取り乱すリュウをうるさいとばかりに遮るエリであるが、その時の小菊の事を思い出したらしく、くすりと笑う。
『……? あのぅ、ご主人様?』
『ミルク……今は見るな。俺が戻るまで干渉は絶対に許さん! 分かったな?』
『は、はいっ!』
主人に干渉したばかりのミルクは、エリの話から緊急事態じゃないのかしら、と事態を把握するべく主人に話し掛けるのだが、絶対逆らったら許されないと思える主人の怖い声に、大慌てで干渉を中止する。
そして本来任されている、購入してきた生活用品の配置作業に戻るのであるが、主人の怖い声を思い出す度、ミルクは落ち着かない気持ちになるのだった。
一方、力技でミルクを封じたリュウは、安堵から脱力して壁に寄り掛かる。
「うーわ、そんなショックなんや……リュウ兄きもっ。そやけどあんなエロい本、子供らが見たらどーすんねんな。てか、アレ持って行こう思てたん? リュウ兄、ちょっとヤバいで?」
それをリュウがショックからよろけていると勘違いしてドン引きするエリだが、呆れながら説教する姿に嫌悪感は見られず、むしろ哀れんでいる感すらある。
「うるせーよ……よくも俺の厳選コレクションを……あの中にはな、もう出版社も潰れてて、再版も期待できないお宝も有ったんだぞ! それをお前……何て事してくれんだよ……」
そんなエリにジト目を返すリュウが、あれはただのエロ本じゃないんだ、とでも言いたげに悔しさを滲ませるが、所詮エロ本なので激高出来ず嘆くばかりである。
「え……ちょっと、やめてーや。何かめっちゃ罪悪感を錯覚すんねんけど!?」
「錯覚じゃねえだろ。人のお宝を勝手に処分した罪、きっちり自覚しろ……」
「う……ほ、ほな、一つだけ良い事教えたげるわ……」
恨みがましい目を向けるリュウに、エリが引きつつも気圧される。
さすがにリュウがちょっと可哀想に思えてきたエリは、この重苦しい雰囲気から逃れる為にも、秘匿情報を開示する事にする。
「あ?」
「小菊姉ちゃんに教えた時な、天生君嘘やん、もう信じられへん、とか言いながら片っ端から顔を真っ赤にしてガン見しててんけどな、最後に天生君こんなんが好きなんや、ってめっちゃ照れててん!」
怪訝な顔をするリュウに、当時を思い出して語るエリの口調がどんどん楽し気になっていく。
本人に自覚は無いだろうが、小菊を姉と慕うこの娘は今、姉を売る事で気まずい雰囲気から逃れようとしているのだ。
「そ、それのどこが良い事なんだよ! 最悪じゃねーか!」
一方、小菊に中身まで見られたと知ったリュウは、合わせる顔が無えとばかりに何の余裕も無く絶叫する。
「ちゃうって! あれは絶対、自分を本に重ねてるって! リュウ兄が頼んだら、小菊姉ちゃんが再現してくれる可能性大やって!」
「マ、マジ……で?」
だがエリが勝手な推測を興奮気味に語って聞かせると、リュウも乗せられる様にテンションが上向きに。
そうなるとエリのテンションも最高潮、どうやら大阪のおばちゃん気質が元から備わっていたらしい。
「マジやって! だってあれ以来姉ちゃん、男の人はちょっとくらいエッチな方が飾り気が無くてええんよ、とかって言い出し――」
「エリぃぃぃ!」
「「――ッ!!」」
だがしかし、そんな楽しいエリの時間は、突然名前を絶叫された事で強制終了、ビクッと跳ね上がるエリとリュウの顔が一気に青褪める。
エリの目が前に立つリュウの背後に売った姉、赤鬼と化した小菊の姿を捉える。
「あ、あんた! 何ええ加減な事言うてんの!」
「ちゃ、ちゃうねん、姉ちゃん! これには海より深い訳が――」
「天生君の真似すんな! アホな事言うてんと、さっさと戻りぃ!」
「は、はい!」
小菊に真っ赤な顔で掴み掛られて、パニックに陥りながらも言い訳しようとするエリは、それすらも叱り飛ばされて一目散に部屋を出る。
「天生君!」
「ッ!」
そのエリにこっそり続こうとしたリュウは、小菊に肩をガッと掴まれてギクリと足を止めた。
「ちゃ、ちゃうんよ! 今のはエリの作り話やから! 自分を本に重ねたりなんかしてへんからね!? せ、せやから――」
「落ち着け、川端。誰もそんな事思ってねーから。な?」
「う、うん……でも……」
真っ赤な顔であたふたと言い訳しだす涙目の小菊は、怒られないと分かって安堵するリュウの落ち着いた声で、脱力する様に頷いた。
だがまだ言い訳し足りなかったのか、上目遣いでモジモジしている。
「いや、その……こっちこそ悪かったな。その……先生らにバレない様に焼却してくれたんだろ? くあ~、めっちゃ恥ずい……」
なのでリュウは元凶は自分だと謝って、小菊の行動に理解を示す事で小菊を落ち着かせようとするのだが、その小菊に全て知られているんだった、と悶絶する。
「そ、そんな事ないって。男の子がそういうの興味あるって、孝治や亮太見てても分かるし……それに私の方こそごめん、大事な本焼いてしもて……エリが居たから隠すに隠せなくて……で、でも全部とちゃうから!」
「えっ!?」
そんなリュウを見て慌ててフォローを入れ、本を焼却した事を謝る小菊。
小菊の理解ある発言は大好き補正のお蔭であろうが、引き合いに出されたエリと同学年の孝治や、一年下の亮太がこの場に居れば悶絶していた事は間違いない。
そんな後輩達を思って苦笑するリュウが、小菊の最後の言葉に目を丸くする。
「大事そうな三冊は後回しにしてたから、エリが居なくなった後でちゃんと取ってあるんよ!」
「マジで!?」
「うん。後で渡そう思て、ちゃんと車の中の荷物に入れてあるよ」
「うおお、さすが川端! ――ッ、いや……つい、その……すまん……」
そして三冊の無事を知って思わず喜ぶリュウであったが、ハッと我に返って赤面しつつ、ばつが悪そうに頭を掻く。
そんなリュウを小菊はくすくすと笑って済ませると、リュウと共に急ぎ足で皆の下へと戻るのだった。
子供達と一通り別れの挨拶を済ませたリュウは、その隣でまだ子供達に囲まれて涙を拭っている小菊を待って、子供達に話し掛ける。
「急にこんな事になって悪いな。でも俺達はまた会いに来るから。だからそれまでいっぱい勉強して、いっぱい遊んで、大きくなれよ。五メートルくらいに」
ニィっと笑うリュウに年少組がケラケラと笑い、年長組もこんな時でも変わらぬリュウに口元を緩める。
「うん、絶対また会いに来るから! だから上の子は下の子を良く見たってな? 下の子はお兄ちゃん、お姉ちゃんの言う事良く聞いて仲良くしてな?」
続く小菊の言葉には皆が「うん!」とか「はい!」と元気よく返事して、涙目の小菊を笑顔にさせる。
そして園長達にこれまで世話になった礼を済ませると、リュウはワゴン車の助手席に、小菊は運転席の修二の後ろの座席へと乗り込み、ワゴン車がゆっくりと動き出す。
子供達に見送られて車窓から手を振り返すリュウと小菊だが、子供達が見えなくなるとリュウは大きく息を吐き、小菊は何度も何度も涙を拭う。
「川端……あんまり泣いたらウサギになるぞ?」
「子供かお前は。もうちょっと気の利いた事は言えんのか?」
「あー、さっきまで子供達を相手にしてたから、つい……」
斜め後ろの小菊をちらりと見て声を掛けるリュウは、修二の運転しながらの呆れ口調にポリポリと頬を掻く。
「ごめん、いっぱい泣いてしもて……叔父様も心配掛けてすみません……」
「いや、こっちの事は気にしなくて大丈夫だから。それより当分の間は何かと大変だろう、何か有ればいつでも遠慮なく言ってくれれば良いからね」
「はい、ありがとうございます」
そんな二人のやり取りに小菊が後ろから謝ると、修二が優しく小菊を気遣う。
しかしリュウは叔父の声色に敏感に反応する。
「修二は叔父様と呼ばれて舞い上がっている」
「人の心情を勝手に創作するんじゃない」
リュウの軽口を冷静にあしらう修二。
「嬉しいくせにぃ……」
「クセになりそうな響きだな……」
「ぷふっ」
それでも続く二人のやり取りにまんまと小菊が吹き出してしまうと、前の二人は互いに向ける掲げた拳をコツンと打ち鳴らす。
「前から思うてたけど、天生君と叔父様ってやっぱり似てる」
「「心外な」」
「ぷふっ! そんな息ぴったりで言われても!」
そんな二人に小菊がくすくすと笑いながら以前から思っていた事を口にすると、偶然にも二人の応答がシンクロし、小菊は久方振りに声を上げて笑うのだった。
話しが長くなりすぎたので分割しました。
なのでシリアスパートは次回にお預けです。




