六十三話 洗いざらい
「……頭痛い……」
ここはどこだっけ。
とか思いながら頭を上げると、視界がぐわんと揺れて気分が悪くなる。
「はぁ、何がどこだよ……いったた……」
ベッドだ。どこにでもある、安い木材から造られた寝床。見覚えがあるというか、なんというか。
アリシーとリセルさん家の、寝室だった。
瞬時に目が覚め、昨晩の出来事の全てを思い出した僕は嘆息する。
「どうしてこうなるのかな……」
三度目だぞ、三度目。
一度目はランサーとなんだか良くわからないままに飲み合いをして、二度目はコンスタリエに飲まされて。
今日は……ああ。
記憶が飛んでいないのが幸いか、いや逆に不幸か。
激しい頭痛に悩まされつつ、僕は地獄のような食事会を振り返っていた――。
「律樹さん、どうぞ」
時は例の食事会にまで遡る。アリシーが料理を作り、それらを皿に盛ってテーブルに運んでいた時だった。
「上手く配分できたか分かりませんので、一応味見お願いします」
何故か満面の笑みをしたリセルさんに酒を盛られ、それを受け取った僕は勧められるがままに一口飲んだ。
「……う」
濃い。一瞬で我に帰り、ふと今日は何しに来たんだっけと考え直す。
そう、アリシー、リセルさんと夜ご飯を食べることになってたんだ。しかし僕が真っ先に口にしたのはリセルさんブレンドの酒。
透明な液体の中に僅かばかりの果汁が入り、というかほぼ割れてないただのアルコールが木のカップにこれでもかという程注がれている。
これをやったのがコンスタリエなら嫌がらせだと分かるのだが、リセルさんはそういう人じゃない。天然さんだ。きっと果汁とアルコールの比率を間違えて入れてしまったに違いないのだ。
続いて食卓に並ぶのは、酒飲みを考慮してなのか脂っこい炒め物に揚げ物など、摘む料理が大半。
これをご飯とは言わない、一次会でご飯を食べてしまった酒豪共の二次会というのだ。
しかし料理が出揃ってから「主食は?」というのは非常に言い辛く、結局のところ黙っているしかなかったのだ。まあ、主食に米なんてないのだが。
で。
「……う、うん。そうですね……大丈夫。おいしい……かな」
屈託のない純粋な微笑みをしてこちらを見るリセルさんに「割れてないですね」と伝えるのは、もっと言い辛かった。
でも大丈夫、この後のフォローでそれとなく配分が狂っている旨を伝えればいいのだ。
「でもあれですね、僕はもう少し」
「わあっ、本当ですか? 良かったです!」
「果汁多く……」
「どんどん作りますから、無くなったら言って下さいね!」
「………………はい」
おいしい、この一言が駄目だったのだろうか。話を聞かない彼女に今更強い否定をするのは心苦しく、最終的には頷くので精一杯だった。
ちび、ともう一口飲めば、口が苦く喉が焼け――正直美味しくない。不味い。
一杯ならともかくこんなものを何杯も? これは拷問だ。
酒弱いってさっき言ったじゃん、なにこれ。いじめ?
逆に一杯も飲まないのはある種酷いし……。
いや、そうかなら自分で入れれば良いんだ。
――と思ったけど、リセルさんが入れると言ってるのに自分で入れたとしたら彼女はその選択をどう取るんだろう。“本当は不味いのにお世辞で嘘吐いた人”になってしまうのかな……それはマズイ。非常にマズイ。彼女はそういう微妙な気遣いには敏感なのだ、逆に悲しませることになりかねない。
何より胸が痛い。
こんなことになるなら嘘なんか吐くんじゃなかった、最初から正直に言えば良かった。助けてランサーとコンスタリエの肝臓。
「じゃあ食べようか」
アリシーが自分達のカップを取り出し、席に着く。
かくして――始まったのだ。地獄の、お食事会が。
まずアリシーが自分のカップに少量の酒を注ぎ、どことなく葡萄の味でもしそうな紫色の果汁を大量に入れる。それをマドラーで混ぜる。
そしてリセルさんも自分のカップに少量の酒を注ぎ――え? 透き通る赤色の果汁を大量に――えっ? 注いだのだ。
「美味しいですね」
「うん、でもいつもとあんまり味変わらないね」
この世界に乾杯の風習など存在しないので、二人は先程作ったばかりのカクテルを一口飲んで、それぞれ感想を溢した。
「………………うん?」
はあぁ? 味が変わらないだって?
なら僕の透き通ったほぼ透明なアルコールを喉に流し込んでみろ、きっとそんな悠長なこと言ってられないぞ。
……でもリセルさん普通に注いでたし、この異常な配分は間違えただけなんだろうな。次からは普通のお酒が飲める、そうに違いない。
そうとなったらやることは一つ。こんな酒をちびちび飲むくらいなら、一口に飲み干して旨い酒を飲んでやる。
と、テーブルに置かれた箸(この一年で僕が箸を普及させた)で揚げ物を掴み、口に運ぶ。小さく切り分けられた柔らかい肉の食感が口の中に広がり、じゅわっと溢れ出る肉汁が舌を支配する。喉を通る際の揚げ衣が気持ち良く食道を刺激し、僕の喉は満たされた。
酒に汚染された喉は油で浄化された。今ならやれる、いける。覚悟は決めた。
「――んくっ」
アルコール臭漂うそれを天に掲げ、輝く透明な酒の入ったカップを逆さにする。
そう、一気飲みである。良い子も悪い子も絶対に真似をしないでね。
ごくごくと喉を打ち鳴らし、僕は吐きそうになるのを抑えながら必死に中身を飲み干す。焼けるような熱さに堪えながら、空になったカップをテーブルに置いた。
勢いが良かったのか、こん、と小気味の良い音が鳴る。アリシーとリセルさんの方を見れば、何やら顔を見合わせてこくこくと頷いていた。
「あ、ではお代わり入れますね!」
やば、喉痛い。なんか気持ち悪い。
必死に吐き気から逃れる僕を嘲笑うかのように、リセルさんはカップをの中に“大量のお酒”を注ぎ入れ始めた。
……あっれぇー。
可笑しいなぁ。それ、割れてなくね?
そして、申し訳程度に果汁の混入したカップを両手にリセルさんは微笑んだ。
「はい、どうぞ」
「……」
無言で受け取り、僕は吐き気から生唾を飲み込んで静止する。
どう考えてもこの量は可笑しかった。
流石に二回も繰り返されればわざとと見て間違いないだろう、では何故だ。リセルさんはそんな意地悪をする人じゃないのだ。
多分、いやリセルさんはこの配分が僕に適切だと思っているに違いない。そして僕は“おいしい”と言ってしまったんだ。
――誰だ、リセルさんに変な情報吹き込んだ奴は。コンスタリエか? コンスタリエだろ、アイツしかいない。きっと「律樹君はとっても濃いのがだぁいすき」とか言ったに違いない。
許さん、絶対に許さん。
……という冗談は置いとこう。
「あの、さ」
見るだけで目を背けたくなるカップをテーブルに置き、アリシーへ顔を向けようと――頭がくらくらし、視界を揺らしつつ今度こそ顔を合わせる。
「これ、もしかして、酔わせようとしてない?」
「え。ううん、違うけど……」
アリシーは否定するが、そうとしか考えられなかった。
そもそも今日のお誘いが突飛なもので、内容が食事と来た。まあ、それだけならいい。ただ、酒が出てくるのには違和感があった。
アリシーは勿論リセルさんは酒は飲まないはずだし、飲んでいる現場を目撃したこともない。酔っ払ってたこともなければ酒臭かったこともない。そんな彼女達が唐突に酒を大量に買ってくるか?
流石にない。買うにしても最初から人間一人殺せそうな量のアルコールを買うアホがどこにいるんだ。
あと今日のリセルさんはどこかおかしい。よくよく考えれば僕の来訪に知らない素振りを見せたのも白々しいし、示し合わせたようにやたら酒を勧めてくるし。
……いや全部勘違いかもしれないけど。なんか積極的な気がする。
アリシーだってそうだ。僕が酒に弱いことはあの日の夜に知っていたはず。いやもう恥ずかしくて全てを消し去りたいんだけど、後悔後の祭りだ。彼女はあの日のことを全く教えてくれないけど、ともかく知ってるはずだ。
ならこの酒の量に突っ込んでくれてもいいじゃないか。しかも一気飲みした時リセルさんと何やらこそこそしてたみたいだし。
……いや確証とかないんだけど。
でも酔わせてどうするんだ。何も出ないぞ。
とりあえずこの酒の量は色々な意味でやばい、なんとかしなければ。
「そ、そうなんだ。あのさ、じゃあリセルさん? このお酒の量って狙ってやってます?」
「はひゃっ、これですか? いいえ違います!」
この反応。
「じゃあどうして自分のお酒には果汁を多く入れて、僕のにはお酒を多く?」
「あ、や、それは、それはですね?」
妙にあたふたし始めた彼女を前に、僕は理解した。リセルさんは確信犯だ。
「リッキーはアルコールが強くないと飲めないんじゃなかったの?」
「……えっ」
初耳だ。そうか、僕はそんな世迷い言を呟いていたのか。そうかそうか。
「一度も言ってないからね!」
「リッキーじゃなくて、ランサーが言ってたよ。確か……うん、多分言ってた」
「そうなんだ……そうなの?」
なんという余計なことを。
「そう、ならそれでいいのかと思って」
「……う、ん。いやでも少しは薄くして欲しいよね? はっきり言ってこれは――」
「律樹さんおいしいって言ってませんでした?」
「おいしい! けど普通の量で飲みたいです!」
ああもう余計なこと言い過ぎた。とにかく飲みたくない。死んじゃう。
「分かったよ。リセル、次から普通の量で入れてあげて」
「はぁい」
僕のカップを持つ手が、硬直した。
いよいよアルコールの回り出した身体が熱くなり、思考が纏まらなくなる。
「……え、これは飲むの?」
「ごめんね。不味いわけじゃないなら、その一杯は我慢して。戻すわけにもいかないし」
あぁ、飲むんだ。
漬け物をぽりぽりと咀嚼し、ふぅと深呼吸する。
「だったら飲んでやろうじゃないか!」
自棄だ。
再び覚悟を決めた僕は、自らを煽ってカップを逆さにする。中身を一気に飲み干し、直接喉に流し込んだ酒を胃にぶち撒けた。
「……アリシーさん、やっぱり、大丈夫なんですか?」
「……どうだろ。程々にしてあげようかな」
こそこそと会話する二人の声が聞こえたが、これはあれか。僕を心配してくれているのかな。
「だいじょうぶ。全然よってないし」
吐き気を消し去るため、つまみを飲み込む度に新たなつまみを口に放り込む。酒に対抗だ、う、なんか気持ち悪い。
ちょっとトイレ、と立ち上がれば重心がぐらつき目眩が起こる。あ、これ駄目なやつだ。間違いなく一回目の一気飲みが肝臓に来てる。二回目がいつ来るか恐ろしい。
「……そろそろ、ですね」
「もうちょっと待と」
二人の会話をそれとなく聞きつつ、僕は千鳥足でトイレに向かった
食事会が始まってから、もうしばらくが経つのか。
へべれけになってぐでんぐでんになっていた僕は、テーブルに突っ伏していた。
完全に出来上がってしまっていた。
「ねぇ、リッキー」
「あぁ……んん? どうしたぁの、ありしー」
上手く喋った気もするのだが、あまり呂律が回らない。アリシーの顔も歪んで見えるし、駄目だこりゃ。何杯飲まされたか分からないが、完全に飲み過ぎた。
というか、二回目の一気が身体を潰したのだ。これでは今日中に家へ帰るのもままならないし、どうなるんだろうか。
「……あのね。リッキーに聞きたいことがあるんだよ、今しか聞けないこと」
「……んん、なんだ、それ」
お酒を飲む場なのに顔を赤くもしていないアリシーは、僕へと身を寄せてきた。
突っ伏したまま顔を上げる僕の頬を撫で、彼女は初めて苦しそうな顔をした。
「エルリアさんって人。どうする気なの」
「……」
飛び込んだ言葉は酔いどれの耳にも深く入り、僕はだらしない顔を引き締めた。
いやそのまま変わりがなかったのかもしれないが、僕自身は現実に引き戻されたのだ。逃げていた、それから。ずっと逃避していた、彼女のこと。
まさかそれがアリシーの口から出るとは思わなかったけど。
そうか。酒を飲ませないと、聞けなかったこと……なの、か。
僕は、返事に困った挙げ句にアリシーから目を逸らした。
「わから、ない」
「どうして? 今までその人を助けるために、ずっと頑張っていたんでしょ。でも急に全てを諦めた一年前、リッキーはどうしちゃったの?」
アリシーは僕やルリさんのこと。それからルリさんを取り巻く環境のことは既に知っている。
誰って、全てはメリーさんが教えてしまっていたからだ。だが、まさかアリシーからこんなことを言われるとは夢にも思わなかった。
……そう、思っていたかっただけなのか。
「もう、無理だよ。もう、どうしようも、できないから」
僕ではルリさんを助けることはできなかった。一年前に下した結論だ。
僕がどれだけ頑張ったとしても、ほぼ間違いなくメリーさん、グリーフ、レイジには追い付かない。
ルリさんから賜った禁術も失った今、何の力もない僕がどうやって彼女ら三姫を出し抜いてルリさんを見つけ出し、どうルリさんの行動を止めるというのか。
「そっか。だったら、さ」
両手で僕の顔を動かし、アリシーに向けるよう固定させられた。そうしてアリシーは一度だけ微笑み、甘い言葉で僕に囁く。
「このまま全部忘れてさ、ずっとここにいようよ。リッキーは充分頑張ったから、もう無理しなくていいから」
「……あり、しー」
「良い提案だと思わない? ねぇリッキー。私ね、本当はやっちゃいけないことだって分かってたんだけど、メリーさんに聞いたんだ」
「……なにを」
「リッキーのこと。リッキーが私をどう思ってるか、聞いちゃった」
「……じゃあ」
「そうだよ、知ってる。私達、両想いだね」
そうだ。僕は、アリシーが好きだ。普通ならそれで良いはずで、アリシーも僕のことを想っているなら行動してしまえばいい。
――僕がそうしないのは。踏み込まないのは。
「そんなに寂しい顔しないで。うん、そっちも聞いたから。どうしてリッキーがそうなっちゃったのかは、メリーさんに教えて貰ったよ。リッキーは、いや……律樹は、私と同じくらい」
――ルリさんも好きだから。
ああ、やっぱりそうなんだ。ふとアリシーの右手に触れ、僕は涙を溢す。
僕の知らないことまで、メリーさんは的確に知ってしまっている。或いは僕がその事実から、目を背け続けていただけなのか。
どうして教えちゃうかなぁ。
ていうか……言えたんだね、アリシー。
「ここからは私だけが知ってる、私と貴方だけのお話。ちゃんと聞いてね」
そう締め括って、アリシーは僕からゆっくり手を離した。
すっかり意識だけを取り戻した僕は、未だにぐらつく視界を必死に抑えながらアリシーと目を合わせていた。
――すっかり冷えた頭は、頭痛だけを残して僕に現実を知らせる。
肌寒い空気の通る、窓の開いた薄暗い室内。アリシーは僕のために敷かれた布団から外れ、端でひっそりと毛布を被って寝ている。
リセルさんはいない、彼女は二階だっけか。
「……そっか、そうだよな」
アリシーに言われたのは、彼女自身から見たこれまでの日々だ。あれから先は酔いも酷くなっていて全部を記憶していたわけではないが、何を言わんとしているかは馬鹿な僕にも痛いほど理解ができた。
「以前から僕が誰かを色恋で追い掛けていることは何となく察知していて」
アリシーは、うっかり記憶喪失になっていた“リッキー”に恋をしたが、
「記憶を失う前の僕が、誰かを好きなことを知っていた」
最初は見守るだけで諦めるつもりだったが、それは僕が“あの日”酔っ払った時の出来事が原因でそうではなくなったという。
「でも、やっぱり僕が何をしたのかは教えてくれない」
アリシーは、変なことはされていないと答えてくれたが――。
「……僕は、何してんだ」
答えが出なかった一年前。あの頃の自分は自分で手一杯で何も考えられないとか思っていた。
そんなことはない。
よっぽどアリシーの方が苦労していたのだ。
常に僕の傍に居てくれた彼女は、常に僕を気に掛けていてくれた。
そんな彼女は、僕にこう言った。
「今日で終わりにしよう。私はリッキーが好きだけど律樹は好きじゃないから、この話はこれでおしまい。迷うことはないよ、貴方はリッキーじゃないから」
そう、僕は振られたのだ。
正確には僕の一部が、と付け加えれば――いや、言い訳はもういい。アリシーを好きだった僕は、アリシーに振られたんだ。
アリシーは、いつまで経っても決断できない僕を強制的に一つの道へ返したのだ。
ルリさんの元へ走らせるために。最初から考えていたことを、実行に移した。
これはただの妄想かもしれない。本当は僕に愛想が尽きたから別れを告げたかっただけなのかもしれないが。
僕は、本当の意味で最低な人間だった。
「最後まで自分で答えも出さず、全てを彼女に押し付ける人間か」
それが僕。
そりゃ振られるわけだ。愛想も尽かされるわけだ。
あれだけ一途に想ってくれていた女の子を蔑ろにし続けていたのだから、振られて当然の人間なんだ。
――僕を酔わせてからしか言えないほどに、彼女を追い詰めていたんだ。
「出るか」
布団を畳み、端に置いてから僕はおぼつかない足取りで寝室を後にする。最後にアリシーの寝顔を眺め、扉を閉めた。
この先どうするのか自分でも分かってはいなかったが、向かう先は外へ。綺麗に片された食卓や部屋を見渡しながら、アリシーの家から静かに出て行った。
涼しい風が身体を吹き抜ける。酔い醒ましには丁度いいが、少し寒い。
「うざったい」
全身に雷を通し、後遺症の症状を一時的に軽減する。ただでさえ酔っ払って歩き難いのにそんなことにまで気を遣ってはいられなかった。
どこへ行く?
外だ。この都市にいてもしょうがない。
外に出て何をする?
さあ。当初の目的が達成できるとは思わないが、アリシーがあそこまでしてくれたんだ。この体力が尽きるまではルリさんを捜そうじゃないか。あわよくばかつてクラスメイトだった人達を見つけ、アリシーの所在を教えてやるのもいい。
できることは少ない。だが、僕がのらりくらりと生活している間にも、時間は迫っている。もう三年と少しってところか。
世界や情勢に変化は見られない。まだ、誰もルリさんを見つけられていないはずだ。
そりゃそうか。
僕と出会う以前、それまで彼女は三姫から姿を隠し続けていたのだ。
行動したのは僕が現れてからだった。たった数年でルリさんを捕まえられるはずもないか。
「どこへ行くのですか」
丁度、都市の出口に差し掛かったところ。背後からリセルさんの声が聞こえ、僕は立ち止まった。
追い掛けて来ていたのか……全然気付かなかった。
「起きていたんですね」
「はい。私は皆さんのように眠る必要はありませんから」
桃色の長髪を夜風に流し、それまで細められていた眦が見開かれる。今まで一度も見たことがない、彼女の顔だ。
「律樹さん。どこへ行くおつもりですか?」
「……」
「荷物も持たず、別れも告げず。でも、もしも私が声を掛けなければ、律樹さんはそのまま去っていたでしょう。合っていますか?」
「……まあ、大体、合ってます」
気分転換などという嘘が通じる雰囲気ではなさそうだ。夜風は酔いに丁度良いが、わざわざ外に出ることはない。
「もしかして……僕が出て行くことを予想して、ここまで」
「はい。私もアリシーさんがああ言ってしまうとは予想外でした。ですので、私の独断です」
ずんずん歩いてきて、リセルさんは僕の右腕を肘から掴みとった。突然のことで固まっていた僕は、リセルさんって自分より身長高いかもしれないなどとどうでもいいことを思ってしまう。
なんだ。やっぱり打ち合わせはしてたのか。
「答えて下さい。どこへ行くんですか」
黄金の瞳が、一直線に僕を貫いて離さない。
「……どこかは、分からないですけど」
「エルリアさんを捜しに行くんですよね。どうして行ってしまうのですか?」
「……それは」
ルリさんを助ける。その目的は、胸の内にある。だけど今は、この都市に居たくないからとの思いが強いのが本音だった。自分勝手だけど、そうだ。
「私はエルリアさんを見たことがないのでよく分からないのですが、この際言ってしまいます。嫌です、そんな人のためにアリシーさんが犠牲になるのは駄目です。律樹さんには、アリシーさんが一緒にいてあげなければいけないって思ってます」
「……リセル、さん?」
「アリシーさんの言葉が全てだと思ってますか? 違います、アリシーさんは“鈴峰律樹”だとか“リッキー”だとか、一々分けてなどいませんよ。今ここにしかいない貴方だけを想っているんです」
聞きたくない。
だが腕を振り払おうにも、存外彼女の力が強くてほどけない。逆か、力が込められないだけか。
「……律樹さん。アリシーさんは、律樹さんが寝た後、こう言ってましたよ。“リッキーがエルリアって人を選んでも構わない、でも一人じゃ何もできなさそうだからこれから助けてあげなきゃ”って。口を出す気はありませんでしたが、もう見てられません。私は律樹さんを引っ叩いてでも行かせないつもりですから」
なるほど。妙にいつもと佇まいが違うのも、力が強いのも、彼女が本気だからだ。
「どうしていつも一人で行こうとするんですか?」
一人。それは、ずしりと心に響いた。
そうだ。
僕は、ルリさんを助けるのに誰かの力を借りようとはしていない。三姫やそれに関わるエステを懐柔しようと企んだことはあったが、それ以上は求めていない。
やろうとすれば、味方にして一緒にルリさん救出メンバーを集めることだって可能なはずだ。
一番に呼びたいのはランサーか? 彼は強い。下手したらエステより強いかもしれない。
でも呼ばない。
何故なら、僕の事情に付き合わせたら死んでしまうかもしれないから。
僕は誰よりもルリさんの強さを知ってる。三姫が規格外なのかを身に刻み込まれて生きている。
リベルが死んでしまって、今でも僕は後悔している。あの時雷が使えたら――リベルは死ななかったし、アリシーだって右腕を失うこともなかった。
だが、たらればじゃ駄目だ。
もう、誰にも死なせたくない。だから、この争いには誰も呼びたくない。
クラスメイト捜索を優先させているただって、本来その為だ。全てが終わったら、僕一人で片を付ける気でいたのだ。
ラプスとやらも――あれは僕の失敗だ。
「……ラプスって黒い女の力は見ましたか?」
生憎ぶっ倒した記憶はないんだけど。
「はい、この目で見ました」
「僕がこれから戦わなければならない連中は、それの倍は強いです」
「それがどうしたのですか?」
簡単に言ってくれるな。倍強いんだぞ。
「皆、死んじゃいますよ。それほどの相手なんです。だから誰かに助け――」
ぱちん。
「……え」
言葉が止まった。それだけ強く、本当に叩かれたのだ。ひりひりと痛む右の頬、鏡でも見れば立派な紅葉が生まれていそうだ。
「面白いことを言うんですね。律樹さん」
普段なら絶対にそんなことを言わないし、手も上げたりしないだろう彼女は、言う。
「前々から無茶をする人だとは分かっていましたが、間違いでした。律樹さんは無謀ですよ」
きっと、言わなかっただけなのだ。
「本当に助ける気があるのかも疑わしいです。勝ち目がないと知っているのに敢えて一人で遂行しようとするなど、何を考えているんですか。頼りの禁術も既にないのですよね?」
「僕は――」
「分かっています。律樹さんが私達を頼ってくれないのは、誰かが死んでしまうのを恐れているからなのですよね」
出会った時から今日に至るまで、ずっと。
不老不死という禁忌を持たされた彼女が一体何年生きていたのかは教えて貰ってはいなかったが、少なくとも僕よりかは遥かに永き時を過ごしているはずだ。
そんな人が、僕に言いたいことがなかったわけがない。
「ですが、律樹さんは最も大切なことを忘れているのではありませんか。同じように、私達も律樹さんが死んでしまうことを恐れているんですよ」
彼女は自分が死なない代わりに、他の誰かの死を知っているのだろうから。普通に死んでしまうような僕など、非ではない。
「以前にも似たようなこと言わなかったですか?」
「……はい」
「律樹さんがやろうとしていることは、自殺行為と一緒です。たとえ僅かな勝機を残しているのだとしても一人で立ち向かってはいけません。戻って下さい、私達に頼ることを覚えて下さい。頼られない方が、私は……嫌です」
ああ。嫌と来たか。一番、胸が痛くなる言葉だ。
――これではまるで、ルリさんに自分を頼れと言った僕じゃないか。
「リセル、さん。すみません、戻ります」
静かな都市の一画で行われた、夜空の下の一時。
酔っ払った一日の出来事であった。




