52 目覚めのキス
一夜が明け、朝日がマーベル王国の王城を照らす。
城内では使用人達が各々の作業を静かに始めているが、他には見張りの親衛隊が要所に待機しているだけで、閑散としている。
「んん……おはよう、ココアぁ……」
「あら、おはようございます、アイス様。こんなに早くお目覚めだなんて、珍しいですね。どうかしたんですかぁ?」
「リュウを起こしてあげようと思って……」
微かなベッドの揺れで目覚めたアイスは、ベッドの脇に腰掛けて身支度を整えるココアに問われて、頬を赤くしながら体を起こす。
ココアの言う通り、普段のアイスは起こされるまでぐっすり寝ているお寝坊さんタイプなのだ。
「それは素敵なアイデアですね! でも、残念ですぅ……」
「えっ、何が?」
アイスの答えに昨夜のキスを思い出したココアがにっこり微笑んだものの、一転してしょんぼりとした表情になるのを見て、アイスの目が真ん丸になる。
そのお蔭でアイスはすっかり目が覚めた様だ。
「ご主人様は、ココアのキスで目覚めるんですよぉ?」
「そ、そんなの分からないでしょ!」
「いえいえ、それが分かっちゃうんですよぉ。ご主人様はココアの超絶気持ち良いテクで目覚めちゃうんですよぉ」
「朝からリュウに何する気なの!?」
「うふふふふ……」
「ダ、ダメだからね! アイスが先なんだからね!」
「仕方ないですね、一番はお譲りしましょう。それでご主人様が目覚めない時は、うへへへへ……」
「もう! 妄想してないで身支度を手伝って! 早く交代してあげないとミルクが可哀想でしょ!」
「はぁい、アイス様ぁ」
そうして騒ぎつつもアイスが着替えを済ませると、ココアは右手にヘアブラシを創り出し、左手から温風を送り出してアイスの髪を梳いてやるのだった。
一方、一睡もせずに主人を見守っていたミルクは、変化の兆しが見えない主人に心配そうな表情のまま椅子から立ち上がって窓へ向かい、カーテンをそっと開いて朝日を迎え入れていた。
そうして再び椅子に戻ると、朝日を浴びる主人の顔を見つめて声を掛ける。
「ご主人様ぁ、お早うございます。朝ですよぉ……」
しかし主人に反応は見られず、ミルクはきゅっと唇を噛んだ。
一体どうすれば主人は目覚めてくれるのか、と途方に暮れるミルクの顔がぽっと赤くなる。
ふと、ミルクの脳裏に昨夜のココアの言葉が思い出されたからだ。
「こ、これはおとぎ話じゃないんだから……あんなココアの口から出まかせ……」
あれは単なるキスの言い訳に過ぎない、と小さく頭を横に振ろうとしたミルクがはたと動きを止める。
本当にそうだろうか、見守っていたと言うのは、主人の為に本当に何かをしたと言えるのだろうか、ココアやアイス様の方が主人を起こそうと行動したと言えるのではないか、そんな風にミルクは思ったのだ。
それにだ、もしもそれで主人が目を覚ましてくれたなら、その特別感はどんなに素晴らしいものだろう、とミルクは思ってしまったのだ。
「あ、愛する人への祈り……」
ぽつりと呟くミルクの顔がみるみる赤くなっていく。
そうして椅子から腰を浮かせるミルクは、主人に覆い被さる様に顔を覗き込み、その唇を見てゴクリと息を呑む。
つい先日も眠る主人におやすみのキスをしているミルクだが、今の状況は彼女にとって不謹慎だとの思いが強いのだ。
「こ、これは祈り……不謹慎なキスじゃない……い、祈りなんだから……」
一生懸命自身に言い聞かせて、主人の唇に自身の唇を重ねるミルク。
そして唇を重ねたまま、ミルクは主人の目覚めを心の底から真剣に願う。
「――ッ!? んんっ! ん……んん……」
その時、主人がピクリと動いた気がして唇を離そうとしたミルクは、頭と背中に回る主人の手に眼を見開くのだが、キスを止めるなと言わんばかりに強く抱きしめられて、溢れる涙をそのままに主人に縋り付く。
「んんっ!? んー! んんー!」
だが背中を抱き締める主人の手が腰から尻へと移動した途端、ミルクは主人から逃れようと、真っ赤な顔でじたばたと主人の上でもがき始めた。
いくら主人が目覚めて嬉しいミルクでも、それはさすがに許容出来なかった様である。
そんなパニック状態のミルクに、更なる事態が容赦なく襲い掛かる。
部屋の扉が外部から開かれたのだ。
「あー! ご主人様が襲われてるぅぅぅ!」
「ミルクぅぅぅ! ズルいよぉぉぉ!」
「ひっ!? ひぎゃあああああっ!」
ココアとアイスに突然叫ばれて羞恥心が一気にメーターを振り切ったのだろう、自らも叫んで主人を突き飛ばしたミルクが勢い余ってベッドの脇に盛大に尻もちを突いた。
「ちっ、違うんですぅぅぅ! ミルクはただ起こそうとしただけで! なのに! なのにぃぃぃ! うわぁぁぁぁぁん!」
そして真っ赤な顔で辛うじて言い訳するミルクは、恥ずかしさからそのまま床に突っ伏してしまう。
「何だよ、折角気持ち良く目覚めたってのに……」
「ご主人様! 良かったですぅぅぅ!」
「リュウ! 心配したんだよぉ!」
そこへリュウがむくりと体を起こした事で、ココアとアイスはミルクを放置してリュウの下へ駆け寄って飛び付き、開け放たれたままの扉から部屋の様子を窺った使用人によって、リュウの目覚めは城内の皆に知られる事になるのだった。
その後、心配してくれていた人達に次々と訪問されて対応に追われる事となったリュウは、何とか皆を安心させて帰らせると、アイス、ミルク、ココアの三姉妹を連れて王城を出て、リュウが倒れた転移装置の有るホープ鉱山へと再びやって来ていた。
そして坑道の警備に当たるエルナダ兵に頼んで、現在使われていない部屋を一つ借りてアイス達を連れて入る。
「ご主人様ぁ、また転移装置を使う気なんですかぁ?」
「ちょっと確かめたい事が有ってな……と、その前に……お前達に話しておきたい事が有るんだ。ミルク、俺が今思い出してる記憶を映像化させてくれ」
「は、はい……」
心配そうなココアの問いに苦笑いするリュウは、ミルクに記憶の映像化を頼むと部屋を薄暗くして映像を投影させ、ヨルグヘイムとの一部始終を閲覧させる。
アイス達はその映像を見てしばし呆然としていたが、映像が終了すると我先にとリュウへ話し掛ける。
「ご、ご主人様、と言う事はですよ――」
「ご主人様、じゃあヨルグヘイムは――」
「リュウ! ヨルグヘイムと父さまって――」
「ま、待て待て! いっぺんに聞くな! 落ち着け!」
なので面食らったリュウは慌てて三人を落ち着かせ、しばし質疑に追われる事となる。
「はぁ……それにしても、この人が本当のヨルグヘイムだったなんて……」
「ナダムとの記憶に差が有り過ぎて、何だか変な感じですぅ……」
「父さまのお兄さんって言われても、全然似てないし父さまより若いし……」
「まぁ、俺だって半信半疑なんだけどさ……話の辻褄は有ってるし、わざわざ俺に嘘を吐いたとしても、メリットも何も無いだろ?」
「そうですよねぇ……」
「うん……」
そうして一連の質疑を終えて三姉妹がそれぞれ感想を呟くのだが、リュウの言葉には納得したらしくミルクとアイスがこくりと頷く。
「それで、ご主人様ぁ。わざわざここに来たのは?」
「あー、コアの使い方が結局分かんねーからさ、そのコアの力で創られた転移装置なら何か分かるかなって思ってさ……無いとは思うけど、お前達が居てくれるならまた倒れても安心だろ?」
「ヨルグヘイムの口振りからすると大丈夫な気もしますけど……もしもご主人様が倒れたら、今度はココアに看病させて下さいね?」
ココアは主人の目的の方が気になる様で、主人の説明を聞いて心配し過ぎでは、と応じたのも束の間、目を輝かせて甘え声でお願いをする。
どうやらココアは、ミルクに目覚めのキスを奪われた事が相当悔しかった様だ。
「……看病だけで済むのか? それ……」
「ココアだっていっぱい心配したんですよぉ!?」
「分かった、分かった。んじゃ、その時はココアに頼むから」
「いよっしゃぁぁぁっ!」
「「ズルい……ココア……」」
そして主人にジト目を向けられて心外だと訴えるココアは、主人の了承を得て、両の拳を高々と天に突き上げる。
そんな嬉しそうなココアの気持ちが分かるのか、アイスとミルクの妬みの呟きは控え目だ。
特に主人の目覚めのきっかけとなるキスをしたミルクは、それを思い出したのか口元がニマニマと緩んでしまっている。
そうして三姉妹を連れて部屋を出たリュウは転移装置にやって来ると、装置には入らずに外側から装置を囲む様に立つ三枚の石板の一つに手を触れる。
「リュウぅ、大丈夫?」
心配して声を掛けるアイスにリュウはちらりとアイスを見て頷くと、黙ったままじっと何かを探る様な表情でしばらく石板に触れていたが、何らかの感触を得たのだろう、石板から手を放してニィっと口元を歪めた。
「なるほどな~。そういう仕組みなのか……何となく分かった……」
「え……ご主人様、仕組みが分かったのですか?」
主人の呟きに、ミルクが目を丸くして問い掛ける。
見ればココアも驚いているが、アイスは何だか嬉しそうだ。
「何となくだけどな。これは記憶を元に設置する代物で、記憶の無い場所には設置出来ねーんだよ。ヨルグヘイムの偽物はナダムとこことキエヌの三ヶ所に設置しただけみたいだけど、他にもいっぱい有るみたいだ……」
「えっ……そんな事まで分かるんですか?」
「うん……何か分かる様になってんな……何て言うか、制限が解除された感じ? 俺の頭の中に……いや、コアの中の情報を覗いている感じなのかな……集中すればそれらと転移装置を繋げられそうな気がする……」
ミルクの問いに答えつつ、新たな情報を呟くリュウに驚かされてばかりのミルクであるが、リュウ自身も新たに得た情報に驚き戸惑っているのか、首を捻りつつも感じたままを口にする。
「それって、凄い事じゃないですか! ご主人様は、個人の力で宇宙を旅する事が出来る様になったって事ですよね!?」
「うーん、そうかも知れないけど……気が進まないな……」
「どうしてですかぁ?」
するとココアが興奮した様子で口を挟むのだが、眉根を寄せる主人の返答に不満そうに尋ねる。
主人と違い、今のココアは好奇心を大いに刺激されている様子である。
「だってお前、未知の世界に行く事になるんだぞ? その世界の住人が、黄緑色でヌルヌルネトネトしてたら会話どころじゃねーよ……」
「えっ、そんな人居るの!? アイス見た事無いよぅ……」
「アイス様ぁ、真に受けちゃダメですぅ……」
「ぷっ……そ、そんな所に発想力の豊かさを発揮しなくて良いんですぅ! ご主人様は、ワクワクしないんですかぁ?」
リュウの気が進まない訳を聞いて、目を丸くするアイスにミルクが呆れ顔で注意喚起しているが、ココアは思わず吹き出しかけて主人の冗談を窘めつつ、自身との温度差を不思議がる。
「んじゃ、その世界がゴキブリだらけだったらどーするよ?」
「「ッ! 絶対、行きません!」」
なのでリュウが別の可能性を問い掛けると、ミルクとココアはビクッと青褪めて見事にシンクロし、アイスに両脇からしがみついた。
ミルクもココアも実際にはまだ遭遇した事が無いゴキブリであるが、主人の記憶からその存在は把握している上に、非常に酷似しているナダムのキッチン・バグはご丁寧にもドクターゼムがデータベースに登録していた為、その恐ろしさは十分に知っているのだ。
「だろ?」
「ゴ、ゴキブリって何……?」
「ア、アイス様は知らなくて良いんですぅ!」
「もう! どうしてそんな悲観的なんですかぁ!」
ニィっと笑うリュウにアイスが困惑のままに尋ねるのを、必死で止めるミルクと主人に抗議するココア。
「ま、今のは冗談だけどさ、転移した未知の世界で竜の一族が居たらどうする?」
「「あ……」」
だが更なる主人の問い掛けには、ミルクもココアもハッと固まってしまう。
「ヨルグヘイムの話では、竜の一族も色々様変わりしたとか言ってたけどさ、もし人類に危害を加える様な輩が居たらやべえだろ……万が一にもそんな奴をこっちに来させない為にも、簡単には装置を繋げる訳にはいかねーんだよ。それにそいつは一人とは限らねーんだからな」
「は、はい。ご主人様の仰る通りだと思います」
「ア、アイスもそう思う!」
「残念ですけど、仕方ないですねぇ……」
そうしてリュウが真意を明かすと、ミルクとアイスは感激したかの様に同意し、ココアは肩を竦めて残念そうに同意する。
ミルクは主人がコアを託された者として、しっかり考えている事に感激した様であるが、アイスは自身が思いもしなかった事をリュウが考えていた事に頼もしさを再確認した感じだ。
ココアもミルク同様に主人の思慮深さを感じているものの、好奇心の強さがつい出てしまった様である。
「んな、がっかりすんなって、ココア。未知の世界はしばらくお預けだけど、俺の知ってる所なら行けるかも知れねーんだからさ」
「ち、地球へ行けるんですか!?」
そんなココアを見て苦笑いするリュウが可能性を示唆してやると、ココアは飛び付かんばかりの勢いで主人の話に食いついた。
「それはまだ分かんねえ。分かんねえから、これから色々と試すつもりだ。だからそれまで待っててくれ。行ける様になったら、ちゃんと連れてってやるからさ」
「は、はい!」
そうしてリュウが分からないなりにも、地球へ戻れる前提で話を進めてニカッと笑うと、ココアも今日一番の笑顔を返すのであった。




