密約
口うるさくギルシュが休むよう言い続けていたせいか、セルフィスの体力は少しずつ戻り、薬も飲まずに済むようになった。
だが、ギルシュの方は、これまでよりも、城の中で、居心地が悪くなってきていた。というのは、彼だけではなく、仕えていた宮廷魔道士たちにも言えることであった。
エリザベス大公妃に取り入ろうと、方々からやってきた得体の知れない魔道士たちが、しょっちゅう宮廷に出入りするようになったのだ。
宮廷魔道士の長が死んでから、その後は、ザビアンが引き継ぐことになった。
ザビアンは、まだ中年ほどで、長としては若かったが、冷静な判断が出来、実力もあったため、宮廷の人々からも承認された。
宮廷魔道士の中で、最も若いギルシュは、人好きのする雰囲気であるが、ザビアンは外見からして冷たく、近付き難い、典型的な魔道士であった。
宮廷魔道士という立場に、あまりにも忠実な彼を、ギルシュ自身は、あまり好いてはいなかったが、命令には忠実に動いていた。
『よそ者』が多いため、内輪だけでも結束を固めておかなくてはと、宮廷魔道士たちの絆は、より一層深まっていったのだった。
「まったく、やりにくい宮廷になってしまいましたよ」
ギルシュは、身振り手振りで話をすると、はあと溜め息をつき、出された紅茶をすすった。
彼は今、記憶をなくしている国王の側付き魔道士である、自分の上司に、会いに来ていた。
長閑な田園風景が、窓越しに見える。ここが同じベアトリクスかと疑いたくなるほど、都会的な城下町からは、かけ離れた景色に、ギルシュは安心して、見入っていた。
「やはり、恐れていたことに。あの大公妃が実権を握ってから、早くも、宮廷に波風が立っているようだな」
初老に入ろうというところだろうか、国王側付き魔道士として長く勤めるバルカスが、額にしわを刻んでいる。
「あの四角四面なザビアン殿ですら、まだマシだと思えるような気がしてしまいますよ。よそから来た魔道士たちの中には、『魔道士の塔』に登録していないヤミ魔道士までいるんですよ。そんな奴らが、このベアトリクスの宮廷をうろうろしているなんて、信じられません。そのせいか、セルフィス様を付け狙う妖魔が、最近増えたように思うんです」
バルカスは、ギルシュの話を聞いて、腕を組み、唸った。
「ベアトリクス宮廷が、ごたごたしている中、蒼い大魔道士めが、そこに付け入って、公子様を手に入れようとしているのかも知れぬ。大公妃め、自分の息子が狙われやすい環境を、自ら作っていることに、気が付かぬのか」
「蒼い大魔道士が、セルフィス様の魔力に目を付けていることなど、知りはしないものですから。知ってしまえば、セルフィス様を、四六時中監視してしまい、一層、公子様に負担がかかってしまいます。私も動きにくくなりますし」
「そこが難しいところだな」
バルカスが、小さく溜め息を吐く。
「バルカス殿、公子様は、マリス様との婚約は破棄してしまってはいても、大公妃の裏をかいて、なんとかマリス様を助けたいとお思いになっておられるのです」
バルカスが顔を上げる。
「それを聞いて安心した。婚約破棄の知らせを聞いた時は、公子様は、大公妃の言いなりになってしまわれたのかと、心配したのでな」
「それも、投獄された、マリス様の養父ルイス・ミラー伯爵を助けるために、致し方なかったのです。これで、安心したのか、大公妃も、セルフィス様から少しは遠ざかりました」
ギルシュは、少し慎重な面持ちになって、続けた。
「そこで、今、こっそりと、セルフィス様独自の軍を作ろうと、私も奔走しているところなのですが、なにしろ、謀反人のレッテルを張られたマリス様を救う部隊というのは、かなり難しいのです。皆、大公妃の無慈悲な仕打ちを恐れていて、少しでも逆らうような真似は出来ないという国民が多いので。しかも、マリス様とかかわりのあった人物を、大公妃が次々と投獄しているので、ご幼少の頃のお仲間を見付けて、お話しすることすら、ままならないのです」
「ますます狂った話だな」
ギルシュは改めてバルカスを見た。
「陛下のご容態は、いかがですか? 」
バルカスが、首を横に振る。
「お身体は、とうに元気におなりなのだが、記憶の方はさっぱりで、私のことも、未だ思い出しては頂けぬ。大公妃が密かに雇っているヤミ魔道士の術が、かかっていると思われる。奴に術を解かせるか、もしくは倒さぬ限り、陛下の記憶を取り戻すのは難しいだろう」
ギルシュは、気の毒そうに、バルカスを見つめた。
彼ら二人の魔道士の考えでは、なんとか王の記憶を戻し、大公妃の陰謀を暴露し、マリスを見つけ出して、元通り正当な家系がベアトリクスを治めていくよう、ことを運ぼうというところであったが、それは、行き詰まっていた。
職務のため、ギルシュが帰った後も、バルカスは考え続けていた。
(応援を頼むべきか……。だが、ベアトリクスの宮廷魔道士たちは、正規の魔道士でありながら、魔道士の塔からは孤立し、独自のネットワークを持つ。魔道士の塔から応援が来たとしも、はたして協力するかどうか……。そもそも、宮廷魔道士たちは、ベアトリクス王国というよりも、王家にのみ忠実な組織。今の国王は事実上大公妃であるから、皆、彼女についてしまっている。魔道士の塔にしても、ひとつの国の未来などには、わざわざ手を貸さぬだろう。よほど信頼できる者に頼むとなると……)
バルカスは、知っている者たちの顔を思い浮かべるが、いずれも偏屈者であり、研究には向いているものの、機転を利かせられそうな者は思い当たらず、だからこそ、公子の側付き魔道士には、まだ若いギルシュを呼ぶしかなかったのだと、思い返したのだった。
(そうだ、ひとりだけ、同期で話のわかる奴がいた! )
バルカスは、同世代の、銀髪の男を思い出した。
(ベーシル・ヘイド、彼ならわかってくれる。だが、今は、魔道士の塔上層部で、重要な人間であるから、そう簡単に塔を離れて、ここまでは来られないだろう。私は、陛下のおそばを離れるわけにはいかぬし……)
バルカスの苦悩は続いた。
一日の仕事が終わり、セルフィスの書斎では、ギルシュが書類を整理していた。
「ギルシュ」
「はい、公子様」
言われなくてもわかっているとばかりに、ギルシュは手をさっと振った。
結界を張ったのだ。
これで、魔道士たちにさえ、秘密の話は聞こえない。
「僕の独自の軍の方はどう? 少しは集まりそう? 」
「それが、マリス様の育ったミラー家の兄上たちは、金獅子団におられるのですが、現在、お三方とも謹慎処分が出ています。ミラー家を始め、親族の方々のお館では、騎士や魔道士たちが見張っていて、出入りが難しいかと。その他に、戦力になりそうな、彼女の士官学校時代の友人たちをあらってみても、ほとんどが投獄されているので、彼女とは関係のない人々にも探りを入れてみたのですが、皆、大公妃の仕打ちを恐れているので、今のところ、とても信頼できそうな人材は、見当たりません」
セルフィスの表情は曇り、窓の外に視線が移った。
ギルシュも、静かに、セルフィスを見つめる。
「やっぱり、無理なのかなぁ、僕が、お母様の裏をかこうなんて。僕のような世間知らずじゃ、お母様には敵わないのかも……。情けないね」
「何をおっしゃいます。公子様のやさしいお人柄は、皆が認めております。宮廷に出入りしている貴族たちの間でも、大公妃の恐怖政治的なやり方には賛成できず、そのような方々の中には、セルフィス様を支持する方も、少しずつながら出て来ているのは事実です。公子様は、公子様のやり方でいいんです。こう言ってはなんですが、あのような無茶苦茶な母上だからといって、ご自分の良いところを曲げてまで、対抗する必要はありませんよ。わかる人は、ちゃんとついてきてくださいますから」
セルフィスは、ふっと肩の力が抜けたように笑った。
「きみと話していると安心するよ、ギルシュ。きみは、僕を元気付けるのが上手だね」
「私は思ったことを素直に申し上げているだけですが? 」
「そうだったね。だから、きみのことは信頼できるんだ」
セルフィスは椅子から立ち上がると、窓の方へ行き、遠くを眺めた。
「ギルシュ、……ラン・ファさんを、なんとか探せないだろうか? 」
「コウ・ラン・ファ殿とは、マリス様の師で、黒鷹将軍であられましたね。魔道も使いこなす方と伺ってます。ラン・ファ殿のことは、国王陛下があのようなことになってから、バルカス殿も探してみたようですが、見付からなかったようです。魔道の使い手となると、回避する術も知っているので、少々探しにくいと思うのですが……」
「だったら、ダンなら、どうかな? ダンは元騎士だし、魔法は使えない。まだ探しやすいんじゃないかな? 」
ギルシュは、無表情になってから、続けた。
「私がセルフィス様の護衛を勤めるようになって間もない頃、公子様のお部屋に忍び込んできて、なんだかんだいちゃもんを付けた後に出国した、あの生意気な若造のことですか? 」
セルフィスは、振り返ると、困ったように笑いながら、うなずいた。
「彼は、僕よりもずっと前からマリスを知っていて、マリスの兄みたいな人なんだよ。彼なら、マリスのために、立ち上がってくれると思うんだ。どうかな? ダンを、探してきてくれないか? 」
ギルシュは首を横に振って、強く言った。
「私には、あの男は危険に思えます。あの男に頼もうものなら、その謝礼に、マリス様と、最高の地位をよこせと、無理な要求をしてくるに決まっています」
セルフィスは、力なく笑った。
「ダンは、そこまで悪い人じゃないよ。事情を話せば、わかってくれるだろう。彼は、昔、ベアトリクスの騎士になって、国に尽くしたいと、本気で思っていたのを、僕は知っているんだよ。それに、……例え、きみの言う通り、彼がマリスを手に入れ、この国の王座についてしまっても、彼には、それだけの器があり、僕にはなかったってことなんだから……僕は、それでもかまわないよ……」
「公子様っ! 」
セルフィスは、ギルシュの声に驚いた。
「いけません、そのように、お考えになっては! 公子様は、マリス様と一緒になられるべきなのです! 例え、あのダンという男が、この国の陰謀をすべて解決でき、マリス様をも無事探し出し、名誉を回復することが出来たとしても、公子様を追いつめるようなことをすれば、私があの男を殺します! 」
ギルシュの真剣な顔に、セルフィスは圧倒されていた。
「お願いですから、あんな男になど、頼らない方が懸命です。公子様の秘密部隊は、なんとかして私が集めますから、結論をお急ぎにならずに、どうか、もう少し待っていてください」
ギルシュは、ぺこっと頭を下げると、背を向けて、部屋を出ていこうとした。
その時、ふわりと、後ろから、抱きつかれた感触に、進みかけていた足を留めた。
「……セルフィス様? 」
ギルシュが、首だけ振り返ると、セルフィスが、ギルシュの背に顔をうずめていた。
「ギルシュ、ありがとう。僕の本当の味方は、きみだけだ。お母様よりも、誰よりも……。僕を、ずっと、守ってくれるかい? 」
か弱い視線を送るセルフィスに、ギルシュは、母親のような気持ちで微笑み、うなずいた。
(公子様は、淋しいのかも知れない。思えば、彼と親しかった貴族の若者たちは、大公妃を恐れて、近寄らなくなってしまったし、姫君たちは、相変わらず寄ってはくるけど、彼女たちでは、公子様のやすらぎにはならない。父上である大公殿下も、近頃お加減がよくなく、部屋に閉じこもり気味だし、……せめて、心の支えであったマリス様さえ戻っていらっしゃれば、公子様のお気持ちも、大分違うのだろうけど……)
公子の部屋を出た後も、ギルシュは、セルフィスの心を案じていた。
「いつになったら、あの娘の行方がわかると言うのです! 」
大公妃エリザベスの叱咤する声が、室内に響く。
宮廷魔道士たちは、ひざまずき、頭を垂れていた。
「そなたたちは、優秀な魔道士であろう? そのようなことでは、雇った魔道士たちの方にも、頼むしかあるまい」
「おそれながら、殿下」
遠慮がちに口を開いたのは、突如まとめ役となったザビアンであった。
「王女殿下の痕跡は、いくら探索しても見つかりません。考えられるのは、強力な魔道士と一緒だということです」
「強力な魔道士ですって? ふん、怖じ気付いたのですね」
ザビアンは、一層頭を低くした。
「もうよろしい。そなたたちだけに任せてはおけません。他の優秀な魔道士たちにも頼むことにします。どちらが先に王女を見つけるか、せいぜい、競争して探すことね」
ふわふわと羽扇子で仰ぎながら、大公妃は、ぷいっと背を向けて出て行った。
(まったく、ますますイヤな女だぜ。こんな女の命令なんか、黙って聞くことないのに)
後方でひざまずいていたギルシュは、呆れ果てていた。
(ところが、こいつらときちゃあ、反抗なんて夢にも思わないみたいだ。忠実に仕えてるばかりじゃ、あまりにも脳がないんじゃないの、ザビアンさんよ? )
ギルシュは、日頃から、他の宮廷魔道士たちを、自分の頭でものを考えられない人種だと、心の中で小馬鹿にしていた。
つまらないお説教の後、セルフィスのもとへ戻ろうと回廊に出て、すぐに足を止めた。
「誰です? 」
不審な気配を背後に感じ、振り返らずに尋ねる。
「ヒヒ……、ヒヒヒ……」
品のない笑い声を立てて、彼の後ろに、煙とともに現れたのは、小柄で痩せこけた、目ばかりが大きい、ハチのような顔をした男だった。
ギルシュは首だけ振り返り、興味のなさそうな目で、男を見つめた。
「あんたが、公子殿下の側付き魔道士とやらかい? 」
「だったら、なんです? 」
「いや、別に。ヒヒヒヒ……」
小柄な男は、値踏みするようにギルシュを眺めた後、さっと、姿を消した。
ギルシュは、何事もなかったような顔で、歩き出した。
(あの小男、蒼い紋章の入ったペンダントをしていやがった。間違いなく、蒼い大魔道士のまわし者……! )
ギルシュは、気を引き締めると、ひゅんと、空間の中に入った。
「ギール、そこにいるの? 」
エリザベスが、暗幕を敷き詰めたような真っ暗な部屋の中で、天井に向かい、呼びかける。
暗闇の中には、ぼやぼやと、さらに黒い影が現れ、人の形となる。
黒く長い髪を、後ろでひとつに束ね、浅黒い肌に、黒い瞳の闇夜のような男の姿だった。
「いよいよ、実行してちょうだい」
一見して、東洋の魔道士は、ひざまずいた。
「その前に、もう一度確認いたしますが、……わざわざ国王を殺す必要があるのでしょうか? 王女を誘き出すためであれば、殺すよりも、人質として幽閉しては? 」
「その意見は、何度も聞きました。あなたも、あの脳なしの宮廷魔道士たちと一緒なの? 何度も同じことを言わせないでちょうだい」
エリザベスは、不愉快そうに、魔道士を睨みつけた。
「殿下。殿下を王座に即けるためのこの計画は、本来、私と殿下のみで行ってきたはずです。それなのに、なぜ他のヤミ魔道士などを雇ったりなさったのです? 蒼い大魔道士が、以前から、この国に目を付けていると、私が忠告していたにもかかわらず、その部下をも、みすみすこの国へ入れてしまうとは……! この国が、乗っ取られてもかまわないのですか? 」
抑揚のない、典型的な魔道士の話し方であったにもかかわらず、魔道士の声は、幾分高ぶっているように聞こえる。
「ふん。大魔道士だかなんだか知らないけど、この私がそう簡単に、たかが魔道士風情に、付け込まれるとでも思って? あの小憎たらしい王女を捕まえるためなら、大魔道士とやらの力を、こっちも利用させてもらえばいいのよ。つまり、王女を始末してしまうまでは、手を結んだと見せかけておくの。大事なベアトリクスを、そんな得体の知れない魔道士のじいさんになんか、渡すものですか! 」
大公妃は、羽扇子を閉じ、ソファにゆったりと腰を下ろし、目を閉じた。
ギールは、しばらく沈黙していたが、思い切って口を開く。
「あなたは、魔道士を軽んじておられる。特に、蒼い大魔道士は、あなたが考えておられるほど、甘くはない」
大公妃が面倒そうに、薄く目を開いた。
「あなたはね、私の言われた通りにしていればいいの。あなたにとっても都合のいい話なんじゃなくて? 早く国王を殺してしまえば、私との契約にあった『例のもの』が、手に入るじゃないの。なんなら、国王を殺した時点で、お役御免にしてあげてもいいわよ。あなたの欲しがっている『例のものーー王家の聖杯』も、それで手に入れられるでしょう? 」
ベアトリクスでは、正統な王の証として、王家の首飾り、聖剣、そして、聖杯があった。
首飾りと聖剣は、既に、エリザベスが手にしている。
「聖杯には、代々王家の魔法がかけられていて、その血を引く者でなければ、箱から取り出すことも出来ない。だからこそ、私は、あなたと組んだのです。私ひとりで聖杯を手にすることは出来ません。王家の血を引く者が、結界を解かなければ」
ギールが、大公妃のソファに近付き、ひざまずいた。
「まったく、あんな古びた聖杯が、なんでそんなに欲しいのかわからないわ。ただの王家の証ってだけですもの。私には、あんなものには興味はないわ。国王もろとも『不慮の事故』で燃えてしまえば、それを継ぐ儀式も必要なくなり、今後、あれがなくても、国王を名乗ることは出来る。ねえ、そうではなくて、ギール? 」
にやりと笑う大公妃の怪し気な笑顔に、ギールの額を、冷たい汗が伝った。
「……恐ろしいお方だ。実の兄を、そのように……」
「今さら、何を言っているの。あなたこそ、なんとかの毒とやらを使って、王妃や王子たちを殺したじゃないの」
大公妃は、面倒そうに言うと、ソファから立ち上がった。
「そろそろ時間だったわ」
エリザベスは、いそいそと髪を直すと、暗闇の部屋の出口へ向かった。
「いいこと? 早いとこ、お兄様を殺すのよ。それが済んだら、報告してちょうだい。聖杯の入った箱を持ってくれば、私が開けてあげるわ。その後で、私がベアトリクス新女王として名乗りを上げ、それで、私とあなたの付き合いも終わり。わかったわね? 」
一方的に、大公妃は魔道士に告げると、弾むような足取りで、部屋を出て行った。
夫である大公の身体の具合が悪くなった頃から、大公妃に若い恋人が出来たことは、ギールも知っていた。
暗闇に、しばらく取り残された魔道士は、そのうち、沈黙の闇の中に、溶け込んでいった。
サリナエ領ーーベアトリクスでは、かなり奥まった田舎に当たる、王家の療養場所としているところである。
数人の使用人と、国王の側付き魔道士バルカスだけが、簡素な建物の中で、ひっそりと暮らしていた。
「お加減は、いかがですか、陛下」
バルカスの声に、記憶をなくした王が、振り返る。
肩まで下りた金髪に、王冠、厳格な顔に、水色の瞳の、がっしりとした中年の男が微笑んだ。
「バルカス、私は病気ではないのだから、そのように病人扱いしないでおくれ」
「失礼いたしました」
バルカスが頭を下げる。
王は、大きな肘掛け椅子に腰かけると、溜め息をついた。
「皆が、私を王だと言うが、私には、実感がない。お前も、私が成人した時から仕えていると聞くが、やはり、思い出せない。だが、お前が、私のことを、非常に大切に思ってくれているのはわかる。私が今、信じられるのは、お前だけだ、バルカス」
「陛下……」
バルカスは、なんとも言えない表情のまま、頭を下げた。
王は、おもむろに、壁にかけてある一枚の肖像画を見た。
明るい茶色の髪に、紫色の瞳の、愛らしい若い女性が描かれている。
「彼女が、ジャンヌだということはわかるのだが、それが何者であったのかも思い出せぬ。だが、よほど、私に縁のある人物なのだろう。お前の言うように、私の愛する女だったのだとは思う。この絵を見ていると、どこかときめくような、初々(ういうい)しい感覚が、甦ってくるのだ」
王の哀愁を帯びた瞳に、バルカスの中にも、行き場のない感情が浮かんで来る。
(ジャンヌ殿、いったい、今どこに……)
王は、ジャンヌの肖像画を見つめたまま、問いかけた。
「この肖像画にそっくりであった、あの若い娘も、この国を出て、半年ほどになるそうだな。私の娘というのなら、なぜ彼女は出て行ってしまったのだ? 彼女と暮らせば、私の記憶が戻るのも、早いかも知れぬのだが……」
実の妹の陰謀だとは、あまりにショックが大きかろうと、バルカスは、王には詳しいことは何も伝えずにいたのだった。
「殿下。マリス姫は、必ず戻られます。今は、少々事情があって、国を出てはいらっしゃいますが、必ず、陛下に、元気なお姿をお見せしてくださることでしょう」
バルカスは、それだけを言った。
それから、間もなくであった。
突然、召使いの悲鳴が聞こえ、バルカスも王も、ハッと、身を強張らせた。
騒然とした中で、バルカスが王を庇うように前に出ると同時に、扉がバタン! と開いた。
「陛下……どうか、お逃げくださ……い……! 」
血まみれになった召使いの男が、息も絶え絶えにそう告げると、床に倒れ込んだ。
「何事だと言うのだ!? 」
王が叫ぶが、バルカスは動こうともせず、王を制したまま、炎の向こうを、じっと見据えた。
炎の奥からは、黒い人影が現れた。
「ご機嫌麗しゅう、ベアトリクス国王陛下」
静かな声が、炎の中から聞こえる。どこか東洋訛りのある声だ。
バルカスは、ぶるっと鳥肌が立つような感覚にみまわれた。
黒い背の高い影は、まぎれもなく、大公妃と密約を交わした魔道士ギールであった。
浅黒い肌の東方の魔道士は、無表情な冷たい視線で、王とバルカスを見つめる。
「突然で申し訳ないが、あなたのお命を、頂戴しに上がりました」
そう言ったギールを、バルカスが鋭く見返す。
「そう簡単にさせるものか、大公妃のイヌめ! 」
「私の存在を、ご存知でしたか。そうそう、あなたとは、一度、お会いしていたのでしたね、陛下が記憶を無くされた時に」
バルカスの瞳が、カッと見開いた。
「貴様、よくも、しゃあしゃあと……! 」
バルカスの脳裏に、その時の光景が、浮かんだ。
狩りの最中、国王の乗っていたウマが、足元にいたヘビに驚き、落馬した王を救おうと、バルカスが空間を移動したその時、彼は、何者かに腕を掴まれ、身動きが出来なかった。
そして、王は落馬し、記憶を失った。
その時、腕を掴んで引き留めたのが、このギールであったと、一目で、バルカスは感じ取った。
「陛下は、私がお守りする。お前たちの思い通りになど、させてたまるか! 」
バルカスは、後ろに庇った王を、結界で包み込む。王は薄い膜の中で驚き、困惑している。
ギールの放った炎の球を、バルカスが瞬時に消えて、回避する。
バルカスのてのひらから放たれた放電が、ギールに襲いかかるが、今度はギールが空間に逃げ込んで回避した。
二人の魔道士は、そのまま、王の視界から消えた。