八話 僕が嫌いか
さて、話を一旦離脱させよう。少しばかり、浸りたい回想がある。
それは、僕がまだ自分の世界にいた頃の話だ。
――いつだったか、高校一年生の夏休みだったか、中学三年生の夏休みだったか、とにかくその頃に起きた出来事である。
当時。僕は、純粋に一人の女の人に恋をしていた。名は憐れむに華で憐華と言って、その名の通りに美しい人だった。
彼女は僕より一つ歳上で、ちょっと大人びていた。笑顔の横で真っ黒のロングストレートが風でなびき、クリーム色のワンピースがぱたぱたと風に煽られていた姿をよく覚えている。
彼女とはその夏休みで知り合った。僕が友達と川で魚釣りを楽しんでいた時、他の川釣り客として来ていたのが、憐華だった。
「よく釣れますね」
と。あちらから話しかけて来たことだけは鮮明に覚えている。
「スゲェだろ」
と言っても、彼女は僕に話し掛けたわけじゃない。まだ僕は一匹も釣れちゃいないし、そもそもが友達の付き添いだったんだ。
「これは、なんていう魚なんですか?」
「あん? ヤマメだよ。魚釣りに来てんのに分からんのか? ったく、コイツと一緒だな」
僕は悪態を吐いている友達へ苦笑いだけして、ルアーをぶん投げた。
「当然だよ、別に魚釣りを目的に来たわけじゃないんだからさ」
「あら、じゃあ貴方は何をしにここへ?」
当然の質問である。川釣りに来て川釣りが目的じゃないなんて野郎はそうそう居ないんだろうし……。
だから言い訳を残すことにした。
「まあ、暇だったんで暇潰しがてら、コイツの付き添いにですね」
生憎、どうしようもない理由しかなかったが。
「奇遇ですね、私もお父さんが釣りに来ていて、それの付き添いなんですよ」
ところがどっこい、彼女も同じような理由でここに来ていたみたいだ。それなら魚に詳しくないのも分かる。
何となくバツの悪そうな顔をした友達が僕を一瞥した後、
「馬鹿言うんじゃねぇ、お前あれだけ釣りたがってたじゃねーかよ、一匹も釣れなくて恥ずかしくなったのか?」
そっぽを向いて、信じがたい言葉を吐き連ねた。なんという口から出任せだろうか。“口が悪い”のは置いておくにしても、この野郎話題作りのために僕を売りやがったな。
女に目がないとかいう騒ぎではない、動物相手に交尾でも始めそうな勢いだ。いや流石に冗談だけど。
フフ、と面白そうに笑った彼女は僕の隣に座り込む。今のは僕に対する哀れみの笑みなのか、それとも僕達の会話がアホらしくて笑ったのかは分からない。
「でしたら……よかったらご一緒しても宜しいでしょうか? 私は釣具も持っていなくて、退屈でしたので」
正直驚いた。
それと同時に、僕は女たらしではないけど、この時ばかりは友達に「ざまあみろ」と心の中でガッツポーズをしていた気がする。日頃の行いが結果に繋がるってのは、正にこのことだ。
あの川釣りがきっかけで、僕達は三人でよく遊ぶようになっていった。どうやら彼女は夏休みにこっちへ帰省しているらしく、どうにも遊ぶ友達がいなかったみたいなのだ。
勿論、僕は断る気など毛頭ない。友達はと言えば、もっとなかっただろう。そうやって遊んでいる中で、僕は憐華の名を知った。僕は彼女を憐華さんと呼んで、逆に彼女からは律樹君と呼ばれている。
「暇ですねぇ」
遊びとは言え、毎日遊んでいれば飽きは必ず訪れる。ある日三人で芝生の上に寝っ転がってだらだら過ごしていた時、彼女の一言で、僕はうーんとうねった。
「ゲーセン行っただろ、ボール遊びもしただろ、ボードゲームも大体やったし果ては水遊びなんかだろ。川釣りはいい加減もう飽きたしよ……別に買い物行くぐれぇここは栄えてねーからなー……あー」
珍しく友達が遊び方なんてのを考えている。別にまたオセロとかすればいいじゃないか、彼女がいるからって、無理にバリエーションに富ませる必要はないとは思うけど。
「あのよ」
考えに考えた挙げ句、友達が何か言いたそうに切り出した。僕も憐華も彼に目線を向けて、次の言葉が吐き出されるのを待機している。
「……やっぱいいや」
意味不明なことに話を中断しやがった友達は、芝生に寝っ転がった。変な遊びでも思い付いて、やっぱ取り止めにでもしたのだろうか。少し気になるけど、別に聞き返すようなことじゃない。
彼女も「ふぅん」と残して、それ以上はしばらく誰も喋らなかった。
居心地は悪いわけじゃなく、むしろ良かった。このまま毎日が続けば最高に楽なんだろうけど、実際問題そうはいかない。
まあ、わざわざ僕が回想に耽る辺り――そんな毎日は、長くは続かなかった。続くわけがなかったのだ。
男と女が交われば必ず何かがある。というのを、嫌になるほど僕は知っていた。
幼馴染みでも、同級生でも、異性が揃えば必ず恋に関わるいざこざが起きてしまう。
何故分かるのかって? それはつまり、僕も例外ではないからだ。
もうこの時すでに、僕は憐華さんを好きだった。だからこその問題であり、日常の崩壊であり。
人が誰しも通る、試練みたいなものだ。
勿体振る必要もない。今回のケースは単に僕が憐華さんを好きで、同時に、友達も憐華さんを好きだったってことだ――。
◇
回想、終了。僕としては最後までしっかり物思いに耽りたかったところなのだが、あまりに長すぎたらしい。
「おい生ゴミ君、冗談はさておきお前何してんだ?」
ご覧の通り、この悪口君に邪魔されてせっかくの回想も泡のように散開してしまったわけである。
またの機会にしておこう、そもそも僕が回想を始めた原因は“悪口君”の姿にあるのだから。まぁ僕が今さっき“悪口君”と命名したお陰で思い出したのだけど、まさかあの“元友達”まで辿り着くとは思わなかった。
それはさておき、全然話を聞いてなかったぞ。どう話をすればいいのやら。
……ん? 冗談ってなんだ。まさか僕が何か冗談を飛ばしていたのだろうか……いやそれはない。何か言ったっけ。
二度目だけど全然話聞いてなかったから分からん。
「すみません、冗談ってなんですか?」
ここは聞き返してしまうのが無難だろう。下手に適当言って間違ってたとしても、困るのは僕なのだし。
「逢い引き云々のことだよ。他に俺が何か言ったのか、言ってねぇだろ」
あー……あれは冗談だったんだ。てっきり本気で言ってるのかと。
どうやら聞き流していただけのようだ。
「確かに言ってませんね」
「まさか本当じゃねぇだろうな。先に言っとくが、そいつの頭狂ってるぜ? 関わらん方がいいと思うが」
間違っても有り得ない。
てかこの人本人の前で平然と暴言吐いてるけど、あんまりふざけてると言われたい放題の僕と違って本当に殺されるよ。この子見た目に反してめっちゃ強いからね、マジで。
「ええ、まあ、色々とわけありで」
傍で睨みを効かせている幼女が恐ろしい。まあ、僕でも出会い頭にあんな暴言を堂々と吐かれたら、気分は悪くなる。
寧ろここまでくると清清しい気分になりそうな気もするけど。
「んで、何やってたんだ?」
僕は、少し考えてから幼女に目配せする。
言ってもいいのかなこの話。むすっとしている彼女の姿から察するに、問題ないけどコイツには話す必要はない、みたいなオーラが出ているのだけど。
「私、こいつ嫌い」
さらりと男が傷付く一言を発した幼女は、むすっとしたまま動かない。コイツら二人とも、思ったことを頭の中で止めるということをしない人間なのか。
両方とも加減も手心も知らなそうではあるが……。
「テメェのお陰であのクラスの雰囲気は俺には合わん。お前のような奴が人気者ってだけで胸糞悪い」
「貴方が私を嫌いなように、そんなのは私に関係ないの」
随分と険悪な雰囲気だった。よもや今朝の出来事も、メリーさんと何かがあって彼は学校をフケたんじゃないのだろうか。
幼女から逃げる大男って構図も中々シュールだけど……んなこと言ってる場合か。
「それもそうだな」
気分悪そうに吐き捨てた悪口君は、幼女から視線を外した。
どうやらここで喧嘩は起きなさそうだ。なら良かった。
「逆にわるぐ……貴方は何をしてたんですか?」
おっといけない、心の中のあだ名が外界にまで滲み出るところだった。
「あぁ、狩りの途中だよ。トドメ刺す前に逃げられてな、今追い詰めてる」
まだ続けてるんだ。
一応予想はしていたから驚きはしないけど、先程まで彼が標的と戦っていたのかと思うと、何となく背筋が震える。
あ、僕もさっきまで戦ってたよなぁ。そう言えば。この赤毛のメリーさんと。
「へえ、そうなんですか。それじゃあ頑張って下さい、応援してます」
僕は悪口君にお別れのエールを送ってから足早に歩き出す。こんなとこで無駄話してたら日が明けてしまう、さっさと先を急がないと。
「待てよ」
しかし案の定、メリーさんほどではないにしろ凶悪な握力で思い切り肩を掴まれた僕は、強制的に歩みを止められた。
「な、なんですか?」
「おいおいテメェ話はぐらかすんじゃねぇよ。俺の質問に答えろ」
あ、バレてた。てっきりこのまま解散する流れだったんだけど、そうもいかないらしい。
「えーと、結構話すことが多いんで、狩りの支障になっちゃうかなぁと」
「どっちにしろ今日中には殺れねーよ、敵はどっかに隠れて絶対に出てきやしない。だから安心して話せ」
何も安心できない答えが返ってきた。
僕は、もう一度メリーさんに目配せする。
「んむ。私が話すからいいの」
赤髪を揺らめかせて僕の前に躍り出た彼女は、悪口君が僕に向けて伸ばしていた腕を掴んで引き剥がした。
――さっきから気になってたけど、メリーさんそれやっぱ“キャラ”だったのかな?
じゃあそれは、あのクラスでの幼女のイメージ……いやメリーさん自身の幼女イメージといったところだろうか。とにかくさっき僕と交わした口調ではなく、もっと可愛げのあって拙い喋り口調になっている。割と見た目相応だ。
もしかして、僕は彼女の目的も正体も大体知っちゃったみたいだから、普通に話すことにしたのかな。
「別にお前が言うならそれでもいいが」
悪口君は極めて上から目線で物を言っている。当たり前だがメリーさんはちょっと不機嫌そうだ。
僕は自由になった身体を一歩後ろに引かせる。壁を背もたれにでもしておこう、疲れた。
ううむ、事態を収拾しようとは思うけど、行動しない内に状況が面倒臭い方へ傾いている気がする。どうしたもんか。
僕の時に比べてかなり大雑把な説明をしていたメリーさんへと目をやって、後ろに体重を預けた。
「――で、今からお二人で“忘れ物”を取りに行くってわけか」
結局、嘘の説明をしたメリーさんは、悪口君がそう呟くとうんうん頷いていた。
つまりはこうだ。簡単に要約してみせると、メリーさんが大切な所有物を遠くの学校に忘れてしまった。でも夜道に一人で行くのは怖いから、たまたま通りがかった僕にお願いして来てもらった――そんな感じ。下手くそか。
「何も今から行かなくても、朝から一人で行きゃいいだろうが。何考えてんだお前?」
「……むぅ」
頬を膨らませた幼女。これは怒っている演技か、それとも本気か。にしてもメリーさんがキャラを作っていたってのは、正直面白い。それはそうと中身を知ってしまうと、どんな演技も不自然に思えてくるのは僕だけだろうか。
「今じゃないと嫌だ」
言い訳がとてつもなくゴリ押しだった。
「……あっそう。そいで生ゴミ君、その遠くの学校とやらには、何で行く気なんだ?」
言葉のキャッチボールができないことを知るや否や、メリーさんを適当に流した悪口君。彼は僕の周囲を見回している。
はて、彼は僕らのどこに乗り物があると錯覚しているのだろうか。そんなもんがあったらとっくに乗っている。というかそれは一度メリーさんに提案した。
「徒歩、ですかね」
「お前は馬鹿か?」
その暴言は僕じゃなくてメリーさんに言って下さい、全面的に彼女が悪い、僕はただの被害者。
「おいそこのガキ、学校てのはどこにあるんだ?」
「……が、き?」
メリーさんの片眉がぴくりと跳ねた。仮にも“元”一国の姫だ、ここまで下劣な言葉遣いをされたのは初めてだろうし、華麗に無視もできないだろう。まぁ、さっきもガキって言われてたけどね。
「どこだって言ってんだよ。こいつも何かの縁だ、折角だから連れてってやるよ」
しかしながらこの悪口君、こうも空気が読めて尚且つ心の底は優しいのだから、どうにも憎めない。
「え、本当ですか?」
僕は思わぬ助け船に目を輝かせた。徒歩以外の方法があるんならなんだっていい、ありがとうございます“良い人さん”。
最早あだ名ですらない。
「あぁ、遠出なら俺も助かるんでね。もし俺の様子を誰かが見ていて、俺がここから遠ざかるのを確認してりゃ自分から表に戻ってくるかもしれねぇからな。そうなりゃやりやすいだろ? ちょっとした寄り道だと思えばいいんだよ」
ちゃんと、狩りは視野に入れての行動だそうだ。なんとまあ、頑張って下さいとしか言いようがないけど。
「……地名は分からないけど、学校名は“エクサル”だよ」
素っ気ないメリーさんの一言に彼は驚いた様子で口を開いた。
「おいおい、あんなところに徒歩で行ったら何日掛かると思ってんだよ。向こうはここ並みの都市だが、それまでの道はそこそこ険しいんだ」
そう言い、彼は苦笑していた。
そんなにやばいのか――。
――エクサル?
確かメリーさんの名前がそのまま学校名に使われているのでは、いや。
なるほど……とするとアウレルキッド・メリーってのは偽名だったってわけか。敵を呼び寄せるための学校にわざわざ本名では来ないだろう――という推測を立てるとすると、分かる。
それじゃあ、彼女が“エクサル”と叫んだのは何故なのだろうか。僕はてっきり詠唱とか魔法名とかそういう類のものだと思っていたのだけれど、自分の名前を叫んでどんな意味があるというのか。
術式の発動キーが自分の名前だとでも言いたいのか? いくらなんでも恥ずかしすぎる。僕で言えば「――鈴峰律樹!」みたいな感じなわけだし。やばい想像しただけで赤面してきた。
などと失礼なことを考えていると、メリーさんもといエクサルさんが唸っていた。
「やっぱり、いい。貴方の力は借りない」
ちょっとメリー、ああエクサルさん――面倒臭いからメリーさんでいいや、ここは悪口君の案に乗った方が無難なんじゃないかな。
いくら嫌いだとしても、徒歩は厳しいって悪口君が言ってたし。
「……あ? お前はよくてもコイツはそうじゃあねぇだろ。自分勝手な野朗だ、人が折角手を差し伸べてやってるのによ」
「助けを求めた覚えはないの」
メリーさんは、悪口君の見せる態度に対して少し怯えるように縮こまっていた。うん、これが普通の少女なら可哀想なシチュエーションだ。助けてあげたい。
普通の少女じゃないから助けないけど。
「お前の個人的な感情で物事を捉えるんじゃねえよ。俺は嫌いな奴は嫌いだとはっきり言うが、区別は付けているつもりだ。それとも、同行できない理由でもあるのか?」
その通り過ぎて言い返す言葉がないのだろう、メリーさんは口を閉ざしてしまっている。
僕は心の中で悪口君にエールを送ると、若干ばかり痛みが引いてきた右腕をそれとなく動かしてみた。ああ、このメリーさんにやられた傷……右腕骨折、靭帯断裂とかだったら洒落にならないぞ。
「……分かった。お願いするの」
渋々といった風に了承した彼女は、僕へ視線を送ってきた。何か訴えたいサインがあるのかもしれないけど僕は全面的に悪口君に賛成なんで、僕から拒否することはまずないよ。残念。
「決まりだな。じゃあ行くか」
彼は携帯電話のような機械を取り出し、何やらそれを操作しはじめた。乗り物を呼び出しているのか、誰かに通話しているんだろう。
こんなハイテクな機械がこの世界に存在するのか。
「おい、生ゴミ君。覚悟しとけよ」
「え?」
唐突に、悪口君が僕へ忠告してきた。乗り物に乗るのに覚悟? 嫌な予感しかしないのは僕だけなのかな。
「体感すりゃ分かる。とにかく足踏ん張っとけ」
「全然意味が――」
悪口君の忠告ぐらい唐突に、その時は訪れた。
とてつもない衝撃が背中から僕を襲う。巻き込まれた右腕が断末魔の叫びを上げて、結果、僕も叫ぶこととなった。
「――うわあああああああっ!」
◇
――空を飛んでいる。
否、空気に押されている、とでも表現するのが正しいのか。突如発生した衝撃は僕ら三人を空にまで押し上げ、今も背中でその威力を発揮している。
初撃こそ右腕に負担が掛かった物だが、今は別段痛くはないので安心ではある。
「――あの、すみません。これでもしかして目的地に行くんですか?」
右隣で同じく空中を飛ぶ彼へ質問する。なんというか、生身で空を飛ぶ経験なんて初めてだ。遥か下に地上が見える。
「そうだ。こいつは俺の仲間の能力でな、行きたいところへ連れて行ってくれるんだ」
メリーさんに意識を向けるが、特に驚いた様子もなく先頭を飛んでいる。
「歩くよりは楽だろ」
「ええ、そうですね。ありがとうございます」
上から見下ろして、改めて分かったことがある。世界が、てんでちぐはぐだ。もっと適切な表現を用いるのなら、つぎはぎの世界といった方がいいかもしれない。
様々な地形のパズルを無理矢理嵌め込んだかのような……そういう風景がどこまでも広がっていた。
大雑把に説明すると、地形のところどころに境界線のように亀裂が入り、そのどれもが独立しているのだ。――そりゃそうか、様々な世界の様々な“物”や“者”が転移という形でこの世界に取り込まれているのだから、何もおかしい景色ではない。
そうして空を飛ぶこと少し。
「おい」
悪口君が、低く冷えきった声で、何の前触れもなく呟いた。
「すまねぇ。――“奴”に気付かれた」
その言葉が何を指すのか分からなかったが、先頭にいるメリーさんも珍しく悪口君の言葉に耳を傾けていたことから、重要なことを言ったのだろう。
「あの……“奴”ってのは」
「俺を執拗に追っかけてくる敵だ。しばらく姿を見せなかったんで油断していたが――」
敵? 彼を追い掛けるものとは一体。
辺りへ視線を配ったが、特に異変も感じられなければ誰かの姿も見受けられない。
「――来るぞ」
次の瞬間だった。
僕は危機をその身に覚えることとなり、しかし何もできず。空気がひたすら冷たくなっていく。
敵というのは、直ぐに知ることとなった。同時に、知ってからでは遅かった。
「ばぁ」
ふざけたような――腑抜けたような――そんな一言。
それを口に出したのはこの中の誰でもなかった。僕でもメリーさんでも悪口君でも、ない。そこから導き出される答えは一つ。
敵。それは悪口君が言った通りの――。
「おい、律樹。ソイツの声に耳を傾けるな。ソイツの存在を意識するな。でき得る限り、全力で拒絶しろ――!」
悪口君が僕へ声を掛ける。恐らく心配してくれているのだろう――だが、僕は彼に返事をする余裕がなかった。それよりも、教えてもいないのにどうして彼が僕の名前を知っていたのか、とか。そんな下らないことを考えてしまっていた。
つまるところ、そうなってしまうくらいに――僕は、思考が停止していたのだ。
――眼前で笑う、“顔のない”奇妙な人間の前で。
いや、顔がない、は少し語弊があった。頭部はあるが、目や耳や鼻や口が、ない。本来あるべきはずの顔は、のっぺりとした白磁に、歪にひしゃげた“口”のような窪みがあるのみ。
「お前は誰だ」
不意に、そののっぺりとした何者かが空中を駆ける僕に抱き着くように張り付いて、無機質な言葉を述べた。
「お前は誰だ」
実際には喋っていない、恐らくこの“声”は僕以外には聞こえていないであろう。脳に直接侵入してきた、ぬるりと気持ち悪いのっぺらぼうの“意思そのもの”。
僕は、全く動くことができなかった。
「お前は誰だ」
定期的に繰り返される意思が僕に刷り込まれていく。
――まずい。これは洗脳に近い何かだ、このままじゃ。いずれ僕の精神が狂う。崩れてしまう。
「お前は誰だ」
男かも女かも分からない中性的な声が二重にも三重にも重なって聞こえてくる。いくら抱き着かれていても、胸の膨らみも、かといって男らしい力強い肉体も何も感じない。そもそも、コイツが“人”に分類できる生物なのか。
くぱぁ。汚い音がして、顔の真ん中が恐ろしいくらいに割り開かれた。ブラックホールみたいな真っ黒い中身は、どんどん僕に近付いてくる。
「“お前は、誰だ”」
「ああああああああああああああああああああああああああ」
僕にはただ叫ぶ選択肢しか残されていなかった。四肢を押さえられ、得体の知れない何かが僕の身体を這っている。なのに、何事もないかのように身体は空中を移動している。
対処できない。それは何の力もない僕にとって、当たり前のことだった。
「エクサル!」
代わり。聞き覚えのある叫びが耳をつんざき、のっぺらぼうが僕から引き剥がされた。
前には、赤黒いオーラのような物を纏ったメリーさんが、血走った笑みを浮かべて小さな両手を赤く染め上げている。
その右手の先には、のっぺらぼうの上半身が。左手の先は、下半身が。
「メ、メリーさん、ありがとうございます」
「まだ終わってない」
ぽつりと、小さく僕の感謝の言葉を叩き伏せて、彼女はのっぺらぼうを下に投げ飛ばしたが――。
「殺ス」
僕らの遥か下で顔面をこちらに合わせたのっぺらぼうは、確かにそう“意思”を僕に向けた。
今の言葉の意味するところは。
「お前は僕」
のっぺらぼうの言葉が変化した。
「僕はお前」
僕にしか聞こえない語りを続けた“アレ”は、続いては自身をも騙り始める。
のっぺらぼうの顔が、徐々に膨らみを持って、突起を起こして、凹ませる。――アレは、僕の顔?
「律樹! それ以上アイツを見るんじゃねぇ!」
――そうは言っても、ねえ。悪口君。すみません、動かそうとしても、何故か身体が言うことを聞かない。
「お前は僕、僕はお前、お前はお前はお前お前お前お前お前お前前前前前前前前」
アレの言葉が僕に張り付くように、刷り込まれるように焼け付いて、離れないんだ。
「ぼくぼくぼくぼくぼくぼくぼくぼくぼくぼくおまえおまえおまえおまえおまえおまえおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「いいいいい――ああ――がぐがぐああああああ――ッッ!」
気が付けば、僕は発狂以外の言葉を発せなくなっていた。そこで、僕は気付く。
“アレ”は、僕を洗脳しようとも、はたまた精神崩壊をさせようとしていたわけでもない。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
僕を、“奪っていた”のだ。
「“お”」
最後の一言が僕の心を刺した時、僕は僕では無くなった。
――お。
「畜生っ!」
悪口君の悲痛な捨て台詞を最後に、僕の“五感”は強制的に閉じられた。
◇
同刻。ゆらりと舞うカーテンの下、頭痛を伴って起きた女性はカーテン布の隙間から夜空を見上げる。
空に舞っているのは夜空よりも漆黒な黒の色。そこから何を感じたのか――女性は、唐突に制服を脱ぎ捨てた。大人びた体躯が部屋の中で妖しく煌めき、黒髪が美しくなびく。だが、鈍く照らされる横顔は深刻その物だ。
「――あ――」
開けた瞼の奥で揺らめく瞳は、銀色に。少しして、女性の下着姿を纏うようにして銀の粉塵が現れ始めた。それらは次第に形を造り始め、彼女を隠していく。
「フフ」
一笑した女性は、男女判別さえ付かなくなった自身の身体を舐めるように確認した後、
「待ってて下さい」
そこから“消えた”。
◇
上半身と下半身を分断されたのっぺらぼうは、真っ赤な血液を宙に撒き散らせながら地面に落ちていく。
目的地までの移動を一時中断した男は目を閉じた男子生徒を抱え、制服を着た――制服に着られているような幼女は、地に転がり血に浸る上半身を睨み付けていた。
「あれは何?」
「俺達狩人を狙う、カオナシ。言ってしまえば狩人狩りだ」
地上へ降りた男は、“魂の抜けた”男子生徒を横の壁へ寄りかからせて寝かせる。
男は、怒っていた。初めて自分に意見をした友人を殺されたことに。弱いのに芯が固い、そんな凄い奴の存在をカオナシに奪われたことに。
そして、カオナシを対処仕切れなかった自分の不甲斐なさに。
「律樹は死んだ」
この世界ではよくある話だ。人が、知人が、宿敵が、親友が、彼女が、生物が死ぬだなんてことは。だから男は泣かない。けれども、無関心なわけではない。
「いいや、死んでない」
幼女は静かに、ほっと溜め息を吐いた。幼女の整った顔は男子生徒とカオナシの二人を観察して、考察している。
「魂があのカオナシってのに引き抜かれて存在を奪われたのなら、奪い返せばいい」
身の毛もよだつ狂気の障気を身体から放出した幼女は、カオナシに向き合った。
「俺にそんな力はねぇ。んなことがお前に可能だってのか?」
「じゃなかったら――言わないよ」
カオナシの上半身が宙に浮き、遠くへ落ちていた下半身と接合される。見た目だけで言えば、完全に男子生徒――鈴峰律樹と同じ外見である。
「安心して下さい、二人共。僕は、鈴峰律樹ですよ」
鈴峰律樹の“声”を使った茶番に、男の血管がピクリと浮き出る。
「アウレルキッド・メリー。今の奴は、根本的には鈴峰律樹と同じ生物だ。顔も、声も、身長も、立ち振舞いも、全て。――だが、奴は鈴峰律樹とは根本的には違うんだ、矛盾してるがな。で、“カオナシ”は奪った奴の魂を使用して力を公使する。気を付けろ」
「分かってる。誤って殺しちゃわないようにするから、後ろで黙って見てて」
幼女の身体から、障気とは別に、紅蓮のオーラが漏れだした。空間が歪む程の禍々しい力を前に、男は戦慄する。
「俺にも責任はある、だから俺――」
「“邪魔”だから、視界に入らないで」
開戦。
「――ガッ」
戦いが始まるや否や、男の視界から離脱して高速移動していた幼女の脚が、既にカオナシの腹部を捉えていた。
先手必勝。連撃で反撃の隙を与えず、結果、一方的な虐めが発生している。
「メ、メリーさん……っ! 僕は、僕は敵じゃない! 信じて下さい!」
敵の“演技”には一切耳を貸してやらない。カオナシを遥か後方まで殴り飛ばした幼女は、両足をバネのように駆動させて跳び跳ねる。
数秒の滞空時間。その間に、幼女の異質なオーラが柄も刃も赤いナイフに変化していく。その数は百を越える、禍々しい刃。
力を具現化したのである。
今まで纏っていた禍々しい異常は、今度は大量のナイフと化して幼女の周りをぐるぐる旋回する。
その光景は、形容するならば地獄。彼女が存在するだけで、そこに死を見てしまう。
戦闘に付け入る隙を狙っていた男は、幼女の戦いぶりを見て、遂には介入するのを諦めた。
「カオナシ。今回ばかりは、相手が悪かったな」
幼女の性格や能力に何の興味も持ちえてなかった男だが、初めて幼女と真っ向から関わって、“とてつもなく危険な野郎”だと認識した。もしも喧嘩になるようであれば、男は絶対に幼女には勝てない。
「――そこにいる幼女は、非情だぜ」
血走る眼は標的から的を外さず、絶えず続けられる狂った笑いは、敵に恐怖を与える。
幼女は戦いながらその顔で何を考えているのか。目の前の敵の行動パターンを予測しているのか、鈴峰律樹の無事を祈りながら戦っているのか。
どちらも違う。
――何も考えてはいなかった。ただただ純粋に戦闘を楽しみ、敵の傷口が増えるのを快感に想い、暴れることで狂喜を感じ取る。幼女は――アウレルキッド・メリーは、純粋に狂っていた。
カオナシよりも、男よりも、鈴峰律樹よりも。圧倒的に。
「そろそろ、終わりを迎えさせてあげる」
数百だったナイフが数千に増量し、新たに纏い始めた赤色のオーラが漆黒に変色していく。幼女の肢体は、もう辺りを漂う力のお陰で殆ど視認することは不可能だ。
「――《アンリミテッド・ヘル》」
それは言葉通り、無限に起こる地獄。大量のナイフが回転し、カオナシを無慈悲に切り刻んで生命を削り取る。さながら赤色の竜巻だ。
無惨にも血が泣き叫ぶように飛散し、肉が具現化された刃に切り飛ばされていく。
一切の反撃の余地も許されなかったカオナシは、攻撃が止んだ現場に死体の如く転がっていた。
微かに息はしている。――その瀕死のカオナシの眼前に幼女は顔を突き合わせ、
「……んむ」
そこからはノータイムで。
唐突に、カオナシ相手にキスを始めた。快楽に、悦楽に酔っている幼女は、笑いながら、愉しんで、“鈴峰律樹”の唇を貪り尽くす。
キスと言うよりかは補食のそれ。その姿には、色気も何も感じさせない。
ただひたすら、鈴峰律樹の形を成した化物から、生気を吸い取るように――。
「見付けた」
――ぐじゅり。
カオナシの肉体から大量のナイフが飛び出して、破裂した。
「……っ?」
状況を理解できなかった男は、全方位に散った血肉の散弾を回避して怒鳴った。
「殺さねぇんじゃなかったのか!」
幼女がカオナシに背を見せ、口を閉ざしたまま男の方へ戻ってくる。肉片に成り果てたカオナシの残骸は、もうピクリとも動かない。
その顔は“のっぺらぼう”に戻っていた。
「……まさか」
そこで、ようやく幼女がやったことを理解した男は、唖然としている。
幼女は、カオナシの体内から何らかの力を使って鈴峰律樹を引き摺り出したのだ。
その際、用済みになったカオナシを体内から死滅させた。言葉でそう言うだけなら簡単な話だが、それを実行するとなると、最早領域が違う。
幼女は浅く呼吸を繰り返す鈴峰律樹の側まで行き、身体を両手で掴まえると、今度はその唇にキスを施した。単純な話。今度は、先程やったことの逆をすればいいだけ。
即ち、“奪い返した鈴峰律樹の存在”を、元の身体に吹き込むこと。
実際にやってることは、極めて繊細な神技なのだが。
「……――う。――ぼ、ぼく――は」
いとも容易く行われ――。
ゆっくりと呻いて、鈴峰律樹が瞼を開いた。
◇
「――律樹君」
後ろから呼ばれた気がして、僕は色々と疑問に思いながらも振り返った。黒い渦が大量に散りばめられた暗黒の空間の中で、白くぼやけた何かが佇んでいる。
確かに、そこには何かが居た。けれど、視界がぼやけていてよく見えない。
どうして、僕の名前を……。
「律樹君?」
「……っ」
その“何か”はいつの間にか僕の目の前に立っていたようで、肩を叩かれてやっとそれに気付けた。我ながらなんという体たらくだ。
だけど、今度ははっきり見える。
僕は、見えた“彼女”の姿に、かなり驚いていた。
起きたばかりのようなぼやけた意識の中、その曖昧な感覚が弾けとんでしまうくらいには、大袈裟にね。
――艶々しくて、黒髪のロングストレート。長い睫毛のぱちりと開いた瞳。桃色の唇が色気を出し、加えてクリーム色をベースにしたワンピースが、美しさと儚さを同時に演出している。
こんな娘に上目遣いをされた日には、本当に死んでもいいと思えるような。
――僕の記憶に残っている、憐華さんがそこには居た。
「はは。懐かしいですね」
あれあれ、可笑しいな。知らぬ間に、渦だらけの奇妙な空間が原っぱに変わってる。僕と、彼女と、彼とよく居た、懐かしい記憶の風景へ。
僕は、これは現実じゃないと直ぐに気付いた。この光景は僕が描き出す都合のいい夢。悲しいけれど、懐かしくもある。何ともやりきれない気持ちだ。
「懐かしいって何ですか、久し振りに会った台詞がそれですか? もっとロマンチックに行きましょうよ」
――ああ。憐華さんは、そういう人だったな。最初こそ口数は少なかったけど、仲良くなる毎に彼女の言葉は増えていって、次第に軽口も叩き合うようになった。彼女は、僕相手だと意外にお喋りだった。
「そう言われちゃうと、次放つ言葉がどれだけロマンチックでも格好よくても、演技臭くて聞いちゃいられませんよ」
「ふふ、それもそうですね」
二人共々、薄く笑う。
久々の対面。それが、例え記憶の中なのだとしても、やっぱり大切な時間だ。
「……今まで、どこ行ってたんですか? 心配でしたよ」
憐華さんは、あの日。僕の前から姿を消した。事件が起こった当日、僕と“初めて”二人で会った日に――。
――その日はなんだかおかしかった。
僕が家でゴロゴロしていても誰も来やしない――どうせ憐華さんとアイツしか来ないんだけど――ので、一人麻雀に興じていたのだが、いい加減に飽きてきたところだった。
何故だか、三人は今日まで毎日欠かさず集まっていたのだ。夏休みもとうとう終盤、約一ヶ月間も顔を合わせていれば、三人揃うことが習慣と化してしまうのは仕方ない。
だから、どうにも落ち着かなかった。
「久々に僕から出向いてみるか」
今日は絶賛真夏日なので、目的を水浴びにでもしない限り外に出る気は起きないが……。考える頭とは裏腹に、身体は正直らしい。
友達に何度電話を掛けても出やがらないので、とうとう僕は痺れを切らして外へ飛び出した。
「あらぁ、りっちゃん。今日はお出掛けじゃなかったの?」
友達の家のインターホンを数回鳴らし、慌てて出てきた友達の母親が顔を出した。単刀直入に母親が発した言葉が、僕の猜疑心を抉り付ける。
少し戸惑ってから、
「こんにちは。いや、違いますが……」
当たり障りなく答えて置いた。あまり関係のない人に突っ込む物ではない。
さて、今の発言は“可笑しい”。僕が腹を抱えて笑ってしまうくらいには十分に。そして、とっても笑えない冗句だ。
「おばさん、僕はどこかにお出掛けする予定ありましたっけ?」
彼に、僕と憐華さん以外に唐突に遊べるような友達はいない。その事実が分かっている時点で、僕が何をされたのか理解した。
――いやいや、冗談を言っちゃいけない。僕は何もされなかった、そう。“何もされない”ことをされたんだ。
「どこかは分からないけど、あの子はりっちゃんと、最近よく遊ぶ“女の子”を連れて、遠出する予定だったみたいだよ」
「そうですか、ありがとうございます」
僕は、憐華さんのことが好きだ。遊んでいく内に、話していく内に彼女の虜になってしまって、今では彼女と一緒に居られること自体が楽しみになっている。
だから分かる。僕がいつも憐華さんを見ていたように――同じく友達も、憐華さんを見ていたということ。
「りっちゃん、あれなら呼んであげるよ?」
「ああ、いえ、気にしなくて大丈夫ですよ。僕もこれからちょっと用事があるんで、ここら辺で帰ります」
僕はそう言ったきり、友達の家を後にした。おばさんには悪いけれど、今はあまりそこに居たくはない。
何故なら胸糞悪いから。ただそれだけ、僕も人間だ。
最近、友達の様子は少し変だった。気に止めるくらいの変化はなかったけれど、こうなってしまった今では“変”だと言い切れる。
最近っていうのは、憐華さんと出会ってからのことだ。らしくもなく僕に罪を擦り付けようとしたり、やたら遊びのバリエーションを増やそうと思考していたり、極め付けには「やっぱいいや」だった。
あの時、アイツは何かを言い掛けてそれを中断した。僕も憐華さんも何も言わなかったが、何かが彼の心の中で起きていたのは確かなのだ。
僕は、全てにおいて遅れていた。多分、彼よりも憐華さんを好きになるのが、僕は遅かった。だからというわけじゃないけど、行動するのも遅かった……もっと正確に言えば、僕は行動する気はなかったんだけどさ。
アイツのことだ。あの日、やっぱりいいやと言いかけた時点で「腹は決めていた」に違いない。「僕を切り捨てる準備をしていた」とも「決断した」とも取れるが。
大方、三人で遊ぶ予定を立てておきながら、僕が用事で行けなくなったとでも言ったんだろう。アイツが考えそうな安直な案だ。けれどもあの時渋ったってことは、やっぱり僕も連れていこうか迷っていたのかな?
「……どうしようもできないかな」
今日、暇だった原因が分かったことだけは収穫だったけれど、僕には何もするべきことはない。結局、これはただの嫉妬だ、先に動かれたことに対する苛立ちだ。
何より、僕の勝手な考えによるエゴだ。アイツもアイツだけど、僕は責められるような立場には居ない。あったとしても、僕は一体何様だ。
――ああ、苛々する。っても、苛々に関しては、僕を差し置いて憐華さんと遊びに行ったことについてじゃない、それは別にいい。
一番の問題は、僕を騙したことだ。
「――ざけんな! 正々堂々向かいやがれってんだ!」
久々に発散できない苛立ちを覚えた僕は、胸が押し潰されるような曇った感覚を抱えたまま、ある場所へ向かう。
なんてことはない。
ただ、草木が生い茂る原っぱに行くだけだ。大自然の中、緑の上で仰向けになって寝れば、少しは気が紛れるやもしれない。
「ふう」
僕らしくもない。獣のように叫び散らかすだなんてのは、全く持って僕のやることじゃない。
草の上にばたりと横たわった僕は、太陽に照らされながら静かに瞼を閉じた。
――ぽつ、ぽつ。
何か、地味な刺激が定期的に僕の額に落ちていて煩わしい。重い瞼を少しずつ開けて、ようやく自らの惨状に気付いた。
「いって……」
開いた目に何かが飛び込んできた。痛くて咄嗟に目を閉じたが、それが何なのかは考えるまでもない。
雨だ。それも小雨ではなく、そこそこに降っている。先程感じたぽつぽつの比ではない。
こんなになるまで気付けなかったのもおかしな話だが、とにかく僕は、知らぬ間に原っぱで寝ていたらしい。
その間にすっかり薄暗くなっていた空は、視界の端まで暗雲に覆われていた。
濡れてしまったものはしょうがない、もういいやと自分を慰めながらも尚横たわっていた僕だが、ポケットの中が微かに振動しているのに気付いて、無造作に手で探る。
「憐華……さん?」
防水携帯の液晶に表示されていた名前が憐華さんだったのを確かにこの目で確認して、静かに心の奥底で驚く。因みにこれは防水だから壊れない。大事なことだから二回言っておく、熱湯ならまだしも酸性雨如きじゃ防水の守りを砕くことはできない。多分。
しかし、どうして彼女から着信が来るのだろうか。携帯を握り締めた僕は、仰向けのままおそるおそる通話ボタンを押した。
「はい」
「律樹君、今どこにいるんですか?」
……はい? 拍子抜けした僕は、うっかり雨に滑らせ草の上に携帯を落としてしまう。慌てて取り直して、すぐ耳に当てると。
「そこ、外ですね。雨降ってますし。何より音で分かります。傘も差してないですよね?」
ズバリ正解。そりゃあ雨降ってるのは分かるだろうけど、どうして傘を差してないことまで把握してるんだろう。この雨だ、音で得られる情報は限りなく少ないはず。
「律樹さんのお母さんに聞きました。昼間から出掛けたのに、まだ帰ってこないって」
なるほど。それなら、分かっちゃうな。
「携帯、今まで全く見てなかったんですか?」
「……まあ」
分かってる。憐華さんまでもが電話してきたってことは、その前に母親からも必ず電話が来ていただろう。それも何件も。
少しだけ携帯を離してディスプレイを見ると、時刻は深夜の一時を回っていた。
びしゃびしゃ雨に打たれていた僕の頭は、激昂することも迷うこともない。嫌に冷めてしまった頭は、雨の中で冷静沈着になっていた。
僕は何時間寝続けていたんだ。どんなに疲れていたとしても、外で半日も爆睡こける自分が恐ろしい。
「すみません、寝てたら雨降ってきて気付いたみたいです」
「フフ、律樹君らしいあほらしさですね」
僕はのろのろと立ち上がった。全身ずぶ濡れで、私服で湖に飛び込んだ並に服が水を吸って重い。
家に帰ろうと振り返ると――そこには、憐華さんがずぶ濡れで微笑んでいた。
回想終了、もう必要ない。
「ちょっと、遠くへお出掛けしていました」
くすりと、彼女は含み笑いをした。
「まるで、あの時のシチュエーションみたいですね」
僕はなんとなく懐かしく感じて、緊張していた身体を少し緩めた。
彼女は、雨の中僕を必死に捜してくれていたみたいで、あの後、昼間のことについてよく話してくれたのだ。
アイツが嘘を吐いて憐華さんと遊園地へ行っていたこと。そこで告白されたこと。断った後のこと。そうして、彼女が事の全容を知った時のこと、全部。
「ええ、晴れてますけどね」
濡れ濡れで大変だったんですよ、と付け加えた憐華さんは、僕の右手を軽く触った。
さて。
もしも僕が、ここで彼女に質問をするとしよう。目の前に居る相手はただの妄想、つまり望んだ答えは帰ってこない。
十分に分かっていたのに。
「僕のことは、嫌いでしょうか――?」
涙を溢しながら、僕は吐き出した。
彼女は、全てを知っていたのだ。どうやらアイツも僕が憐華さんに御執心なのを吐くくらい理解していたようで、フラれた後に暴露してしまったそうだ。
だからあの雨の日、僕は何もしていないのに彼女にフラれたのだ。
――友達としてならいいけれど、恋人関係ってのは、憐華さん駄目みたいだ。
そして、そうなってしまった時点で三人の関係は続かない。それぞれがバラバラに欠けて、二度と修復には至らないだろう。
憐華さんは、その日以降音信不通で、友達とは次の日話し合いの末、縁を切った。
あれから数年、突然再会してしまった彼女を前にして――気が狂ってしまうのは、果たしておかしいことか。
「いいえ」
全てを祓うかのような一言を囁いた彼女は、僕の頭をそっと撫でた。
かと思えば、霧のように霧散して、憐華さんは消えていった。