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肖像画の佳人  作者: 涼華
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第6章


 ゴートベルグ城に帰ったその夜から、マルガレーテ姫は高熱を出した。熱に魘されながら、姫は自分が情けなかった。もし、自分が死ぬようなことがあれば、どんな風評が立つだろうと思うと、公に対し申し訳ない気持ちで一杯になるのだった。今は死ねない。その気力だけで、姫は持ちこたえているようだった。


 高熱が何週間も続いた後、ようやく病状は快方に向かった。


 体中が痛く、頭が重かったが、熱に浮かされるような感じはなくなっていた。マルガレーテ姫は、辺りを見回した。逆光の中にゴートベルグ公の姿があった。


「気がつきましたか。マルガレーテ姫。」


「申し訳ありません。ご心配をおかけして。」姫はかすれた声で答えた。


しかし、公は、顔を背けるといった。


「良いんだ。もう、そんなこと。」


その通りだった。公にとって、自分はどうでも良い存在なのだから。姫は目を閉じた。


 熱は下がったが、姫の体調は思わしくなかった。食も細くなり伏せっていることが多くなった。自分がなぜこうなってしまったのか解らない。公妃としての勤めもままならぬのかと姫は情けなかった。ある日、公が話しかけた。


「侍医の話では、あなたの病気は気鬱だそうだ。これには、転地療法が一番効くという。風光明媚な湖水地方なら、あなたの気も晴れるかも知れない。いってみますか?」


 勤めも果たせぬ公妃ならば、この城にいる資格はない。姫は承知した。出立の日、公は彼女にいった。


「私もすぐにそちらに行く。待っていて下さい。」


 ゴートベルグ公も社交辞令をいうこともあるのだ、姫は寂しげに微笑んだ。



 

 湖水地方は、その名の通り大小様々な湖が点在する景色の美しい所であった。春の盛りの頃であったので、森にも草原にも様々な花が咲き誇り、木々も浅葱色に染まっている。鳥たちのさえずりがあちこちで聞こえた。


姫はその景色の中、ゆったりと過ごしている。ここに来て、自分の体には良かったのだろうと姫は思った。美しい景色が滋養になったのだろうか。姫の血色もかなり快方に向かっている。しかし、姫の心には大きな空洞があいていた。美しい景色は、一瞬、彼女の心を和ませるものの、すぐに姫はゴートベルグ城へ思いをはせるのであった。初めてゴートベルグにきた時のこと、退屈だと思った晩餐会、公と過ごした日々、その全てが懐かしかった。ゴートベルグ公妃としてあそこにいたとき、それは何と素晴らしい日々だったことか、それなのに今の自分は。しかし、何もかも自分のまいた種なのだ。それを刈り取っているに過ぎない。自分が不実であったため、罰が当たったのだ。全てを失ってしまった。いや、公にはあの肖像画の人がいる。セシリア・ヴァルバラ姫も。自分が公の心をしめることなどあり得ないのだ。あり得たとしても、その機会を全てつみ取ったのは、自分自身であった。姫は自嘲気味に微笑んだ。


そして公のことを考えるたびに姫の心は重く沈んだ。




 姫は森を散策している。ついた頃は浅葱色だった木々の緑も、鮮やかな萌葱色にかわっている。日の光が葉を通して森の中に差し込み、それが霧をすかしてカーテンのように揺れていた。しめった木々の匂いが心地よい。彼女は息を深く吸い込んだ。森の力が彼女に生命を吹き込むのを感じていた。



「マルガレーテ姫。」ヘルマン一世の声がした。


空耳に違いない、しかし、彼女は振り返らずにはいられなかった。


「顔色も良くなって、本当に良かった。」紛れもない彼の姿がそこにあった。


なぜ、ここに。


戸惑う姫の所に彼は大股で近づいてきた。


「遅くなって悪かった。寂しい思いをさせて。」


姫は震えていた。


「怒っているのか?どうしたんだ?マルガレーテ姫?」


眼と眼があったとき、彼女の目から涙があふれ出した。ゴートベルグ公国に来て初めて、彼女は人前で涙を見せた。公も驚いた。


「どうしたんだ。苦しいのか?」


姫はかろうじて答えた。「私が悪かったんですわ。」後は言葉にならない。


嗚咽する彼女を抱きしめながらゴートベルグ公はいった。


「泣けばいい。あなたはずっと一人で我慢してきた。我慢しすぎたんだ。だからこんな病気になってしまった。」


公は続けた。


「俺も悪かった。あなたにもっと優しくしてやらなきゃならなかったんだ。それなのに、」


彼女は切れ切れに、自分の態度をわびた。涙が次々にあふれ出す。今までの苦しみを全て洗い流すか、と見まごう量であった。そんな若い公妃を、彼はいつまでも抱きしめていた。




どれぐらい時がたったのか。姫は彼女を呼ぶ声に目をさました。いつの間にか草原に寝かされ、上から黒い毛皮のコートが掛けられていた。隣にゴートベルグ公が腰掛けている。姫は起きあがり頬を染めた。泣きすぎたせいで頭が痛い。きっとひどい顔をしているに違いなかった。そんな様子の姫に、彼は声をかけた。


「大丈夫か?子供みたいにあんなに泣いて。」優しい声だった。


「ごめんなさい。」彼はそれを遮っていった。


「いいんだ。さっき、さんざん謝ってもらったから。」肩を抱きながら続けた。


「今度は、私が謝る番だ。」姫は彼の顔を見上げた。


「本当にすまない。リーフェンシュタールから帰ってきた日にあんなひどいことをいってしまって」彼女は首を振った。


「あのあと、エステルバッハ伯からきいたんだ。あなたのリーフェンシュタールでの活躍を。彼は誠の公妃様だといってたよ。俺も嬉しかった。すぐに謝らなきゃならんのに、意地を張ってしまった。その夜からあなたは熱を出して、もし万一のことがあったらと思うと気が狂いそうだった。」その言葉の一つ一つが、姫の心を温めた。


「やっと気がついてくれた日、あなたがあまり悲しそうな眼をしたんで、辛くて思わず目をそらせてしまった。」


「私、本当に嫌われたんだと思いましたの。」公の胸に顔を埋めながら、姫は密やかにつぶやいた。


「そうだったのか。辛い思いばかりさせて。」彼は、姫をきつく抱きしめた。


抱擁を通して公の思いが伝わってくる。いつしか姫は、その思いを受け入れていた。




マルガレーテ姫は今、不思議な安らぎに包まれ、横たわっている。


「マルガレーテ姫。」ヘルマン一世は、その姫に声をかけた。


姫は恥じらいながらおずおずと目を開けた。はしばみ色の瞳がしっとりとうるんでいる。色白の陶器のような肌はバラ色に上気し、乱れた栗色の髪がその肌に幾筋もかかっていた。その髪を公は指先で梳きながら、さらに続けた。


「あなたには、もっと良い場所で新枕を交してあげたかった。」


その言葉に姫は恥ずかしげに微笑んだ。得も言われぬ美しさ、麗しさであった。


「マルガレーテ姫、あなたは、まこと春の女神のような人。」


それは、直截な物言いが常のゴートベルグ公が与えた最大級の賛辞であった。



 ゴートベルグ城に戻ったマルガレーテ公妃の姿に、廷臣達は声もなかった。呆然と見つめるエステルバッハ伯に、公妃は尋ねた。


「そんなに変わりましたか。」


「はい、しっとりと麗しく、いっそうお美しくなられました。」エステルバッハ伯は顔を赤らめながらいった。


「彼ら、俺があなたにどんな魔法をかけたんだって顔をしてるな。」その言葉に公妃の頬は染まった。



ある日、ヘルマン一世は公妃にカーテンの中の肖像を見て欲しいと頼んだ。


「よろしいんですの。あなたの想い人の絵でしょう。」


「だから見て欲しいんだ。」公妃は期待と不安の相半ばする気持ちでカーテンを開いた。


公妃は意外さに声も出なかった。


「あなたの肖像画だ。リーフェンシュタールの宮廷画家に密かに描かせたものだ。」


公の思いは最初から自分にあったのだ。マルガレーテ姫の心は幸せに満たされた。二人は、あたかも肖像画と同じように寄り添い、その絵を見つめたのであった。



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