今日までは
「今日で最後だね」
そう言って先生が教室の扉を押し開けて、私を中に促す。
小学校に上がってすぐに通い始めたこのピアノ教室を、今日で辞める。
週に2回のレッスンに毎日の自宅練習。
放課後に友達と遊ぶ時間もほとんどなかったし、今も中学のときも部活には入らなかった。
上手く弾けるようになりたいという思いももちろんあったが、なにより先生に褒めてほしくて頑張ってきた。
関節の目立たないすらっとした手で頭を撫でられると、自分が世界で1番幸せな気がしたが、中学に上がるころにはそうされることもなくなった。
口ではたくさん褒めてくれるけれど、私はそんなものよりただ先生の温もりを感じるほうがいい。
注意箇所が楽譜に書き加えられ、それを意識して弾き直す。
上手く修正出来ると、隣に座る先生が頷きながら褒めてくれる。
いつもと何ら変わりなくレッスンが進んだ。
時計があと20分の位置を指したときに
「先生」
と声を掛けた。
先生はネクタイの歪みを直すように手を掛けながら、私に目で聞き返してきた。
男の人にしては長めの黒い髪が揺れて、普段は隠れている耳がちらっと見えた。
鞄から、クタクタになった楽譜本を取り出す。
ウサギやクマが仲良く歌っている表紙で、背表紙にはセロテープが何度も重ねて貼られている。
先生にそれを手渡すと、中身をパラパラと捲った。
「うわー懐かしいな。これ瑠衣が入って1番最初に使ったやつだね。まだ持ってたんだ?」
「うん、全部とってある」
未だ懐かしそうに楽譜に見入る先生の旋毛を見詰める。
先生を見下ろすのなんてこんな時だけだ。
「先生、それの1番最後のページに連弾があったでしょ?」
楽譜が勢い良く右から左に流れて行き、目的地にたどり着くと
「これだね」
と先生が顔をあげた。
「それ、一緒に弾こう」
「いいけど、瑠衣のパート右手しかないし、今なら1人で全部のパート弾けるんじゃない?」
私の気持ちをよそに、出来るよなんて励ますように言うから、
「一緒に弾こう」
ともう1度、今度はもっと強く声にした。
先生はもう何も言わず、黙って頷くと立ち上がった。
椅子の右側に詰めると、先生が左側に腰を下ろした。
脚が余ってしまうのか、少し身体が斜めを向いている。
真近で視線を感じ、それに気付かない振りをして楽譜を一心に見詰める。
私が1小節目を弾くと、2小節目から伴奏が入ってきた。
この曲を練習していた当時の私は、先生と一緒に弾けるのがただただ嬉しかった。
今は嬉しさよりも苦しさが勝っていて、気を緩めると泣きそうにさえなる。
あの頃の私は、ずっと先生のレッスンを受けてずっと先生に頭を撫でてもらって、ずっと幸せが続くと思っていた。
今はずっと続くかもしれない苦しみに押しつぶされそうだ。
たった2ページの短な曲はすぐに終わり、私は先生が立ち上がる前にさっと腰を上げた。
先生の後ろに回り込み、こちらを振り返ろうとする頭を自分の胸に抱く。
振り向くのをやめた先生が、伺うように私の名前を呼んだ。
「好きです」
声は掠れ涙混じりで、それでもしっかりと届いたらしく、私の束縛をゆっくりとほどいた先生は、向きを変えて座り直した。
眉を下げて瞬きを2度、3度とする様子で、嫌でも先生の戸惑いが伝わってくる。
「好きだよ、先生。私はずっとあなたのこと、先生って呼んでいたかった」
先生は目を大きくして私を見詰め、私も負けじと見返す。
勝手に頬に飛び出ていく涙が恨めしくて、その悔しさがまた涙をよんでしまう。
先生の右手がスーツのポケットに入り、出てきたときには黒とグレーのチェック柄をしたハンカチが握られていた。
手渡されると同時に、
「ごめん」
と言われた。
「今日までは」
言いかけて声が詰まった。
ハンカチを当てギュッと目を瞑る。
その間先生は何も言わなかった。
ただ見守るように座っていた。
落ち着きを取り戻し、改めて口にする。
「今日までは私の先生でいてよ」
先生は吊り気味の目尻をちょっとだけ下げて、
「そうだね」
と微笑んだ。
10年間何度も何度も見てきたその笑顔に、無邪気に喜んで連弾をしていたあの頃を思い出しながら、必死で口角をあげる。
先生が、よく出来たねというように頭を撫でてくれた。
あの頃と同じ温もりが身体中を駆け抜けて、私は立っているのがやっとだった。
10年間“先生”と呼び続けてきた人が、明日、“お父さん”になる。