第3章
マルガレーテ姫は、ゴートベルグ城の晩餐会には飽き飽きしていた。飲んで騒ぐだけの騎士達、貴婦人のマナーもリーフェンシュタール公国のそれに対して明らかに劣っていると思われた。どうして、こう、武骨者ばかり集まっていることか。かつて、老臣達から聞いていた華やかさはみじんもなかった。
全て、この男のせいなのだ。姫は、軽蔑の眼差しでヘルマン一世を見る。公が大貴族達を粛正したため、この国の宮廷文化は死に絶えてしまったのだ。
ヘルマン一世が、姫にささやいた。
「ロイヤル・スマイルを見せて頂きたいものですな。姫君。」
晩餐会は終わった。姫は中庭にでている。星明かりの中、堅固な石組が見える。姫はため息をついた。この城には、優美さのかけらもない。せめて、庭に花の1つでも植えようという気になる者は一人もいないのだろうか。リーフェンシュタール城の瀟洒な庭が思い起こされた。
帰りたい。帰れるはずがない。
「退屈ですかな。」公も庭に出てきた。「体が冷える。早く戻りなさい。」命令口調なのが姫をいらだたせた。
「退屈ですわ。何もかも。」
「お気に召さないようですな。」
「ええ、全て気に入りませんわ。お城も晩餐会も、」姫は、思いの丈を全て公に話した。
「私には、耐えられません。このような武張った暮らしは、」
「ならば変えてみるんですな。」姫は耳を疑った。
「よろしいんですの。あの、お庭を変えたり、楽士を招いて宴を催しても・・」
「かまいませんよ。私は、」公は、平然といった。
公の意外な申し出に、マルガレーテ姫の頭にある考えが浮かんだ。
リーフェンシュタールから楽士を招こう。そして、楽士を使って手紙をローランドに、いえ、上手くすれば、ローランドその人を・・
しかし、次の言葉は、姫に冷水を浴びせるものだった。
「姑息なことは考えない方が良い。騎士の身を案じるならばな。」
ローランドの消息を知ることはできなくても、城を自分の好みに改装できることとなり、マルガレーテ姫の心は久しぶりに晴れやかになった。彼女が改装できるのは、中庭と晩餐会の行われる広間だけだったが、それでも姫は嬉しかった。ゴートベルグ公国でも選りすぐりとの評判の庭師や大工、絨毯職人が集められ、工事が始まった。マルガレーテ姫は中庭が整備されていくのを日々眺めている。殺風景だった庭にバラの植え込みと瀟洒な東屋が造られた。小さいながら泉水もでき、優雅な雰囲気が生まれてきた。
しかし、姫の希望が全て叶えられるわけではなかった。相談役にと公が指名した侍従長と姫はしばしば衝突した。警備上の問題が多いというのだ。一事が万事この調子で、ゴートベルグの騎士達の頑固さに姫は呆れた。それでも、ほぼできあがった庭を侍従長も気に入ったらしく、散策するその初老の貴族の姿を姫は眼にしていた。自分の庭を気に入ってくれた人がいる、そのことは、たった一人でこの国に嫁いだ姫にとって、心躍ることだった。
「やっとあなたの笑った顔が見られた。」公の言葉に姫は驚いた。
「怒った顔も魅力的だが、笑った顔はもっと素敵だ。」思いがけない言葉に、姫の頬が赤らんだ。
「どうしました?」からかうような口ぶりだった。
「なぜ、私のことを気遣って下さるの?」
「当然のことだ。」公の言葉の真意を測りかね、姫は戸惑った。
「我々は、この国を治めている。軍隊でいえば将軍にあたるんだ。その二人が角突き合わせてみろ。軍として立ちゆかなくなってしまう。だから、」
「もう、結構よ!」
マルガレーテ姫は憤然と、公の言葉を遮った。この男の頭には戦いに勝つことしかないのだ。結婚生活まで軍隊と同じように考える人間がいるなど、姫には信じられなかった。
広間の様子も一変した。床に大理石が敷き詰められ、壁は華やかなタペストリーで飾られた。晩餐会では、楽士達が、リーフェンシュタールからではなかったが、招かれた。これで少しは宮廷らしくなった。公も気に入っているに違いない。そう思って姫は、ゴートベルグ公に尋ねた。しかし、公は、素っ気なくいった。
「私には、退屈だった。」
「ひどいわ。」喜んでくれると思ったのに、姫は傷ついた。
「だが、正直に言って欲しいといったのはあなただ。」
冷たい言葉、何と低俗な男だろう。姫の心は嫌悪感で一杯だった。
「あなたみたいな、出自の卑しい人が治めているからこの国はだめになったんですわ。」軽蔑しきった口調になった。
「何?もう一度いってみろ。」
「何度でも申し上げますわ。」負けずに姫は言い返した。
「傭兵上がりのあなたのせいで、ここの騎士達は優雅さのかけらもございませんわ。」
「この国の騎士がリーフェンシュタールの騎士より劣るというのか。」公は激怒した。
「ええ、そうですわ。リーフェンシュタールの騎士は礼儀をわきまえていますもの。」
「そうかな。その礼儀正しき騎士達はあなたの国を守ったのかな?しっぽを巻いて逃げ帰ったではないか。あなたの、あの最愛の騎士殿もだ。」
「何ですって。」今度は、姫が怒りに震える番だった。
「いいか、マルガレーテ姫。あなたは、女におべんちゃらを言うのが騎士だと思っているらしいが、そんな考えはどぶにでも捨ててしまうんだな。」
「無礼な・・」粗暴な口調に姫は言葉も出ない。
「あなたは、ご立派な生まれを鼻にかけているが、リーフェンシュタール大公家といったって、始祖は何だ。盗賊騎士だったんだろうが。傭兵上がりの俺とどっちがましだっていうんだ。今度、ここの騎士をバカにしてみろ、そのケツをけっ飛ばしてやるからな。」
「野蛮人!」
マルガレーテ姫は思わず公の頬を張り飛ばした。唖然としている廷臣達が見守る中、彼女はヘルマン一世に向かってまくし立てた。
「あなたのような最低の男、見たこともないわ!戦うだけが戦争じゃないはずだわ。外交だって必要なのでしょう?そのための宮廷であるはずだわ。だから、私、少しでも・・もう良いわ。いつまでも他の国にバカにされればいいのよ。あなたなん・・」
姫は公の顔を見た。顔面蒼白の形相に、彼女は思わず広間を飛び出した。廷臣達の面前で、あのような侮辱を受けたのだ。公は決して自分を許しはしないだろう。
「マルガレーテ姫。」中庭に佇んでいる姫に背後から声が聞こえた。ヘルマン一世だった。
何をする気だろう。身を固くした彼女に、彼は続けた。
「私が悪かった。許してくれ。」思いがけない言葉に、姫の体は小刻みに震えた。
「寒いのか。」後ろから、そっと、抱きしめられた。公の腕の中は大きく暖かかった。
「ごめんなさい。」自然に言葉が出た。「あんな、ひどいことをいって、本当に・・」
「いいんだ。あなたのいうことにも一理ある。私たちの国のことを心配してくれてありがたいと思ってるんだ。」私たちの国、その言葉に、姫の胸は熱くなった。
「いいえ、私も悪かったの、言い過ぎたましたわ。」
公の腕に抱かれながらマルガレーテ姫は、ここに嫁いで以来、ずっと張りつめていた気持ちが溶けていくのを感じていた。暖かい腕、それは姫に遠い記憶を呼びさました。
父のリーフェンシュタール公の膝ですごした幼い日々、優しかったお父様、美しかったお母様・・夫妻は人もうらやむほどの仲睦まじさであった。政略で結ばれた婚姻でも、あのような麗しい関係もあったのだ。
「また、思い出に浸っているのか。」公の声に現実に引き戻される。
「何を考えている。」尋問するような口ぶりだった。
「私の考えなど、お見通しなのではなくて?」公に身を委ねてしまうとは、恥ずかしさに姫は思わず、彼の腕を振りほどこうとした。
「さあな。ただ、あの騎士殿のことじゃないことは解る。」彼は静かに手を放した。
「幼い頃のことですわ。私の両親のこと。」
「私に父親代わりになれとでも?」
「冗談じゃないわ!」顔が赤くなった。
「図星か。」
「ふざけないで!お父様は、断じてあなたのような、」姫は言葉を飲み込む。射るような公の視線を避け、目を伏せた。
「その方が、あなたらしい。」その言葉に、姫の頬が熱くなった。
急に、公は笑い出した。バカにしている。姫は悔しかった。
「そうやって、私をバカにしたければするが良いわ。」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。」
「何がですの?」
「あなたの剣幕に、仰天した侍従長の顔を思い出したのさ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、『良く、手を挙げられましたな』っていってたよ。全く、あなたの勇気には感服した。このゴートベルグ公に手を挙げられたのは後にも先にも、マルガレーテ姫、あなた一人だ。」
姫はいよいよ赤くなった。あの啖呵を一部始終、侍従長達が聞いていたかと思うと、恥ずかしさに身が縮む。何と、はしたない、と噂する廷臣達の姿が見えるようだった。ヴィルヘルム伯がこの話を聞きつけたらどう思うだろうか。リーフェンシュタールではこのようなことはなかった。ゴートベルグに来てからだ、自分が変わってしまったのは。この男と出会ったことで全ての歯車が狂ってしまっている。
「もう、止めて下さい。」姫は努めて感情を押し殺しながらいった。
「しかし、」公はまだ笑っている。「あの騎士殿も、大変だったろうなあ。」
「あの人がどうかしまして?」ローランドのことに触れられて姫はこわばった。
「あなたとあの騎士のやり合う場面を想像するとさ。さぞや、あの若僧、顔を腫らせたんだろうな。」
「失礼な!ローランドは私の機嫌を損ねたことなど一度もないわ。いつだって」
「いつだって?」公は鸚鵡返しに尋ねた。
「いつだって、私のことを気遣ってくれたわ。あなたとは違います!あの人はいつだって優しかった。」
公の顔に冷笑が浮かんだ。
「何がおっしゃりたいんです?」姫はいらだった。
「いつだって優しかったか。あの騎士は、おべっか使いの天才だってわけだ。」
「ローランドを侮辱したら許さないわよ!」
「あの騎士は、おべんちゃらしか言わなかったんだよ。」
そんなはずはない。しかし、姫は声に出すことができなかった。姫の心にかすかな疑念が浮かんだ。姫は所在なげに庭を見渡した。
「戻りましょう。」公が肩に手を回した。マルガレーテ姫は彼の手を振り払おうとした。
「このまま帰るべきなんだ。」公は平然といった。「我々は仲睦まじいところを見せねばならない。」
悔しいが、公の言うとおりだった。マルガレーテ姫は仕方なく、ヘルマン一世にエスコートされて城内に入っていった。