悪魔の誘い
救国の英雄、騎士の鑑、魔王を倒した勇者。
それらの称号や名誉など、ここでは何らの意味も持たなかった。誰もが等しく鎖に繋がれ、鉄格子を嵌めた部屋に監禁され、牢番の気まぐれな鞭に怯える。無論それは、一時は王位を継ぐかと噂された男であっても少しの違いもなかった。
その男、名はローラン。黒髪に燃えるような青い瞳の秀麗な容姿。すらりとした長身には必要な筋肉が全てついており、引き締まった体つきをしている。そして勇者としての名誉、名声。国中の女たちの憧れの的であり、男たち皆が崇拝する軍神だった、僅か三週間前までは。
だが今、彼は囚人だった。それも、王族を襲撃したという重罪により捕らわれていた。
(あの嘘つきの国王め…。馬鹿貴族どもめ…。裏切り者の家臣どもめ…)
ローランの心は憎悪と憤怒に満ちていた。だが獄中ではどうすることもできない。行き場を失った怒りは彼を自傷行為へと駆り立てていた。拳は石の壁を殴り続けたために皮が裂け肉が破れ、身体中が引っ掻き傷で埋められ、青白くげっそりとした顔は血にまみれ、まるで悪鬼のような形相だった。ぎらぎらと虚空を睨み付ける目は、まさしく狂人のものであった。
さすがの牢番たちもローランのこの姿には恐れをなし、用がなければ決して近づこうとはしなかった。否、用があってもできる限り近づくことを避けていた。
「うぅぅぅぅぅ…!」
無理に文字にすればそのように聞こえる獣のような声でローランが吠えた。隣の牢に閉じ込められた不運な囚人は、ローランとは反対側の壁に身を寄せて縮こまり、震え上がっていた。
「…許さない。決して許さない。呪ってやる。祟ってやる。この息の続く限り、いやこの身が朽ち果てようとも、永遠に呪ってやる…」
ローランはぶつぶつと呪詛の言葉を吐き続けた。そして遂にある言葉ー以前の彼ならば決して口にしなかったであろう言葉を呟いた。
「復讐せずにいられようか。たとえ神に反逆しようと…。悪魔に魂を売ろうと…」
不意にローランは口をつぐんだ。自らの言葉に恐れをなしたからではない。鍛えられた戦士としての本能が、何者かの気配を感じたのだ。
「…ふっふっふ。やっと言ってくれたね。その言葉を待ってたんだよ」
「誰だ!」
すぐ近くー明らかにローランの幽閉されている部屋の中ーから聞こえる声に、ローランは怒鳴った。隣の牢から悲鳴が聞こえたが、それにはかまわない。
「ぼくが誰かって?君が今呼んだ者だよ」
頭上から、からかうような声が降ってきた。ローランが声のした方を睨み付けると、そこには一人の男が浮いていた。
男、というよりは少年と言った方がいいかもしれない。黒いズボンに白シャツ、黒いベストを羽織り、僅かに幼さの残る顔に質の良くない笑みを浮かべている。まるで悪戯を思い付いた子どものような表情だ。
「…貴様、何者だ!」
ローランは吠えた。少年はふっと鼻で笑い、答える。
「何者だ、なんてつれないなあ。たった今、君がぼくを呼んだんじゃないか」
「誰が貴様など呼ぶか!俺は誰も呼んでおらん!」
「わかんないかなあ」
やれやれといった表情で、少年は肩を竦めた。
「俗な言い方をするなら、ぼくは悪魔さ。それも、大悪魔。大悪魔メトフィスってのがぼくの名前だよ」
歌うようにメトフィスが言った。
「そうか。それで、その大悪魔様が何の用だ。悪魔だと言うのなら、魔王退治の俺は敵だろう?」
興味も無さそうにローランは問いかけた。
「君は鈍いんだか鋭いんだか、よくわかんないねえ。魔王、まさしくそれさ、ぼくの用ってのは」
「…敵討ちでもしにきたか?この俺が弱ったところを狙って」
「嫌だなあ」
再び、メトフィスは肩を竦める。
「敵討ちなんて興味ないし、そもそも君は弱ってなんかないさ。むしろある種の力は増大する一方だよ」
怪訝な表情を浮かべるローランを、メトフィスは愉快そうに眺めている。
「そう、ある種の力。一言で言うなら、闇の力ってことになるのかな?なんとなく、心当たりはあるよね?」
「…この俺の、復讐心…か?」
ゆっくりと区切りながら、ローランは言った。
「ご名答!大正解だよ、ローラン」
悪魔は面白くてたまらないというようにケラケラと笑った。
「それで、その闇の力とやらがどうしたと言うんだ。そんなものがどうかしたのか?」
笑われてむっとしたローランはメトフィスを睨み付けた。
「決まってるだろう?闇の力が強い人間っていうのは、魔族の仲間入りができるんだ。そこで、だ。闇の力が普通の人間じゃああり得ないくらい強い君は、根っからの魔族たちを従えるほどの力があるわけさ」
「何が言いたい!回りくどい話はどうでもいい!早く要点を言え!」
早口にローランは吠えた。
「はいはいはいはい。せっかちだなあ、君は。まあね、要は」
メトフィスは勿体ぶるように一呼吸おいた。
「君をここから助けだし、惨めで屈辱的な死から救う。そして、君に新たな魔王になってもらおうと思ってね」
空気が凍りついた。ローランの悪鬼のような目はこれ以上ないほどに見開かれ、口は開いたまま塞がることを知らないかのようであった。時は静止したかのようにゆっくりと流れた。ただ、この衝撃的な言葉を発した当の悪魔だけが、変わらず笑みを浮かべていた。
「…俺に…魔王になれ…と?」
ようやく口が聞けるようになったローランが、おずおずというように問いかけた。
「だから、そう言ってるだろう?そしてそこには何の不思議も矛盾もないんだよ」
「だ、だが、俺は魔王殺しだぞ?魔族の仇ではあっても、王などとー」
「そこさ」
珍しく狼狽するローランの言葉をメトフィスは遮った。
「魔族っていうのはね、強い奴に従うのさ。前の魔王サドゥアルが偉いから従ってた訳じゃない。サドゥアルが強いから大勢の魔族が従って、魔王軍が形成されたんだ。そして君はそのサドゥアルを倒した。それも、正々堂々とした戦いでね。だから君には魔王を名乗る資格が十分過ぎるほどにあるってわけ」
「だが、魔王軍には他にも重臣や将軍、魔王の親族が大勢いたはずでは?」
ようやく多少は落ち着いてきたローランが言った。
「それだよ、問題は。重臣やらなんやらは確かにたくさんいた。だけどね、誰も彼もが、いまいち力が足りないんだ。そして魔族は自分としては同格以下、少なくともそう思ってる相手におめおめと従うことはしない。まあ言ってみれば、魔王軍は今、大空位時代を迎えてるってことになるのかな」
歌うような口調でメトフィスは言った。
「なるほどな。そういう事情か。それで、仮に俺が魔王になるとして、そいつらは従うのか?魔王の座を奪い合ってる奴らってのは」
「それぞれだろうね。従うのもいれば、逆らうのもいる。だいたいの魔族は人間を格下だと思ってるから、従わないのの方が多いかもね。それはそうと、そんな質問をするってことは脈ありだと思っていいのかな?」
メトフィスの口調は期待を込めたような、相変わらず面白がっているような、つかみどころのないものだった。
「まあ待て。まだ決めたわけじゃない」
「ちぇっ。まあいいや。で、後は何を聞きたい?」
「魔王を名乗るとしてだ、その背景になる武力はあるのか?つまりは軍勢だ」
「痛いところを突くねえ」
メトフィスは両手を上にあげ、お手上げだというような仕草をした。
「おい貴様、まさか軍勢もなしにー」
「はいはい待った待った。そうさ、今は軍勢はない。大悪魔のぼくの直臣を集めても七、八人だ。だから、待ってってば。あてはあるんだから」
口を挟もうとしたローランを抑えつつ、メトフィスは早口に言った。
「あて、だと?」
メトフィスの言葉を疑うようにローランは眉をひそめた。
「うん、まあね。最初に他の魔王僭称者たちと一戦交えるくらいの戦力はなんとか揃えられる。勝てば勝つほど、兵力は増えていくしね。最初の軍勢は本当になんとかなるよ。君自身の力も必要だけどね。もちろん、大悪魔として可能な限りの手助けはするよ」
「そうか」
短くローランは答えた。
「確かに、魔王になるのは俺にとっても悪くはない選択肢かもしれないな。俺は力がほしい。大功ある俺から全てを奪い、投獄の憂き目を見せた奴らに復讐し、王女を取り戻すためには力が必要だ。それに、このまま獄中にいれば、いかな俺とて長くは持たん。神への信仰などとうに失った。ならば、悪魔に魂を売ってでも力を得た方がいい。何か裏があろうと、代償があろうと、このまま無駄死にするよりは遥かにましだ」
ほとんど独白のように、ローランは呟いた。
「よし悪魔、お前の話、乗った。俺を魔王にしろ!」
ローランは久々に生気に溢れた表情を浮かべた。もっとも、目には狂おしい光を浮かべ、ぞっとするような残虐な表情ではあったが。
「いいねえ。いいとも。そうこなくっちゃ」
メトフィスもまた残忍そうな笑みを浮かべている。
「じゃあまずは君をここから連れ出そう。楽しい楽しい狩の時間はその後だ」