表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

今日までは

作者: ハル

「今日で最後だね」

 そう言って先生が教室の扉を押し開けて、私を中に促す。

 小学校に上がってすぐに通い始めたこのピアノ教室を、今日で辞める。

 週に2回のレッスンに毎日の自宅練習。

 放課後に友達と遊ぶ時間もほとんどなかったし、今も中学のときも部活には入らなかった。

 上手く弾けるようになりたいという思いももちろんあったが、なにより先生に褒めてほしくて頑張ってきた。

 関節の目立たないすらっとした手で頭を撫でられると、自分が世界で1番幸せな気がしたが、中学に上がるころにはそうされることもなくなった。

 口ではたくさん褒めてくれるけれど、私はそんなものよりただ先生の温もりを感じるほうがいい。


 注意箇所が楽譜に書き加えられ、それを意識して弾き直す。

 上手く修正出来ると、隣に座る先生が頷きながら褒めてくれる。

 いつもと何ら変わりなくレッスンが進んだ。

 時計があと20分の位置を指したときに

「先生」

と声を掛けた。

 先生はネクタイの歪みを直すように手を掛けながら、私に目で聞き返してきた。

 男の人にしては長めの黒い髪が揺れて、普段は隠れている耳がちらっと見えた。

 鞄から、クタクタになった楽譜本を取り出す。

 ウサギやクマが仲良く歌っている表紙で、背表紙にはセロテープが何度も重ねて貼られている。

 先生にそれを手渡すと、中身をパラパラと捲った。

「うわー懐かしいな。これ瑠衣が入って1番最初に使ったやつだね。まだ持ってたんだ?」

「うん、全部とってある」

 未だ懐かしそうに楽譜に見入る先生の旋毛を見詰める。

 先生を見下ろすのなんてこんな時だけだ。

「先生、それの1番最後のページに連弾があったでしょ?」

 楽譜が勢い良く右から左に流れて行き、目的地にたどり着くと

「これだね」

と先生が顔をあげた。

「それ、一緒に弾こう」

「いいけど、瑠衣のパート右手しかないし、今なら1人で全部のパート弾けるんじゃない?」

 私の気持ちをよそに、出来るよなんて励ますように言うから、

「一緒に弾こう」

ともう1度、今度はもっと強く声にした。

 先生はもう何も言わず、黙って頷くと立ち上がった。


 椅子の右側に詰めると、先生が左側に腰を下ろした。

 脚が余ってしまうのか、少し身体が斜めを向いている。

 真近で視線を感じ、それに気付かない振りをして楽譜を一心に見詰める。

 私が1小節目を弾くと、2小節目から伴奏が入ってきた。

 この曲を練習していた当時の私は、先生と一緒に弾けるのがただただ嬉しかった。

 今は嬉しさよりも苦しさが勝っていて、気を緩めると泣きそうにさえなる。

 あの頃の私は、ずっと先生のレッスンを受けてずっと先生に頭を撫でてもらって、ずっと幸せが続くと思っていた。

 今はずっと続くかもしれない苦しみに押しつぶされそうだ。


 たった2ページの短な曲はすぐに終わり、私は先生が立ち上がる前にさっと腰を上げた。

 先生の後ろに回り込み、こちらを振り返ろうとする頭を自分の胸に抱く。

 振り向くのをやめた先生が、伺うように私の名前を呼んだ。

「好きです」

 声は掠れ涙混じりで、それでもしっかりと届いたらしく、私の束縛をゆっくりとほどいた先生は、向きを変えて座り直した。

 眉を下げて瞬きを2度、3度とする様子で、嫌でも先生の戸惑いが伝わってくる。

「好きだよ、先生。私はずっとあなたのこと、先生って呼んでいたかった」

 先生は目を大きくして私を見詰め、私も負けじと見返す。

 勝手に頬に飛び出ていく涙が恨めしくて、その悔しさがまた涙をよんでしまう。

 先生の右手がスーツのポケットに入り、出てきたときには黒とグレーのチェック柄をしたハンカチが握られていた。

 手渡されると同時に、

「ごめん」

と言われた。

「今日までは」

 言いかけて声が詰まった。

 ハンカチを当てギュッと目を瞑る。

 その間先生は何も言わなかった。

 ただ見守るように座っていた。

 

 落ち着きを取り戻し、改めて口にする。

「今日までは私の先生でいてよ」

 先生は吊り気味の目尻をちょっとだけ下げて、

「そうだね」

と微笑んだ。

 10年間何度も何度も見てきたその笑顔に、無邪気に喜んで連弾をしていたあの頃を思い出しながら、必死で口角をあげる。

 先生が、よく出来たねというように頭を撫でてくれた。

 あの頃と同じ温もりが身体中を駆け抜けて、私は立っているのがやっとだった。


 10年間“先生”と呼び続けてきた人が、明日、“お父さん”になる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ