08 王女変身
翌早朝、いつの間にかスリープモードに移行していたミルクは、目覚めと同時にビクッと身を強張らせ、たちまち耳まで真っ赤になった。
何故ならミルクは、向かい合う主人の左腕の付け根を腕枕にする形で抱きすくめられ、その肩口に顔を埋めていたからである。
《はうっ……手を繋いでいただけなのに、いつの間に……う、嬉しい……もう少しだけこのまま……じゃなくって! ご主人様が起きる前に支度をしないと……とは言っても、あう……う、動けません……》
主人を起こさぬ様に身支度などを済ませたいミルクであるが、がっちりホールドされて身動きできずにもじもじしているが、その表情はどこか嬉しそうである。
昨夜アイスとココアが帰って来ないと分かってからというもの、ミルクは主人に散々からかわれて、あうあう、あわあわ、ぴーぴーぎゃーぎゃー、と騒がしい夜を過ごした。
最終的には主人に宥めすかされて渋々布団に入ったミルクであるが、主人に頭を撫でられる内にほわわんと幸せ気分でスリープモードに移行してしまうあたりは、創造主様の影響が過分に現れているのかも知れない。
《はぁ……折角、二人っきりの夜だったのに……どうすればもっとロマンチックな雰囲気になれるんでしょう……むぅぅぅぅん……》
昨夜のドタバタを思い出し、ついため息を吐いてしまうミルクが、主人の肩口に拗ねる様にぐりぐりと額を擦り付ける。
すると主人が僅かに呻いて身じろぎした為、ミルクは慌てて動きを止める。
《いけない、思わずご主人様を起こしてしまうところだった……何とかご主人様を起こさずに抜け出さないと……はうっ……》
主人を起こしかけて反省するミルクは、再び自身の務めを果たすべく主人の腕の中から離脱を図ろうとするが、主人にムニャムニャと覆い被さられて息を呑みつつ更に赤面した。
全身を液状化させて離脱する事も可能なミルクだが、それをしないのは、万が一にも主人に崩れる姿を見られたくないのか、それとも案外今の状況を楽しんでいるのだろうか。
《こ、これじゃますます身動きが……それにしてもご主人様って……これ程までに逞しい体つきになっていたんですね……あう……ちょ、朝食まではもう少し時間がありますし……ご主人様を起こさない為にも、もう少しだけこのまま――ッ!? こ、これは……ひうっ! ににに、逃げ――》
身動きが取れずに困惑しつつも、主人が眠っている事と、他に誰も居ないという状況が余裕を生んだらしく、それらしい理由を付けてニマニマとほくそ笑むムッツ全開のミルクであったが、太ももに当たる硬い感触に気づいた途端、全身を液状化させて急速離脱を図った。
ココアが知ればヘタレだ、何だと罵倒されそうなものだが、十八禁設定が生きている以上、これがミルクの限界なのだ。
《あうう……油断しましたぁ……いくら生理現象でも、あんなの反則ですぅ!》
ベッドの脇で体を再形成しながら、赤い頬を膨らますミルク。
しかし主人は幸せそうに寝息を立てている訳で、ミルクは小さくため息を吐くと気持ちを切り替えて支度するのだった。
昼食後、リュウとミルクはアリアを部屋に迎え入れていた。
「大体の流れは分かりましたわ。ミルクさん、よろしくお願いしますわね」
「はい……ですが、エドワード様を見つけられない可能性も十分に有りますので、そこはご理解下さい……」
「もちろんですわ。でも、本当に私は何もしなくて良いのですか?」
ミルクから今日のオーリス共和国での行動計画を聞かされて、アリアはミルクににっこり微笑むものの、エドワードが見つかるまで何もする事が無い事に困惑していた。
「いやいや、ちゃんとする事は有りますよ。それは、出番が来るまで誰にも正体を知られない事です。先に先方に知られたら、裏の顔なんて暴けませんし」
「ご、ご主人様! まだそうだと決まった訳じゃ!」
「けどさぁ、婚約者が来てるのに顔見せないなんて、他にねーだろ……」
そこへ口を挟んだ主人の言い様にミルクが慌てて窘めるが、リュウの中では既にエドワードは限りなく黒に近いのだろう、悪びれる様子は皆無だ。
「で、ですけど、もう少しアリア様のお気持ちを――」
「ありがとう、ミルクさん。でも私は大丈夫ですわ。実は私も……その可能性が大だと思ってしまってますし……」
「アリア様ぁ……」
「ま、そういう訳で……はい、これ」
そんな二人のやり取りに苦笑するアリアに、リュウは綺麗に畳んでベッドの上に置かれていた衣服を手渡す。
「えっと、これは一体……男性用の作業着……ですか?」
「アリア王女別人なりきりセットです。そのまま行ったら大騒ぎですからね……」
「ああ! 面白そうですわね!」
「んじゃ、俺は外出てるんで。ミルク、用意できたら呼んでくれ」
「はい、ご主人様」
いきなり手渡された衣服に困惑するアリアだったが、理由を聞いて破顔すると、リュウは後をミルクに任せて部屋を出る。
そうしてミルクに呼ばれてリュウが再び部屋に入ると、アリアはドレスから白いシャツと薄茶色のオーバーオールへと着替えを済ませていた。
「ど、どうですか?」
「……ミルク……お前、変装の意味分かってんのか?」
入って来たリュウにアリアがはにかみながら問い掛けるが、リュウはスルーしてミルクにジト目を向ける。
アリアは着替えを済ませて髪をアップに纏めていただけだったからである。
「あう、わ、分かってます……なので、この帽子さえ被って頂ければ……」
「アホか。いくら髪をアップにして帽子を被ったってなぁ、こんな綺麗な作業員が居てたまるか!」
「あうぅ……」
「ま、まぁ……リュウったら……」
なのでミルクは持っていた帽子を胸元に掲げて見せるのだが、リュウは呆れたと言わんばかりにアリアを指差して吠えた。
主人のダメ出しに首を竦めるミルクと、両手で頬を押さえて照れるアリア。
「えうぅ……で、でも王女様なんですよ? これ以上は……って、ご主人様?」
いくら変装だとは言え、王女様には限度があります、と上目遣いで言い募ろうとするミルクは、主人が聞いていないとばかりにキッチンへ向かうのを見て、小首を傾げた。
リュウは湯沸かしのポットを横へ退けると、その周辺を何やらごしごしと素手で擦りだした。
そうしてくるりと振り返る主人の姿にミルクが息を呑む。
主人の両手が煤で見事に真っ黒だったからだ。
「ままま、待って下さい、ご主人様! いくら何でも、王女様なんですよ!?」
「その王女様って分からない様にするのが変装じゃねーか。ね、アリアさん」
「えっ、えっ!?」
主人の意図を察したミルクが慌てて声を張り上げるが、リュウは小揺るぎもせずにアリアに同意を求めると、ニィっと口元を歪ませる。
アリアは煤で黒くなった手も洗わずに、何故リュウが自分に笑いかけているのか分からずに、目をぱちくりさせている。
幼い頃から温室育ちの王女様は、これまで自分に危害を加えようとする人物など考えた事も無いのかも知れない。
「アリア様、逃げ――えっ!? ひいっ!?」
主人がゆらりと歩を進めたのを見て、咄嗟にミルクは両手を広げて主人の前へと立ち塞がったつもりであった。
だが主人の姿が視界に無く、驚きつつも背後に視線をやるミルクの喉から、引き攣った声が漏れ出た。
アリアの美しい両頬を、既に金色の光を薄っすらと纏ったリュウが挟み込む様に両手で掴んでいたからである。
ミルクは主人の竜力によって、思考と行動を一瞬停滞させられていたのだ。
「リュ――んぶっ!? んんん~! んぶぶっ!」
「あ……あ……アリア様ぁぁぁっ!」
何かを言い掛けるアリアが、為す術もなく顔面をまるで粘土細工の様にこねくり回される様子に、ミルクの絶叫が虚しく響く。
「よし、こんなもんか!」
やがてリュウが満足そうにその場を離れ、そこから現れたアリアを見てミルクはその場に力なく崩れ落ちた。
アリアの美しい顔は、乱暴に塗りたくられた煤でまだらに黒く汚れ、綺麗に纏められていた金髪も前髪部分が黒く薄汚れて力無く垂れ下がっていた。
綺麗だったシャツやオーバーオールも見事なまでに煤まみれで皺くちゃであり、今まさに崩落事故から救出された炭鉱夫、という有様だったのだ。
「な、なんて事を……ア、アリア様の美貌がぁぁぁ……」
「んなもん、洗えば済むじゃねーか……」
嘆くミルクにやれやれ、と苦笑するリュウ。
アリアは自身の身に起こった事が信じられないのか、未だ呆然としている。
「でも、王女様なんですよ!? もう少し手加減して下さい!」
「バレて大事になったり、相手に逃げられるよりマシだろ? アリアさんだって、何度も変装するより一発で済む方が良いじゃんか」
「それはそうですけどぉ……」
それでも尚、言い募ろうとするミルクであったが、主人の言う事も理解できるのだろう、口ごもってしまう。
「私の為に済みません、ミルクさん……こんな事初めてなので、ちょっとびっくりしましたけれど、私は大丈夫ですから……」
「ほら、アリアさんだって分かってくれてるじゃん」
「ご主人様はちょっと……もう、いいですぅ……」
そんなミルクにようやく現状を受け入れたらしいアリアがフォローを入れるが、却って主人が調子づいてしまい、ミルクはジト目を向けるものの、言い返されても面倒なので我慢する事にした。
「そんな事よりもだ、ミルク。お前、絶対に今日見つけろよ? じゃないと、またアリアさんを変装させる羽目になるからな。責任重大だぞ?」
「そっ、そんなっ!? ご主人様は鬼ですか!」
なのに主人から無茶振りされて、さすがに憤慨してしまうミルク。
「ブブー、残念でした~。竜でした~」
「うぅ……ど、どっちにしても、人でなしですぅぅぅ……」
「くっ、うまい事言ってんじゃねーよ……」
だが、いたずらっ子の様に調子づく主人に対抗しても無駄であろう、とミルクは疲れた様に一本返すのであった。
そんな二人の様子をくすくすと笑うアリアが、思い出した様に口を開く。
「それで、あの……一応、自分でも見ておきたいのですけど……」
「あ、はい。鏡はそっちに……」
そうして姿見に映る自身の姿に少なからぬショックを受けるアリアを、リュウとミルクがハラハラと見守る。
「ふふっ……あははっ、あはははは……」
だがアリアが声を上げて笑い出すと、二人はほっと胸を撫で下してアリアの下へ行き、アリアの意見も取り入れつつ、アリアを別人へと仕立て上げた。
「これなら間近で見られても、アリアさんだとは誰も気付かないっすね」
「今日だけの辛抱ですから我慢して下さいね、アリア様ぁ……」
「大丈夫ですわ、ミルクさん。何だか私、楽しくなっちゃって……本当に気付かれないか、その辺を歩いてみたい気分ですもの」
満足そうなリュウはともかく、申し訳なさそうなミルクに対し、アリアが笑顔で応じている。
今のアリアは口ひげも付けており、帽子をも被った事によって全くの別人に成りきっていた。
「でも喋ったらバレそうですね……どうせならこの際、言葉遣いや仕草もちょっと特訓しませんか?」
「ご主人様ぁ……」
「そ、そうですわね……もし時間に余裕が有るのなら、やってみたいですわ!」
「えっ……」
「お任せを。簡単な受け答え程度なら、すぐに覚えられますしね!」
そしてどうせなら、とのリュウの提案にアリアが嬉しそうに応じると、脱力するミルクを置いて、リュウとアリアは嬉々として特訓を始めるのだった。
毎度お待たせして済みません。
エンジンの掛かりが最近悪くて…。




