10 王女、我を忘れる
目的地である町外れの酒場に到着したリュウは、一瞬建物をじっと見つめると、アリアを伴って大きく開かれた正面入口へと臆する事無く向かう。
建物は他よりも大きく頑丈な造りの二階建てで、リュウは西部劇に出てくる酒場みたいだ、と思った。
入口上部の左右には看板らしき五十センチ角の一枚板が掲げられており、左にはずんぐりとした取っ手付きのコップが彫られているが、右には三日月とその内側に小さく、ひしゃげたハートの様な花びららしき模様が一枚、彫られている。
「へぇ……昼間でも結構客が居るんだなぁ……そういや、リゲルやガースも昼から飲んでたしな……」
入口から店内を見渡すリュウは、左側の七卓程のテーブルに二、三人ずつ、右の入口付近の一卓のテーブルに三人、正面奥のカウンターに離れて二人の客が座っているのを確認すると、小さく呟いて右側奥の小さなテーブルに腰掛け、その正面にアリアが座った。
リュウが他の客達を背にし、アリアがリュウの陰から店内を窺える様な格好だ。
そのままではリュウは店内を見られない為、脳内ツールから偵察機を選択する。
するとミルクが放っている偵察機の映像が、リュウの視界に反映される。
「んーと……ああ、これがそうか……」
店内を俯瞰で捉える偵察機に介入してリュウが店内を一望していると、入口からリュウ達とは反対側の壁際の男女が赤枠で囲まれる。
ミルクが主人に分かり易い様に、カメラ映像に情報を割り込ませたのだ。
その映像に映るエドワードは一人上品そうな服装とさらりとした金髪が目立ち、遠目からでもイケメンだと分かってリュウは「けっ」と毒づく。
リュウの左手の親指で自分の右胸を指し示すジェスチャーで、その後方へ視線を向けるアリアの瞳から光が消える。
「残念ながら、弁解の余地は無さそうっすね……」
『アイス様とココアに抱き付かれる誰かさんみたいですね……』
「うぐ……そ、そんな事より、合流まだかよ?」
その部分をズームするリュウは、右の女性の腰と左の女性の肩に手を回して抱き寄せるエドワードのニヤケ面を見て苦笑いを溢すのだが、ミルクの冷ややかな声に顔を赤らめると、余計な事を言うなとばかりに話題を変える。
そんなリュウに和まされたのか、帽子のつばを下げてクスクスと笑うアリア。
ミルクの一言は、アリアの心情を察してのものだった様だ。
『あと三分で到着します。けど、彼がどんな人物か分かったんですから、もう用は無いのでは?』
「そうですわね……なんだか、がっかりと言うよりも呆れてしまいました……」
「だけど来たばかりで帰るって、何か……あからさまじゃね?」
「なら、軽く食事だけして帰りましょうか……」
『分かりました。では一応、そちらに合流しますね』
一応の目的を果たしたリュウ達ではあるが、不自然さを避ける為に少しの間だけ残留する事にすると、タイミング良く結構太った四十代くらいのおばさんが注文を取りに来る。
「おや、見ない顔だね。誰かに聞いて来たのかい?」
「あ、いや……観光でぶらぶらしてたら小腹が空いて……」
「ふーん。じゃあ、食事が済んだら上で休んでいかないかい? う~んとサービスするからさ?」
「えっ? ここ、そういうとこっすか? って事は、他の人達もそれが目的?」
当たり障りのない答えでおばさんの問いに応じるリュウであったが、続く彼女の言葉に目を丸くして素で問い掛けつつ、表の看板の意味を理解する。
この店は一階は酒場だが、二階は一般宿泊施設も兼ねた売春宿なのであった。
「向こうの連中は単なる飲んだくれさ。あ~、何人かは泊ってくかもねぇ」
「あ~、あの女連れの人とか?」
「ま、お得意さんだからねぇ。そんな事より、どうだい? お姉さんが色々教えてあげるよ?」
リュウの問いに嫌な顔もせず答えてくれるおばさんに、さりげなくエドワードの事も少し聞き出せて口元が緩みかけたリュウであったが、不意に顔を近づけてきたおばさんの囁きとウインクに、表情筋が凍り付いた。
元々シャツのボタンを開けていたのだろう、前屈みになったおばさんのやたらと豊満な胸がリュウの視線を奪いかけるが、リュウがごくりと息を呑んだのは、その後方で左右にはみ出す樽の様な腰のラインに怯えたからであった。
「お、お姉……さん……が? い、いや……今日は食事だけで……はは……」
「つれないねぇ……じゃあ、注文が決まったら呼んでちょうだい」
首から下だけ器用に冷たい汗を流しながらリュウがやんわりとおばさん、もといお姉さんの申し出を断ると、お姉さんは残念そうにしながらもテーブル上に一枚の薄い板切れを置いて厨房の方へ去っていった。
二十センチ角程の板切れは、二十種程の料理や飲み物が手書きされたメニューであるが、角は削れて丸くささくれ、端の方のメニューは文字が掠れて読めない程の年季の入った代物だった。
それを手に取るリュウはちらりとお姉さんが居ない事を確認すると、テーブルに伏せる様にして大きく息を吐く。
「あれ以上食い下がられたら、どうしようかと思った……」
「そういうお店が有ると聞いた事は有りますが、まさかここがそうだとは……」
「お得意さんらしいっすよ?」
「……聞きたくなかったですわ……」
「ですよねぇ……」
そうしてリュウが安堵の言葉を口すると、アリアも同じ様に前屈みで声を潜めて困惑した表情を浮かべるのだが、エドワードの事になるとぷいっとそっぽを向いてしまい、リュウを苦笑させる。
そんな時、遅れて店に到着したミルクが他の客達の視線を浴びながらリュウ達の下へやって来る。
「お待たせしました。済みません、目標の動向ばかり気にして、二階の調査を失念していました……」
「聞いてたとは思うけど、マジ焦ったぞ……てか、服替えたんだな」
「議会に出たままの格好で来る訳にはいかないですからね……」
リュウを左に、アリアを右に見る形で席に着くミルクは主人が焦る羽目になった事を謝り、ドレスチェンジした理由を述べた。
議会では白を基調としたフォーマルなロングドレスで出席したミルクは、議会を出ると目立たない様に茶系の町娘風のワンピースにドレスチェンジしたのだ。
「ミルクさんは何を着ても素敵ですわね」
「い、いえ、そんなぁ……」
「アリアさんもなかなか似合ってますよ、煤けてるけど」
「ご主人様――」
「あ、そう言えばすっかり忘れていましたわ……だぜ……」
「うぷっ……」
「くふうっ……」
そんなミルクの容姿を褒めるアリアがミルクを照れさせるが、ニィっとリュウに笑われると変装していた事を思い出し、その言葉遣いでリュウを吹き出させる。
これには主人を注意しようとしたミルクも釣られてしまい、アリア自身も含めて三人は声を殺して笑い合った。
そんな中、エドワードが席を立って入口の方へと歩き出した為、アリアが慌てて帽子を目深に被り直す。
その様子にリュウとミルクは、首を動かさず偵察機の映像でエドワードの動きをチェックする。
「ま、まさか変装がバレたのでしょうか……」
「その可能性は低いでしょう……」
「トイレじゃないすか?」
小声で焦るアリアを、エドワードを注視しつつもアリアに微笑み掛けるミルク。
リュウもそんなはずは無いと呑気に笑うのだが、エドワードは入口を通り過ぎて真っすぐにリュウ達のテーブルへやって来る。
『え……マジでバレてんの?』
『そんなはずは……他の用件かも知れませ……ん?』
脳内通信での主人の問いに応じるミルクは、エドワードが自身のすぐ横で歩みを止めた事で、思わず顔を上げた。
「君、可愛いね! 見かけた記憶無いけど、この近くに住んでるのかい?」
「えっ? ミ……私……ですか?」
まさか自分が声を掛けられるとは思わず、ミルクは答えながらもキョロキョロと視線を彷徨わせる。
どうやらエドワードはミルクが目当てらしく、体格の良い少年や線の細い口髭の男の事など眼中に無いらしい。
「この場で可愛いと言ったら、君以外に誰が居るって言うんだい? この場は僕が奢るから、一緒に向こうで飲もう。君、取っておきたまえ。これで彼女をちょっと借りるよ?」
椅子に腰掛けたままキョロキョロするミルクに、エドワードは優し気な微笑みを浮かべて肯定すると、リュウの前に金貨を一枚置いてミルクの左腕を取って立たせようとした。
優し気な雰囲気とは裏腹に、やっている事は相当強引なエドワード。
その手慣れた感じから察するに、これまでも金や地位に物を言わせて相手を丸め込んできたのだろう。
「そ、そんな困ります。手を放して下さい」
「何、悪い様にはしないよ。僕はただ、君の事をもっと知りたいだけなんだ」
「しょ、初対面でそんな……」
「君、僕の事を知らないのかい? 僕もまだまだだなぁ。じゃあ、ちゃんと知って貰わなくちゃね」
抵抗するミルクの言い分などお構いなしに要求を通そうとするエドワード。
その身勝手振りに、リュウとアリアがぽかーんとエドワードを見上げている。
『ご主人様、助けて下さいよ!』
『え、お前なら一ひねりだろ』
『議長のご子息なんですよ? さすがにそんな事できませんよぉ!』
『んじゃ、俺だって殴る訳にいかねーじゃんか……』
『どうして殴る前提なんですか、止めて下さいよぉ!』
脳内通信でミルクが助けを求める間にも、エドワードは強引にミルクを口説いており、ミルクが抵抗しきれずに椅子から腰が浮いてしまう。
右手でミルクの左腕を掴み上げるエドワードは、すかさず強引に左腕をミルクの腰に絡ませる。
「や、やめて下さい! 放してっ!」
「気の強い子だなぁ……女の子はもっとおしとやかにしないとね?」
思わず叫ぶミルクだが、エドワードには全く通じていない様だ。
そんなエドワードの後方に、一緒に居た二人の女がやって来る。
「若様も好きですねぇ」
「そんな小娘、いいじゃないですかぁ。一緒に飲みましょうよぉ、若様ぁ」
「い、いい加減にして下さい!」
女の口振りからエドワードのこういった行いは珍しくないのだろう、と理解する冷静なミルクだが、小娘と言われてカチンと来たらしく、切れ気味に叫ぶ。
「分かった、金貨五枚出そう。何なら家も買ってやろう、な?」
「い、いやっ――ッ!?」
だがエドワードは相当ミルクを気に入ったらしく、これで逆らう者など居ないとばかりに破格の条件を出してミルクを抱き締めようとして、空振りする。
すくっと立ち上がったアリアが、渾身の力でミルクを引っ張ったのだ。
まさかアリアが助けてくれるとは思わず、ミルクの目が真ん丸になっている。
ちょっと期待していたワクワク展開が実現して、リュウの目がキラキラしているが、それに気づいたミルクは超ジト目になった。
「貴様、僕に逆らうつもりか?」
目当ての少女を背後に庇い立つ男を見て、スッと目を細めるエドワード。
線の細い男だが、目深に被った帽子のつばから覗く眼光の鋭さに、エドワードはフッと口元を緩める。
「よし、金貨をもう二枚やろう。今回は特別――」
「この……不埒者っ!」
「だぁっ!?」
懐に手を忍ばせながら人を見下した発言をするエドワードに、思わず叫びながら一瞬で詰め寄ったアリアの右足がエドワードの左足を踏み抜く。
「うーっ!」
直後にアリアの左膝がエドワードの股間に抉る様にめり込み、エドワードは呻き声を上げて股間を押さえ、よろよろと前屈みになった。
そこへ蹴り終えた左足で床を踏みしめるアリアが、右肘を横に張り出して渾身の力で腰を回転させ、エドワードはアリアの突き刺すかの様な細い右肘を左側頭部に受けて、声も無く派手に吹き飛んだ。
今の今までアリア自身忘れていたが、アリアはリュウから言葉遣いだけでなく、護身術のレッスンも受けていたのだ。
リュウの脳内ツールには、ミルクとココアから様々な戦闘スキルがインストールされており、リュウがその中からアリアに適していそうなものを数種類教えていたものが、見事にハマった形である。
無様に床に転がったエドワードを見て、「よしっ!」とばかりにグッと腹の前で力強く右拳を握るリュウ。
「わ、若様!」
「あ、あんた、何をしたか分かってるの!? みんな! やっちまってよ!」
一瞬唖然としていたエドワードの連れの女二人が、倒れ込んだエドワードに駆け寄るが、その内の一人は店内の男達に向かって声を張り上げた。
もう一人の女は「若様! 若様!」としきりに声を掛けながらエドワードの体を揺さぶっているが、エドワードは白目を剥いて完全に失神してしまっていた。
「恩を売るチャンスだぜ!」
「生かして帰すな!」
「急いで店の外に! おらあっ!」
女の呼び掛けで飲んでいた男達が立ち上がった為、リュウは叫びつつ空いている椅子を引っ掴むと近くの男達に投げつけ、自身が座っていた椅子を出口を塞がれぬ様に出口を挟んで反対側の男達へと放り投げる。
その間にミルクはアリアの手を取って出口へと駆け、リュウは追い縋ろうとする男達を次々と放り投げる。
そしてミルク達が店を出たのを見て、リュウも店を飛び出す。
「くそっ、なんて馬鹿力だ! 追え! 逃がすな!」
「居ないぞ! どこ行きやがった!?」
「まだ近くにいるはずだ! 探せ!」
遅れて店を飛び出した男達がリュウ達を見失って騒ぎつつ、店の周辺へと散って行く。
その様子を、リュウ達は店の二階の屋根から見下ろしていた。
店を飛び出したリュウが、ミルクとアリアを小脇に抱えて一気に屋根へと飛んだのだ。
「ふい~、上手く撒けたな」
「好判断です、ご主人様ぁ。まさか真上に逃げるとは、誰も思わないでしょう」
「アリアさん?」
「お、驚きました……まさかここまで飛ぶなんて……」
ニィっと口元を歪めるリュウに、嬉しそうに主人を褒めるミルクだが、目が回る思いだったアリアは、胸に手を当ててドキドキと喧しい鼓動を鎮めながら、何とか言葉を口にする。
そしてリュウが星巡竜になったと知ってはいても、初めて見るリュウの黒い翼をまじまじと見つめた。
「それでご主人様、この後はどうしますか?」
「どうって、もう十分だろ。一先ず引き上げ……あっ、雑貨屋のおっちゃんに後で寄るって言っちまった……」
「ああ、それは別に日を改めれば良いんじゃないですか?」
「そだな。んじゃ、サクッと戻るとするか」
そうしてミルクに今後の事を尋ねられるリュウは、再びミルクとアリアを小脇に抱えて人気の無い所へ飛び、そこで転移門を発動してマーベル王国へと帰還する。
「ほい、任務完了! お疲れっす!」
「ご主人様、アリア様、お疲れ様でした」
「お二人共、私のわがままを聞いて下さって、本当にありがとうございました」
「はは、水臭いっすよ~」
「アリア様ぁ、気を落とさないで下さいね……」
「ミルクさん……ありがとう……」
そうして互いに労い合う三人であったが、ミルクに気遣われるとアリアは却って寂しげに笑った。
「ミルク、アリアさんはそんなにヤワじゃねえよ。見たろ? あの三連コンボ」
「ご主人様ぁ……」
「ッ! わ、私……なんてはしたない真似を……」
そんなアリアを見てリュウがミルクを窘めつつニィっと笑うと、ミルクは空気を読んで下さいとジト目を向けるのだが、アリアはハッとした表情になるとつい先程までの自身の振る舞いを思い出して真っ赤になった。
「そんな事ありません! 助けて頂いて、嬉しかったですぅ!」
「格好良かったっすよ! 『この、不埒者っ!』って!」
「ついカッとなるって、ああいう事なのですのね……気付いたら私……」
慌ててミルクがフォローするが、リュウは余程胸が空く思いだったのであろう、ケラケラと笑いだし、アリアは生まれて初めて我を忘れるという経験をした事に、真っ赤な頬を両手で覆う。
「でも、意外と胸がスッとしたでしょ?」
「はい……スッとしてしまいました……」
そしてリュウにニカッと笑みを向けられると、アリアはこくりと頷いてはにかみながらも笑顔を見せた。
アリアをどうフォローしようかとおろおろしていたミルクが、その笑顔でホッと胸を撫で下すが、主人には何か言いたそうでジト目を向けている。
「ま、男なんて他にもいっぱい居るんだから、とっとと忘れちまうのが一番すよ。アリアさん美人だから、すぐに良い人見つかりますって」
「まあ、リュウったら。他人事だと思って……」
「いやいや。アリアさんが彼氏募集したら、マジで行列できますって!」
ミルクの視線に気付かぬまま、アリアを元気付けようとするリュウであったが、その調子のいい口調にアリアに拗ねた様な瞳で見つめられて、慌てて大袈裟に弁解する。
「ふふっ、リュウも……並んで下さるのかしら?」
「うえっ!? い、いや、俺は……髭の有る人はちょっと……」
「くふっ」
「あっ! またまた忘れていましたわ!」
そんなリュウにアリアが甘え声で問い掛けてミルクが目を丸くするが、リュウの苦し紛れの答えを聞いて思わず吹き出し、アリアもそうでした、と目を丸くしつつ口元を隠した。
「さ、お城の皆さんが心配しない内に、早く戻りましょう」
そうして一頻り笑い合った三人は、王城へと帰って行くのであった。
アリア王女編、これにて一件落着です。
次からはいよいよ日本に戻る事に!
しかし書き貯めが無いので、お時間下さい…m(_ _)m




