三話 忘却の幼女
「――忘却の幼女」
目を覚ますと同時、隣からとある一言が僕に向けて放たれた。
ええと。
色々と突っ込みたいことはあるのだが、まずは状況整理から始めよう。
――下に目をやれば、自分が刺された腹の部分が包帯で巻かれている。
鈍い痛みがあるものの、ひとまず助かったのだろう。
――さて。問題はここからだ。
なんだコレ。何が起きているんだ。
僕は今、ベッドに寝そべっている。
ここは学校の保健室で、無事お腹の傷は処置されて、全ては僕の意識のない間――つまりは神のみぞ知る時間に全ての救出の行程が終了し、安静にベッドで寝ていた。
これはオーケー。
で。僕の“右隣り”ですやすや寝ているのは、幼い寝顔――非常にぺったんこな胸に、異常に小さい背、高校生にあるまじき幼い容姿容貌持つ――即ち、幼女。
で。僕の左側には。
起伏に富んだ山と形容するしかないお胸をお持ちで、女性には珍しい高身長で、やはり高校生にはあるまじき容姿容貌の女性が座っていた。
どちらも面は抜群に整っている、これでは両手に華どころかお花畑だと言われても仕方ない状態だ。
でも勘違いをしないで頂きたい、こいつらは僕を殺そうとした人間なのだと。
美乳と微乳、妖女と幼女――どちらも綺麗で、中身はクレイジー。
これが仮想世界というか、アニメというか、二次元の世界でなら羨むべき光景なのだろうが、それを現実世界で経験している最中の僕はといえば、恐ろしくて堪らなかった。
何せ自分を殺害未遂した女が二人も両隣にいるのだ。
それも保健室のベッドである。
――ああ、そうだ。
左側の彼女が言っていたことをてっきりスルーしてしまっていた。
一応返事はしておこう。
「――忘却の幼女?」
たっぷり間を取って返した言葉は、ただのオウム返しである。
ちょっと間が空き過ぎた感もなくはないが、それについて彼女は突っ込んで来なかった。
「そうよ」
その代わり、彼女はただ肯定して頷いただけである。
いやいや、そんなことは分かってる。
『幼女』という単語が含まれている時点で、その言葉が誰のことを指して言っているのかは。
僕が言いたいのは、そういうことではない。
「で、それがどうしたんですか?」
ただただ意味不明で。
幼女が隣で寝ていること自体が僕にとってはわけの分からない事態だった。
半ば苛立ちを覚えていた僕は、左隣りの彼女にそこそこ強く当たってしまう。
「そんなにつんけんしないでよ。女の娘ってのは意外とデリケートなんだから」
「……すみません」
今のは少しばかり強い口調だったかもしれない。僕が悪いとは思わないが、一応謝っておこう。
「そうなる気持ちは分からなくもないけど、この娘には悪気がないんだよ、これっぽっちも。『忘却の幼女』――彼女はそういう『忌み』を持って今を生きているの」
悪気がない、ね。
だったら純粋無垢にナイフを振り回す人間って、一番危ないと思うのだけれど。
ところで――、
「『忌み』ってのは、何ですか?」
「そうね。そこからだね。彼女は、肉体と精神が成長しない“異常”を持ってこの世界に来たのよ」
切り出しは、その言葉から。
――忘却の幼女。本名はアレウルキッド・メリー。齢は十七だが、肉体と精神の年齢は十歳程度のまま止まり、「成長出来ない」とのこと。
彼女の肉体は成長が止まり、同時に精神の成長も止まっている。
だから、彼女は『忘却の幼女』と名付けられていた。
そんな彼女は、時が経つにつれて日々自分に劣等感を抱くようになっていった。どうして自分は他人より背が低いのか、何故自分だけこうも他とは違うのか。
――だが、時が経つごとに、生物の本能であり生理現象である『性欲』だけは順調に彼女を襲っていったのだ。
成長しないのだから性も身に付かないはずなのだが、何故か年相応に性欲が増してきた彼女には――それを抑えるだけの精神が足りなかった。
そして、その性欲を満たすだけの身体もなかった。幼き身体で男と交わるのは不可能で、もしできたとしても酷い激痛を伴うだけだった。
そんな日々が続いた結果、彼女は自分に失望し、絶望した挙げ句。
「自分を壊しに掛かったのよ。それが自傷行為の始まり。彼女は自分が嫌いで嫌いで、ことあるごとに自分を殺そうとしていた。そうして彼女は常時ナイフを所持していくようになって、今ではそれが欲のはけ口になっているのよ」
「そんなありえないことが――」
「おっと」
うっぷ。
と、正にぴったりの擬音を口に出してしまうんじゃないかというくらいの手際で口を塞がれた。
大人びた妖媚な表情を持ってして、彼女は僕の耳元に口を近付ける。
近い、一々近い。
「有り得ないなんて不確かな表現をこの世界で使うのは、ちょっと不適切なんじゃないかな」
「そうですね」
つい口に出てしまったが、彼女の言う通りではある。
少なくともこの世界においては“有り得ない”ことなんて確証は、ない。ここに在るのは、限りなく不完全で無秩序で“僕”の世界での言葉の意味での“有り得ない”な、ことだらけ。
僕が最近ここに顕現されたことですら、当たり前の。
「でも、有り得なくもない当然の異状だとしても、彼女には辛く悲しい忌みだから。……あ、君。そう言えば、今の今まで訊いてなかったけど、名前はなんて言うの?」
まだ僕の名前すら知らなかったのか。
てか僕も彼女の名前も知らないし、『忘却の幼女』とやらの名前を知ったのも今さっきだ。
「鈴峰律樹です」
「いい名前だね」
御世辞か本心かも分からない言葉を口にした桃色の唇は、たった今耳元から外れた。
大分エロい吐息が耳に吹き掛かってむず痒いのだけれど、美女にされるのは少し気持ち――僕はトチ狂ったのだろうか。
あぁ、いや。男の本能としては当然の反応だ。そういうことにしておこう。
「私はアウゼン=セラ。どうぞよろしくね」
「はい……――えっ?」
それは唐突の出来事だった。
呆けていた僕は、着いていけない状況と、頭を揺るがす甘い匂いにただただ困惑していた。
――抱き締められている。
僕が。
美女に。
殺人未遂の女の人に。
すぐにさっと離れたアウゼン=セラは、微笑んでから放心していた僕の両頬をぺちぺち叩いていたが、反応することもできずに遠くの壁を見つめていることしかできなかった。
「あれ? どうしたのー、ほんの挨拶だぞー」
「貴女にとっちゃこれは挨拶なんですね」
どうやら彼女は僕の世界で例えるとフレンドリーな外国人に似通った部分があるらしい。
いくら聖人君子で御釈迦様のような心を持ち合わせていた僕でも思わずドキッとして胸が高まってしまった。
貴重な経験だけど、驚きのあまり僕だけ完全に静止していたみたいだ。
まぁ、なんてことはない。ただの挨拶だった。
「話を戻すとね。彼女はいくら自傷しようとも、他者から傷つけられようとも、直ぐにその傷が治ってしまうのよ。彼女の忌みは、少女から肉塊や死体に変貌することですら叶わない、それほどに強力な枷だった。……ねぇ、律樹君」
「はい?」
真っ直ぐ見つめる彼女の碧色の瞳はとても真剣で。
如何にアレウルキッド・メリーを大切にしているのかが、ひしひしと伝わってきた。
「ちょっと乱暴で自分勝手なこともあるけど、メリーは本当は優しい娘なんだよ。ただ入学してきた貴方に色々と期待とかしてただけなんじゃないかな。だから、彼女のこと、許してあげてくれない?」
嫌に真剣な表情で伝える彼女を見て、僕は眉間に皺を止せて沈黙を生んでいた。
それは分かったよ。
だけど。
「いや、許しはしない」
そもそも本人が謝っていないのだ。
ここで流れに任せて無責任に彼女の行為を許してしまったら、いつまた僕が殺されるか分からない。
それに、彼女が行動した理由はよく分かるけど、強引過ぎる。
まあ。
「でも。許さないからといって、何も咎めないよ」
だから今回は特別で、特例だ。彼女だってそれなりの理由は持っていたのだし、セラさんは明らかにアレウルキッド・メリーに対して好意を持てない僕をどうにか鎮めようとしてくれたのだ。
結果として、僕に彼女の忌みと悪意がないことは知れた。
「あの娘が僕を殺害しようとしてナイフを振り回したんじゃないってのは、何となく分かりました。今回ばかりはそれでいいとして」
にしても挨拶の後にさようならとか言ってたけど、どういう意図で発したんだアレ。
――あれ? じゃあ、僕はなんで刺されたんだ。
「てことはセラさん。どうして僕は何も悪くないのに腹部を刺されたのかなぁ? 今の話の流れから察するに、僕が許されるような状況は一つもないですよねぇ。寧ろ僕が許してあげる方ですよね。お腹が痛いです、冗談抜きで」
「え? あ、あぁ……ううん、ちょっと、その……ねぇ? 大人には色々事情があるのよ」
今のは不意討ちだったか、異常にたじろいだ彼女はもじもじしながらそう言った。
……大人の事情、はて。
「セラさん子供ですよね」
「ごめんなさい! ホラ、彼女に傷を負わせたら――みたいなしきたりみたいなのがね、あってね、私もあそこまでいったら殺るしかないかなぁ、と」
コイツ。
「一刺ししますよ」
「え……一挿しだなんて律樹くん変態っ」
「変な意味に捉えないで下さい」
「全く保健室のベッドで女の娘に発する言葉とは思えないわ」
と。
この後も話を延々はぐらかされ続けた挙げ句、またいきなり抱き締められた。
そうやってはぐらかしていれば馬鹿な男は悪女の策略に嵌まってうっかり全てを許してしまうんだろうが、僕は違う。
甘い匂いと色々とヤバイ柔らかさに打ち勝って「しょうがないから彼女は“許し”ますけど、セラさん。貴女は許しませんからね」と釘を刺しておいた。
苦笑いしたセラは僕に抱きついたままごめんごめんとあまり謝る気のない謝罪を呟いている。可
笑しいな、これだとまるで僕が悪いみたいな構図だ。
けどそんな身の籠らない謝罪もすぐになくなった。丁度目を覚ましたメリーさんに気付いたセラさんが全てを誤魔化すようにして挨拶を放つ。
「あ、おはよう」
起きるや否や、意味不明な現状に驚いた忘却の幼女――アウレルキッド・メリーは僕とセラさんを交互に数回見て、驚きながら後ずさる。
でしょうね、それは正解の反応だよ、僕なら驚き退いてきっとベッドから落ちるけど。
というかいつまで抱きついてるんですかセラさん。
「お、お、おは……よう」
震えた声で挨拶を交わした幼女が一人、勝手に固まっていた。
まぁ、結局。いつまでも話が進まないまま僕達三人で仲良く教室に戻る結果となり、僕はアレウルキッド・メリーという不思議幼女とアウゼン=セラという傍若無人な美女に出逢うのでした……。
お腹痛い。