消えた記憶
やっと、主人公ご一行の話、再開です!
巨大なふたつ山を背にした町タイスランでは、長閑な景色が、広がり、夜が明けると、澄んだ空気が、町全体を包み込んだ。
元傭兵であるハッカイの居酒屋では、昼から始まる商売に向けて、準備を始めていた。
厨房には、大柄な中年男のハッカイと、まだ二〇歳前の若い青年がいた。
栗色の髪に、青い瞳。
一見細身だが、しなやかな筋肉がほどよくついていることから、鍛えられている現役の傭兵であるとわかる。
昔のよしみで、旅の仲間と共に、ハッカイの店の二階に、しばらく泊まっていた。その礼に、厨房の水回りや床の掃除をしていたのだった。
「いつも悪いな、ケイン。粗野な男ばっかで、女手がフィエラしかいないもんだから、細かいところはなかなか追っ付かなくてな。お前が手伝ってくれて、助かるよ! 」
調理道具の手入れをしながら、人の好い笑顔で、ケインに話しかけた。
ケインも、笑った。
「こっちこそ、ハッカイには世話になってるから。ただで泊めてもらってる分、せめて、このくらいはしないと」
ハッカイが、窓の外に目をやる。彼の妻である、やはり大柄なフィエラが、洗濯した衣類を干しているところであった。
その隣には、長い黒髪をひとつに束ねた美しい少女が、手伝い、衣類を物干にかけている。
ハッカイは、ケインに視線を戻した。
「クレアちゃんも、よく働くよなぁ。フィエラも、いつも助かるって言ってるぜ」
「彼女は義理堅いからな」
ケインも微笑ましい瞳で、窓の外を眺める。
「お前たち二人はよく働くけど、あとの二人は、あんまり見かけねえなぁ」
「ごめんな。あの二人も、感謝はしてるんだけど、こういうことで現すのは、苦手みたいでさ」
「いやいや、客人を窮屈に感じさせたくはないからな、構わないんだ」
肩をすくめるケインに、ハッカイが笑った。
店の裏庭では、洗濯物を干しているフィエラが、クレアと話していた。
「ほんに、いつも助かるよぉ」
「いいえ、お世話になっているんですもの、このくらいは当然です」
フィエラの人好きのする丸い顔に、クレアも微笑んで返した。
「ここに来たばかりのあんたは、な~んか暗い顔しててさ、部屋にも閉じこもりっきりだったし、大丈夫かねぇって思ったんだけど、ドラゴンの谷から戻ってきた時には、まったく別人のように元気になってさ、あたしゃ、安心したよぉ! いやあ、うちの人から、あの谷が『癒しの谷』だなんて別名があるらしいって、聞かされた時は、あたしも半信半疑だったんだけどね、こうして、あんたを見ていると、本当だったんだなぁって、思えてきたよ」
そう言うフィエラに、クレアは恥ずかしそうに、笑った。
「私、すっかり自信をなくしてしまってたんです。魔法の修行中で、もともと思うように魔法が使えてなかったのが、まったく出来なくなってしまって、いったい何の為に旅をしてきたのかって、気持ちばかりが焦ってしまって……。皆が、私のことを心配してくれているのに、素直に受け入れられずに、勝手にひとりで落ち込んでいたんです。あのドラゴンの谷では、魔法が復活しただけではなく、少しだけ自信がつきました。私だって、やれば出来るんだっていう自信が」
クレアは、洗濯物を手に取ったまま、谷の方向を見つめた。
(……ヴァルドリューズさん、私、上級魔族を相手に、なんとか頑張りました)
魔族の総攻撃が始まろうと言う時、真っ暗な魔空間に、クレアの張った巨大なクリスタルの盾の結界が現れた。
そして、強力な白魔法で、マリスと共に、次々と敵を倒して行った。
その時の感動を思い出す度に、胸がじんとした。
彼女は、師である東洋の魔道士の顔を思い浮かべた。
(ヴァルドリューズさんにも、見ていただきたかった。あなたは、何て言ってくれたかしら? いいえ、ヴァルドリューズさんがいれば、私は、きっと頼ってしまう。魔法は、今でも使えないままだったかも知れないわ。お戻りになられたら、また一緒に旅を続けられる。私の上達をご覧になったら、なんて声をかけてくれるのかしら? )
『よく頑張ったな、クレア』
そう言って、彼女の肩に手をかけ、微かに微笑む彼を想像すると、鼓動は高鳴っていき、頬が染まっていくのを、クレアは感じていた。
「お前さん、誰か、好きな人でもいるのかい? 」
腰を屈めて、濡れた衣類を桶から取り出したフィエラが、笑顔で、クレアを見ている。
「えっ!! い、いやだわ、フィエラさんたら、そんな……! 」
クレアは、余計に頬を染め、照れ隠しのように笑いながら、手にしていた洗濯物を、無意識のうちに、ぎゅーっと絞っていた。
居酒屋からは離れた森では、カイルがひとり目を閉じ、座っていた。
すらっと、剣を鞘から抜く。
木々の隙間から差し込む光に照らされた刃は、美しく七色の輝きを放つ。
カイルは立ち上がり、素振りを始めた。
誰もいない森の中で、ひとり黙々と。
普段は、お喋りで、軽薄そうな印象の彼からは、想像もつかない。
素振りが一通り終わると、敵がいると想定した剣の稽古に変わった。
軽やかな身のこなしと、我流の剣術が、彼の持ち味である。
どのくらいの時間か、休むことなく続く。
切れ長のクールな青い瞳も、隙がない。
すらりとした、ケインよりもさらに細くしなやかな筋肉にも、しっとりと、汗がにじみ出て来た。
ドラゴンの谷でのことは、彼の中でも、それなりの影響を及ぼしていたと見えた。
町の図書館に、マリスはひとりで来ていた。
魔道書から世界地図、土地に伝わる民話、神話などを見ていた。
ドラゴンの谷から、このタイスランの町に戻ってきてからというもの、彼女は、毎日のように、図書館に通い詰めていた。
それは、以前、野盗にケンカをしかけて楽しんでいた彼女を、知っている者からすれば、人が変わったように見えたであろうが、もとより、ヴァルドリューズと二人で旅を続けていた彼女にとっては、情報収集のための、特別不思議ではない行動であった。
(……ふ~ん、こんな町もあったのね)
ヴァルドリューズと旅をしていくうちに作り上げた、簡単な独自の世界地図に、マリスは、新たな国や、町の名前を書き込んでいった。
魔道書は、魔法の使えない彼女にとっては、一見、無意味であるかのように思われるが、魔道士の敵もいる彼女には、魔法を知っておく必要があった。
民話や神話の本では、これから目指す妖精の国への手掛かりを調べるためもあったのだが、どれも物語めいたもので、実際には参考になりそうもない。
マリスは本を閉じると、溜め息をついた。
あまりにも、熱中していたことに、自分でも気が付く。
「ここにいたのか」
後ろから肩をたたかれ、マリスが振り向くと、そこにいたのは、ケインであった。
「ケッ、ケイン!? なんで、ここに? 」
驚くマリスに、ケインは、一瞬、不可解な顔をしてから、言った。
「ハッカイんとこのリーシャの子守りでさ。図書館に行きたいって言うから、連れてきたんだ」
マリスが視線を落とすと、ケインの足にしがみついている、ぽっちゃりした女の子が、じーっとマリスを見上げていた。
「それにしても、どうしたんだよ、そんなに驚いて。よっぽど集中してたんだなぁ」
「べ、別に……」
ケインがマリスの肩越しから、テーブルに並んだ本や地図に目を留める。
「そっか、地図も作ってたのか。いつもいないのは、カイルとでも遊んでるのかと思ってた。悪かったな」
ケインがマリスに、申し訳なさそうに言った。
「最近、カイルは、ひとりでよく森に行ってるみたい。何をしてるのかは知らないけど。女の子と遊んでいるわけではないみたいよ」
マリスが言い終わると、ケインは、窓の外を見た。町の噴水広場が見下ろせるが、カイルの姿などは見つからない。
「なんか、マリスと話すの、久しぶりだな」
「そうかしら? 」
マリスは、何気ない調子で、テーブルの上の本をペラペラとめくるが、読んでいる様子はない。
「そうだよ。ドラゴンの谷から帰ってきてから、俺とクレアは、ハッカイのとこで手伝いして、メシもご馳走になってるけど、お前とカイルは、ほとんどいないじゃないか」
マリスは、あえてそうしていた。
なんとなく、ケインをさけていたのだ。
ケインは、マリスの顔を覗き込んだ。
不意をつかれた気がして、マリスは、どぎまぎしたように、彼から目を反らしてしまった。
「なあ、後で、俺と、カイルとも一緒に、ハッカイたちを手伝うんだぞ。一回でもいいから。それから……」
ケインは、マリスの肩をつかんで、正面を向かせた。
「今日は、皆と一緒に、晩飯も食べるんだぞ。わかったか? 」
マリスの頬が、うっすらと赤くなるが、ケインはそれには気が付いていなかった。
「本、片付けるの手伝うから、今日はもう帰ろう」
と言いながら、ケインが、テーブルの上の本に、手を伸ばした時だった。
ベリベリベリ!
ハッとして、二人が足元を見ると、いつの間にか、テーブルの魔道書を手に入れたリーシャが、本を破いて、遊んでいた。
「ひゃーっ! リーシャ、な、なんてことを……! 」
ケインが血相を抱えて、リーシャを抱き上げたが、運悪く通りかかった図書館員に見つかってしまった。
「すいません、すいません! ちょっと目を離した隙に……! 」
リーシャを後ろに隠して、ケインが、ペコペコと頭を下げた。
係員は、ぶすっとした顔で言った。
「困るんですよねぇ、魔道書は特に、魔道士協会から取り寄せなければならないから、高いんですよ」
「ええっ!? そうでしたかっ! すっ、すみません! 弁償しますから! 」
ケインは、しばらくネチネチと小言を言われ、ひたすら謝っていたが、結局、弁償はせずに済むと、リーシャを小脇に抱えて、他の本を、マリスと急いで片付けた。
「早く帰ろう」
リーシャを抱えていない方の手で、マリスの手を掴むと、ケインは足早に、図書館を出て行った。
マリスは、急に、おかしな気分になり、くすくす笑っていた。
「ドラゴンを先導したドラゴン・マスターも、子供にはかなわない、か……」
「ああ? 何か言ったか? 」
「いいえ、別に」
図書館から帰ると、ちょうど戻ってきたカイルも捕まえて、ケインが、ハッカイの店の掃除をしようと提案した。
カイルは渋々、外で、ケインと一緒に薪割りをすることになり、マリスは店の方へ行った。
「やあ、珍しいな。今日は、マリスちゃんが手伝ってくれるのかい? 」
ハッカイが厨房の掃除をしながら、顔をほころばせた。
「ええ。あたし、掃除やります」
「ありがとう。そうだねえ、ここは、ほとんどやってしまったから、客席の方をやってくれると助かるよ」
柄の長いホウキとモップを持たされると、マリスは客が集まる店内へと向かった。
カウンターや丸い大きなテーブルの上に、椅子が逆さにして積み上げられている。
マリスは、さっそく、慣れない手付きで、床を掃き始めた。
しばらくしてから、薪割りが終わったケインとカイルが、店に入るなり、唖然とした。
床中が、びしょびしょの水浸しだったのだ。
マリスが、モップで水拭きをしている最中であったが、モップの先が、床を打ち付けてある釘に引っかかってしまい、それを取ろうとして、無理矢理いろいろな方向から引っ張っている。
引っかかりは取れた。
が、その反動で、モップの柄が手から離れ、そのまま窓ガラスを突き破った。
「目を離すと、何やらかしてるか、わかんないな……」
思わず呟かずにはいられなかったケインは、頭がクラクラしてきた。
「お前なぁ、掃除してるんだろ? 破壊してどうするんだよ」
カイルが、呆れて言った。
「わっ、わかってるわよっ」
マリスが慌てて、飛び散ったガラスを片付けようとすると、音に気付いたハッカイが、厨房から飛び出して来た。
マリスは、ひらすら謝った。
「まあ、いいって、いいって。今日は、たまたまガラス屋が来ることになってるから」
と言ったハッカイの顔は、いくらか引きつっていた。
「マリスは、やっぱり王子様と結婚した方がいいんじゃないの? そうしたら、掃除とかは召使いがやってくれるんだから、出来なくても問題ないし」
と苦笑いしたケインを睨んでいるうちに、マリスの瞳には、じわじわと涙が溜まっていき、こともあろうか、しくしくと泣き出してしまった。
「えっ、何泣いてんだよ。なにも泣くことないだろ? 」
わけがわからず、動揺したケインは、マリスをまじまじと見た。
「ケインのバカッ! 」
マリスは泣きながら、宿泊している二階の部屋へ、駆け上がっていった。
「なっ、なんだよ、なんで、俺が八つ当たりされなきゃならないんだよ」
腑に落ちない様子のケインを見たカイルが、探るような目になって、言った。
「おい、本気で言ってんのか? 王子と結婚した方がいいなんて。お前、マリスのこと、好きなんじゃなかったのかよ? 」
「えっ、俺が? 」
ケインは不可解な表情で、カイルを見た。
「そりゃあ、かわいいし、きれいでカッコいいとは思うけど、マリスは仲間だろ? 王女の称号は放棄しても、いずれベアトリクスには戻らないとならない人間だって、ヴァルからも聞いてるし」
カイルは、眉間にシワを寄せた。
「今さら、俺に隠すことないんだぜ。ドラゴンの谷で、瀕死のスグリさんに、マリスがチューして生命力をそそいだって知ったら、お前、すっごく動揺してたじゃねえか。『俺にはしてくれなかったのに、人間よりドラゴンが好きなのか? 』って。恋愛の達人である俺から見れば、お前、ヤキモチ妬いてたぜ、絶対! 」
ケインは、しばらく考え込んでから、顔を上げた。
「……そんなこと、言ったっけ? 」
「はあ? 忘れてんのかよ。これまでだって、散々マリスを助けてただろ? いつも彼女の側にいるうちに、愛が芽生えたんじゃないのか? いや、今思うと、結構、初めの頃から、マリスにホレてたんじゃねぇの? 」
「そんな覚えはないよ。俺は、ただ彼女に協力しているだけで、友達で、仲間だ。それに、マリスは、王子にまだ未練があるんだぜ。普通に考えたら、横恋慕なんか出来ないだろ」
カイルは、じっくり観察するようにケインを見るが、ケインが嘘をついたり、照れ隠しでそう言っているようには、見えなかった。
「とにかく、ケインが泣かせたんだから、なぐさめるとか、謝るとかしてこいよ」
「は? お前がクレア泣かせた時は、俺が代わりになぐさめに行ったんだぜ」
「……そういうことは、ハッキリ覚えてるんだな? ってことは、これまでの記憶がないわけじゃないんだな? 」
「ちゃんと覚えてるって」
「と・に・か・く、お前が行け! 」
カイルに強く言われたケインは、なんだかよくわからないまま、階段を上っていった。
「マリス」
コンコンと、マリスとクレアの泊まっている部屋の扉を叩く。
マリスが、そうっと、ドア開けると、ケインは、マリスの目が赤いことに気付いた。
ケインは、真面目な顔になって、言った。
「さっきはごめん。悪気はなかったんだけど、傷付けたんなら、謝るから」
マリスは、うつむき加減で、ケインと視線を合わせない。
「さっきカイルと喋って、考えたんだけど、なんか俺、ところどころ記憶があいまいみたいで。っていうのも、事実は覚えてるのに、一部……特に、俺がどう思っていたか、感情的なところが抜け落ちてるような……? もしかしたら、大事なことも忘れてるのかも知れない。そもそも、俺、きみを、どう守ってきたかも、よく覚えてないんだ。皆と戦って来たことは覚えてるのに」
マリスが顔を上げる。
「じゃあ、デモン・ソルジャーの毒で、あたしが倒れた時に、洞窟で応急処置してくれたことも? エルマの洞窟で、ヴァルの宿敵ダグトの結界から突き落とされた時に、ドラゴン・マスターの力で助けてくれた時も? もっと前に、ベアトリクス魔道士団のザビアンたちと対面した後、結界の中で、いろいろ過去の話をしたことも、覚えてないの? 」
「そんなことがあったのは覚えてる。だけど、きみとの話の内容や、きみを助けるために応急処置をしただとか、やり取りしたことは、……あんまり覚えてないんだ」
「あたしとのことだけ、忘れちゃったの? 」
「う~ん、なんでだろうな……。宮廷魔道士のザビアンに、マリスが王女の称号を捨てる署名をしたとか、そういうことは、はっきり覚えてるんだけど。その後、小さいヤミ魔道士と戦ったのも覚えてるし、それなのに、なんで、こんなに断片的に忘れてるんだ? そのうち、思い出せればいいんだけど」
「ドラゴンの谷から、魔族リリドを追っていったあの異世界で、落ちて来た石の威力なのかしら? この世界の普通の石と違うから……? 」
「そうなのかな? 」
それから、たあいもない話を二、三やり取りして、ケインは去って行った。
マリスは、確認出来た。
彼の目には、彼女への愛情は、感じられなかった、と。
ドラゴンの谷から、魔族リリドを追って、異世界に行った。
そこで、石が当たる前に、ケインが、彼女への愛を打ち明けた時とは、まるで別人のように思えたのだった。