九十四話 ラプス
けたけたと、それは笑う。
それは、鈴峰律樹の表情をして、黒い瞳を鈍く輝かせて、灰色の狂気をこちらへと向けた。
「――あ、あ、は、あぁはぁ――……あり、が、とう」
「気味の悪い」
その言葉に、レイジは舌打ちをする。
なり損ないであるラプスの底力。数年も鈴峰律樹の心を浸食していたそれの溜め込んでいた力は、どうやら相当なものであったらしい。
偶然現れた存在であったが故に、意志も歪で壊れてしまってはいるけれど。そいつは立派な禁忌としての威圧と存在感を放っている。
この世の全ての消滅を望むだけの禁忌。まるで好き勝手に動いていた当初の三姫のように、ラプスはその力を存分に披露する。
鈴峰律樹という器を使って、際限のない滅びを生み出していく。白銀だった世界の一部が、闇に浸食された。
どろどろと、黒い闇が大地を飲み込んで広がっていく。
「すみません、遅れました」
今にも突っ込もうとしたレイジとエクサルの背後から、エルリアがそんな一言を放った。
「遅い」
と。レイジとエクサルの両方が同時に喋って、エルリアは頭を下げる。
レイジ、エクサル、そこにエルリアが加わったメンバー。二体の龍を戦力に重ねても――ラプスには、届かない。
それぞれが限界まで力を使っていたのだ。
いくら禁忌とは言えども、同じ存在同士がそう連続でぶつかり合えば、いくらなんでも消耗する。
レイジもエクサルも全力を出し続け――エルリアについても、本来は後数年は必要だった準備がこの時点で完了しているわけがない。
対してラプスは、“鈴峰律樹”の際にもあれだけ無茶をしていたというのに――まるで何事もなかったかのように、力を放出している。
「気を付けろ。奴は律樹の魂を喰らい、完全に同化している。発揮出来る力は現在の妾の比ではない」
「でも、このまま放置してたらどんどん強くなるでしょ」
「そうじゃな……あれは先など求めていない。律樹と同じよ――ここで終わるつもりで、先など一切考えずに、持てる力の全てを解放しておる。後先考えない奴がこの世で最も恐ろしい、ってことじゃな」
吹き飛ばされた龍が唸り声を鳴らして戻ってくる。
さて、どうするか、と。渋面を作ったレイジが、そう言った。
「奴を殺すことなら出来なくもない。しかしエルリアよ、助けるのは殺すのとはわけが違うぞ」
「ええ。ですので、ここは私が抑えることにします」
「……ほう?」
レイジは口端を歪めた。一体一人でどう抑えるのかと言いたげな目で、相槌を打つ。
「幸い、ここは私の空間です。無尽蔵の災厄が溢れる此処での話なら、ラプスを止めておくには私が適任でしょう?」
「それで?」
「お二人には戦うよりも、まず先にやってもらいたいことがあります」
「……な、なんじゃと」
この状況下に、戦う以外のことで出来ることなど何があるというのか。エルリア単体でラプスとやり合う力は保有していないのは勿論、守りに徹したところでいつまで抑えていられるかも分からないのだ。
「レイジ、エクサル。二人はグリーフと憐華さんに会いに行って欲しいのです。あなた達は二人を突破してここまで来てしまったのでしょう? 上から言ってしまうようですみませんが……二人に事の詳細を伝え、和解した上で連れてきて下さい。グリーフはともかく、憐華さんはレイジとエクサルをどう思うかは分かりませんから」
「貴様、一人でやれるとのたまうのではないのだろうな?」
「いいえ、無理です。ですから、私は彼を抑ることだけを考えます。それで時間を稼いでおきますから、お願いできますか?」
二人よりも一歩前に出て、エルリアは何らかの術式を描く。半透明の式が空中を埋め尽くし、障壁が姿を現した。散発的に続いているラプスの攻撃の全てが障壁に吸い込まれて消えてゆく。
無尽蔵に膨らみ続ける災厄に、強固な障壁。ラプスを抑えるには十分です、とエルリアは言う。
「それと、町の方のグリーフに“リセル”という人が居るはずです。その人だけは、連れてくるようにお願いします。恐らく彼女の力があれば、律樹さんを解放することも出来るようになるでしょう」
「知ってるよ。分かった、そうする」
不老不死の禁忌を持っていた長い耳の女性。全く別種の禁忌ではあるものの、エルリア達の禁忌を察知し、干渉することができる者だ。
レイジはその人物を知らないが、エクサルは都市にてその人物と邂逅を果たしていた。
だからこその即答。
頷いたその場で身を翻し、エクサルはグリーフへの元へと飛んで行った。
「ったく……仕方ないのう」
レイジは懐から青色に光る玉を取り出し、右手で弄んだ。
「こいつを渡すついでに、仕方ないから妾も行ってやるとしよう。くれぐれも戻ってくる前にくたばるなよ? エルリア」
「はい」
その一言を最後にレイジも消え、ラプスとエルリアだけが残された。障壁を突破しようと暴れるラプスを注視しながら、エルリアは自身の両隣でずしりと構える龍達を見やる。
「……付いて行かなかったのですね」
果たしてレイジとエクサルが命令を下して留まっていたのか。それともかつて自分を召喚した主である、エルリアの意志に反応したのか。
二体の龍は、静かに頭を下げて頷く。
「――さっきはああ言いましたけどね」
二匹の龍に見守られる、そんな確かな安心感を胸に覚えながら、エルリアは愛おしそうに鈴峰律樹へと語り掛ける。
「正直言ったら、あまり持ちそうにはないのですけど……でも、ちょっとは私にも頑張らせて下さい、律樹さん。これは私の意地です、このくらい、一人で何とかしてみせますから」
両手の先の空間から半透明の術式を描き出し、エルリアは災厄を流し込んだ。
真っ暗闇の世界だった。
何度も来たことがあるようで、多分きっとその通りなのだと思う。
少し景色は違うけど、ここは僕の心の内部だとか、中身だとかってやつなんだろう。
見渡す限りが灰色に染め上げられたモノクロの空間。存在する色は灰色か黒か、白しかなくて。
僕の身体は、灰色だった。その身体は、どぷりと半分ほど液体に浸かっている。これも灰色で、僕と同色のせいでどこからどこまでが僕なのか、どこからどこまでが液体なのかの判別が付き難い。
うん。
一つ、喜ばしかったことがある。
それは、僕の身体が自由に動くというところだった。
だからなんだって話だけど、全身が拘束されて動けないんじゃ色々と不便だからさ、動けた方がいい。
ゆっくり、足を地面に付けて立ってみる。液体はそこまで深くはないみたいだった。
あれ、この液体はどこまでも続いているのか。そんなに深くはないけれど、膝下辺りまでは液体に浸かっている。
しばらくは、特に当てもなくこの世界を歩き回っていた。
時間の概念や肉体の概念からも解放された――少なくともそう感じてしまうほどに何もないこの世界では、やれることは多くない。
雷が生成できるかはとっくの昔に試した。無論、禁術が使えるかも試した。そのどちらも使えないってことは、お察しだろう。
さて、そろそろ出て来てくれないもんかな。
「ふ、ふ……やっと、会えた」
うん。
僕は君に会いたくはなかったけどね。
「なんで?」
そりゃあそうだろ。
だって君に身体を乗っ取られなきゃ、君には会えないんだから。
誰だって自分の身体を乗っ取られるのは嫌に決まってるさ。
それとも君は、乗っ取られるのは嫌じゃないのかい?
――ラプス。
「……? わからない」
ああ、そうだったね。
君、あんまり話とか通じなかったからね。本当に僕の言いたいことは何一つとして分かっていないのかもしれないね。
「言いたいこと、なに? こんにちは」
うん、こんにちは。
そうだった。とりあえず、挨拶からしないと始まらないからね。挨拶は大事だよ。
「こんにちは……こんにちは」
なぁ、僕って君に乗っ取られるよりも前にさ、似たようなことされて身体乗っ取られてるんだけど、一度乗っ取られた身体って、奪いやすい?
言っても分からないかもしれないけどね。
多分、奪いやすいのかもしれない。
僕は人差し指で頬を掻いて、ほとんどゼロ距離で現れた彼女を見る。
禁忌の残滓から生まれた、可哀想な奴。なんにも知らないまま生まれて、ただこの世を無かったことにするためだけに存在している、ラプス。
色々ねじ曲がって君がいるんだろうけど……。
ねぇ、何で消滅させたいの?
「なん、で? なんでって……? なんで?」
いやいや、消滅させたいからには理由があるんでしょう。例えば、僕だったら黒歴史の過去は消したい……てか、消滅させたいって思うよ。だって、忘れたいから。覚えていると恥ずかしいし、忘れたいって思うから。
で、君はこの世の全てを消滅させたいって思ってる。町だとか、世界とか、そういうちんけなもんじゃなくって、概念だとか、まるごと。全部だね。
消滅させなければいけないと思って、その目的に到達するために一心不乱に向かってる。
それは、なんで?
「ない」
ない? ないのか。それじゃあ君は、どうしてこの世を消滅させようと頑張っているんだろうね。理由なんて、ないんでしょ?
「……分からない」
まぁ、そうだろうね。
答えられないものについては分からないと返すしかないよね。
じゃあ、止めちゃいなよ。別に理由もないんだろう?
僕は灰色の腕で、彼女の肩を掴む。
「やめないよ」
どうしてさ。
正直、僕は迷惑しているんだよ。君が僕という器の中に力を溜めて、制御しやすくするために乗っ取ってるのは分かっているんだけど。
いや、確固たる目的があるんなら僕も考えなくもないんだよ。僕だったらホラ、さっきなんて大切な人を守るために君の力の一部を使わせてもらったじゃないか。
あれは“大切な人を守る”っていう理由があった。君が力を貸したのは“そうしなくては死んでしまうから”だったんだろうけどね。
別に強制はできないよ。今や僕の身体の支配権は君にあるわけだから、僕のできることといったら薄暗くて狭っ苦しい精神世界で君とお話をすることだけ。
何を言おうと、君が無視してしまえば済んじゃうような些細なことだ。
「うん」
それでも言うのは、やっぱり君に理由が何一つとしてないからだと思う。
僕はね、この世界に消滅して欲しくはないんだ。
さっきも言ったように大切な人だっているし、友達も居るし、やりたいことも色々あるしで。
だから、理由がないなら止めて欲しいんだ。ただできるからやるってのでやられても、困っちゃうんだよ。
「私は、消滅させるためだけの存在だよ」
あのさ、それって誰が決めたの? 君の名前はラプスって名前なのは分かるよ、つまりは消滅を司ってるんでしょ?
けど、それは誰が決めたもの? エルリアっていう存在の感情が分裂したことで生まれた憤怒、狂喜、悲哀ってのはまぁ分かるよ。
感情だからね。喜怒哀楽ってわけじゃないだろうけど、そういうのは誰にでもあるものだよ。
僕にだってあるさ。喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりってのはさ。別れたら別れたで、そりゃもう極端になるだろうね。
恐らくは怒った感情しかない僕が一番やばい奴に違いないよ、自分で言うのもなんだけど。
でも君のは何から来ているの?
少なくとも、僕には分からないな。
「私も」
……そうか、そうだね。
あぁ、一つ聞き忘れていたよ。
「?」
君さっき、なんて言ったっけ?
「……?」
ごめん、さっきだけじゃ流石にどこを指しているのかわからないよね。これは最初に言っておくべきだったのかもしれないね。
何せ、必死だったからさ。でもあんまり伝わらなさそうだし、いいや。多分僕じゃ君に物事を教えることはできない。
君が自分自身で何かを掴むまでは、きっと分からないかもしれない。
ま、それはいいんだけど。
さっき、僕に“やっと会えた”って言った?
「言った」
どうして僕に会いたかったの? 僕の身体を乗っ取る理由は分かるけど、それを邪魔している僕本体と会いたいってのは、何故なのかな。
「話したいから」
んー……と、なるほどね。あまりなんでなんで聞き過ぎても少しあれなんだけどさ。
「記憶、直ったんでしょ?」
ああ、そういえば。君と会った時は、確か……なかったね。
それがどうしたの?
「じゃ、私に協力してくれる?」
あ……うん?
そんな約束してたっけ?
ちょっと待って。
自分が覚えている限りで彼女との会話を思い出してみる。
……何かを話していたってのは、覚えているんだけど。
なんだっけ。
だけどそんな約束、してないでしょ。いくら僕でも、軽はずみでそこまで無責任なことは言わないから。
「してないけど」
……でしょうね。
「けど、記憶はあるんでしょ? だったら、協力して」
……記憶、ねぇ。
――記憶?
頭に何かが駆け巡った。
ちょっと、待てよ。
なぁ、ラプス。もしかして、僕に協力して欲しいのって――この世を消滅させる手伝いじゃ、ない?
「うん」
もしかして、それは……君の記憶のこと?
「うん」
……あぁ。
そうか、そうだったのか。
いやね、少しだけ勘違いをしていたよ。
ごめんごめん、僕もさっき思い出したところなんだ。そういえば君は、自分の失われた記憶を探し求めていたんだってさ。
まだ、何も思い出せないのかい?
「うん」
そっか。それで記憶を思い出した僕にそれを教えて貰いたくて、会いたかったってことなのか。
……へぇ、それなら教えてあげなくもないよ。つっても僕が知っているところまでしか教えることはできないけど、それでもいいならね。
ただし、条件が一つある。
「なに?」
身体は返せとは言わない。今は君の身体で、君の物だ。
僕は君のことを教えてあげる代わり、その漠然とした“消滅”っての、止めてくれ。これが条件だ。
「……」
今、君は自分で何かを捜し求め始めている。君の根底にあるものが消滅だったとしても、同時に君はそうでないものも欲しがっている。
それが自分の記憶なら、それでいいじゃないか。そんなものまで消滅させてしまうって、そう言うのかい?
それにね。
この世に生まれる者達に、生まれてくる意味なんてないんだよ。君にはまだ分からないかもしれないけど、生まれた瞬間からこうしなくちゃいけないような者なんてのはこの世のどこにも存在していない。
僕だってそうだし、誰だってそう。人は生まれてきても、ゲームのように定められた目標はないんだ。
最初は誰だって何か意味があって生まれてきて、何か果たさんとする目的があるんだって思ってる。でもある時そうじゃないことに気が付いて、どこか空虚になってしまう。
そう、僕たちが生まれたのはただの偶然で、ただの奇跡だったんだよ。
そこに意味はないし、目的もない。
それに気付いた時、人は自分で自分の生きる目的を決めるんだよ。だって、そうじゃないと空虚のままだからね。
君にしたってそうだ。
そんなやってもやらなくても変わらないようなことに時間を注ぐよりも、記憶を探す方がよっぽど有意義じゃないか。
「でも、それは、教えて貰うから」
知ったら終わり? じゃあなんで、知りたいの?
「分からないから」
分からない、か。……そうだね。
そうだ。
じゃあ、こうしよう。
君について教えたら、今度は僕も君の目的を一緒に探してみることにするよ。ほら、どうせここは何もない空間だし、考えるだけの時間はいっぱいある。
「……」
それでもし決まらなかったら、全部消滅させてしまえばいい。
その時は君の記憶もまた消滅してしまうと思うけどね。
でも大丈夫。見つからないわけがないさ。
「本当に?」
本当だよ。
僕も生まれてからそこまで経っていないガキだけどさ。これでも十数年生きてきたんだ。
君はまだ、生まれて数年しか経っていないだろう?
それじゃあ、僕の方がいっぱい知ってるのは確かだからさ。
ま、先人の知恵ってのを当てにしなよ。大船に乗ったつもりでいるといい、きっとこの時間は無駄にはならないよ。
どうだい。
たった一つの条件を呑むだけで、色んなものが手に入る。諸手を上げて喜ぶべき破格の条件だよ。
どうする?
「う……うう……うう……――でも」
やっぱり最後は僕に決める権利はない。
どこまで説得とかしたところで、最後に決めるのは君自身だから。
僕は君を信じるよ。
曲がりなりにも、君は僕と一緒に旅をしてきた。今の今まで関わりはなかったけれど、君が悪い奴じゃないことは知っているよ。
ただ、この世を知らないだけなんだ。
――当時の三姫のように。
僕は、彼女の頬に手を差し伸べる。
そっと撫でてやると。
彼女の黒い瞳が、こちらを向いた。




