十八話 代償は可憐なる命②
肌に触れていた寒気が、一気に濃くなった。それとは違う、まるで真っ赤なドレスにでも身をやつしたかのような真紅のオーラが、グリーフを中心に展開された。空気が一変する。しかしルリさんは無表情を崩すことなく、静観を続けていた。僕はといえば、ちびりそうだ。いやいや只の表現であって本当にちびりはしないけど……。肌を這う恐ろしさに加えて、全身を突き刺す赤い憤怒。
「答えによっては、分かりますよね?」
血のような赤に混じって、深い青色の力が新たに顔を現した。哀しみを具現化したその力の塊は、僕を、ルリさんを呑み込んでなお増大する。メリーさんとはまた別の、絶対的な何かを垣間見た瞬間であった。先程まで感じていた恐ろしさはどうやら茶番に等しいものだったらしい。ルリさんが勝てないと言ったのも、決して謙遜ではないわけだ。
「生かされている身なのは、悔しいですが身に染みていますよ。ですが……」
「グリーフ、こっちに来てくれ」
ルリさんの言葉を遮り、手招きした竹内洋助にグリーフが反応した。彼に応対する場合に於いてのみ、刺すような気配が鎮まるのを身体が感覚的に理解した。
「説明をする時間は今は要らんだろう。俺の記憶を読んでくれ」
彼の隣まで歩を進めたグリーフは、右手の平を彼の額にくっ付けた。言葉を介する必要がないのか、何と便利な。むっと顔をしかめた彼女はゆっくりと手を降ろす。これってルリさんもできるのかな。
「はあ……。洋助、では二人を見逃すのですか?」
「ああ、すまない。今は逃がしてやってくれ」
一体彼の心境にどんな変化があったことやら。ルリさんが何をどんな風に吹き込んだのか僕に知る由はないが、もしかして僕らは無事何事もなく帰ることができるのかな。
「分かりました、他でもない洋助の頼み事なら聞きましょう。条件は、これでいいですね?」
条件。というのは、竹内洋助の記憶の中のことだろうか。想像するしかない僕は、勝手に予測を立てることしかできなかった。
彼が頷いた直後、部屋から悪辣な赤色も、青色も消失。見えない暴力から解放された僕は、安心しつつもぜぇぜぇ呼吸をして息を整える。
「鈴峰律樹さん、私と戦ってみて下さい。一撃でも、掠り傷でも付けられたのなら、この場は何も見なかったことにして差し上げますよ」
それまで放たれた全ての殺気が、僕に降り掛かった気がした。
「……え?」
僕が、戦う? 誰と? グリーフと。馬鹿な、傷付ける暇もなく、近寄る隙さえもなく、死ぬのは目に見えてる。
狼狽える僕に、再び力を露にしたグリーフが追撃を掛けた。地を這う深海の蒼に、疾走する紅蓮の紅が職員室中を駆けずり回る。
「先に言っておきますが。何もしてこないまま突っ立っているようならば、すぐにでも殺します」
彼女は本気だった。本気と言っても実力の全ては見せていないだろうが、だとしても。僕を蹂躙するには些かやり過ぎ、オーバーキルだ。
どうすりゃいいんだ。
「ちょっと待――」
まず会話を試みようと口を開いた瞬時、喋ることができなくなった。
「カ、ハッ……」
乾いた咳と、少量の血が吐き出される。腹の真ん中に正拳突きを受けたと気付いたのは、壁に叩き付けられた後だった。
「言ったでしょう。突っ立っていると殺しますよ、と」
次に僕が自分の状態を理解したのは、冷たい床にうつ伏せで倒れた時だった。
だが。……ああ、さっきまで壁に貼り付いてたのに、なんで。とはならなかった。もうコイツらの化け物能力は身に染みている。頭がじんじん痛むことから、僕の意識を掻い潜って頭部を床に落としたのだろう。
グリーフからすれば簡単だ。一瞬以下の時間で、一般人をいたぶるだなんてのは。
アドレナリン全開で、なのに小鹿のように震えた足で立ち上がった僕は、グリーフと相対した。
ルリさんは静観決め込んで端で黙っている。彼女が止めに入らないのであれば、これは全部“条件の内”ってこと。
つまり、僕が本当に死ぬことはない。その代わり、ただ死ぬよりも遥かに辛い痛みを延々受けることになる。言葉通り、僕がグリーフに傷を与えるまで。
「……戦えば、いい、んです……ね……」
拳を強く握って、構えた。
逃げちゃいけないんだろう? ルリさん。ここで逃げたら、僕はルリさんを裏切る事と同義だ。彼女は助けを求めれば助けてくれそうだけど、それじゃ意味ない。
「ええ」
正面から馬鹿正直に、真っ向から受ける彼女の圧力はそれはそれは凄まじい物だった。構えた拳が動かない。身構えた足が銅像になったみたいだ。
けれども。
「あああっ!」
情けない雄叫びを上げると、ただ前方に駆けた。逃げるわけにもいかないし、棒立ちもできない。足も止めないし、止めたらそこで終わり。無策で突貫仕掛けるのは明らかに死亡フラグを作成しているようなものだが、がむしゃらに突っ込むしかなかった。
もう少し考えれば何か良い手が浮かんだのかもしれないが、今はこれでいい。後悔するのは、全部終わってからだ。
すかっ。
振り抜いた拳は、見事に空を切った。恐ろしい笑みを浮かべたグリーフが視界の端に映って――隙だらけの横っ腹に、手心を加えた回し蹴りが直撃して吹っ飛ぶ。蹴り飛ばされたサッカーボールの如く飛ばされた身体は机に当たって勢いを止めたが、超痛い。これ骨折れたんじゃないの。
なんて無様な。滑稽にもフラフラな状態でまた立ち上がった僕は、気合いでグリーフを睨む。
「……く、そ」
荒唐無稽。そんな言い方が一番正しいと言わざるを得ない力の振る舞いをするグリーフに、舌打ち。どうしたらその痩身で美しい脚から人間を数メートル飛ばす力が発生するのか、とか。神速つまりは一瞬を超える速度で動けるのか、とか。ルリさんとエクサルの前例があるから何も言えないのだが、ずるい、としか思えなかった。
力を得るにあたってそれぞれが血の滲むような、骨が粉砕しても尚動き続けろと言われるような無理を重ねて得た物なのだろうが、それがどうした。ずるい物はずるい、僕の世界ではどれほど努力しても、そんな風にはなれなかったのだから。
努力してないんだけど。
体力も気力も、肉体その物に限界が訪れたか。膝をつきそうになった足を、両手で机を杖代わりに支えた僕は、ぐるぐる回転する思考を不思議に思った。
おや、何故だか今日は頭がよく回る。今に限ってだかどうかは分からないが、これが限界を迎えた超人の感覚というものなのだろうか。
唾を吐いてやりたい程に余裕綽々、といった風情で、悠々と傷だらけで必死の僕へ歩を進める彼女。
実はグリーフ、まだ「力」すら発揮してないのだ。そもそも彼女の本気すら見ていない僕が何を言ってるんだ状態だが、確かに、はっきりと言える。
彼女はまだ、“グリーフ”と発していない。多分、いや僕の予想でしかないのだが――恐らくは、メリーさんが本気を出す際に必ずエクサルと言う呪文みたいな決定事項。
あの何とも恥ずかしい行動を、グリーフはまだ行っていないのだ。だから多分とか、恐らくとか。曖昧なことしか言えないのだが。
まあ“多分”言うだろ。あまり敵を褒めてやりたくはないが、悔しくも認めざるを得ない――沈魚落雁、閉月羞花、唯一無二――そんな四字熟語を並べるだけ並べられるくらいの容姿の“悲哀”をまじまじ見つめて、垂れ流す。
ルリさんに負けじと劣らない、格を持ち合わせた彼女は、余裕というか僕を完全に舐めていた。
……と。いい策を思い付いた。
今さっき、僕は考えなしの特攻でいいとか抜かしてなかったか? まあ見付けてしまったのだからしょうがない。僕にも無理のない策だし、いっちょやるだけやってみるのも一つの手。
机の上から“両手”に手頃な物を掴んだ僕は、拳を握り締めてそれを覆い隠した。
彼女は戦力差のあまりに余裕をくれている。だからこそ通じそうな、ただ一つの策。最初に言っとくけれど、これから僕がする攻撃は“最低”極まりない行為だ。付け加えて、女に物を使うのは男として何もかも終わってる気もするが、相手は化け物。問題ない、大丈夫。
一気に全身へ力を送り込んで、僕は飛び出した。
そして左手に握った手頃な物――小さなペンみたいだった――を、本気で投げる。それは“見当外れ”の方向へ。グリーフの上を通過したのを見計らって、僕は「あっ」と呟く。
グリーフが眉をしかめるのも束の間、僕は右腕を大きく振りかぶった。さも当然と対応しようとした彼女は――。
悟ったように、後ろへ振り返った。
そうして彼女が視界に入れたそれ。細い。けれどもそこそこ重い。だから殺傷力はないが、傷は付けられる。そして、運良く尖った先端が“竹内洋助”へ一直線に向かっていた。僕が投げたペンだ。
唐突に僕の相手を止め、投擲されたペンを目にも止まらぬ速さで叩き落としたグリーフ。遅れを取りながらも、隙が生じた彼女へありったけの力を加えた右拳を――。
「――っ!」
腹部に強烈な衝撃が走って、僕は再度机へ身をぶつけることとなった。
「……ははっ」
しかし。笑った僕は、どこか満足しつつも標的へ視線を合わせ、“頬から血が出ている”彼女を認識する。瞬間、全身から力が抜けて、その場にぶっ倒れた。
「……やってくれましたね」
唖然としたグリーフは、深い溜め息を吐いた。頬にはほんの少しの掠り傷。からんと軽い音と共に、地面に弾けるもう一つの“ペン”。
そう。僕は決してグリーフを殴ろうとしたわけじゃなく――。右手に隠したペンを、ただ単純に投擲しただけなのだ。深傷を負ったのはそりゃまあ僕だけれども、条件通りに傷を付けてやった。
だからいい。こと勝負に関してだけは、僕の勝利だ。
漂う殺気が、霧散した。グリーフは感嘆しながら僕に背を見せる。
「エルリア・アヤクスィダント。予想違いでしたがいいでしょう、彼を連れて行きなさい。そして、きちんと“条件”は守ってくださいね」
……ああ、うん。これはマズイね。冷たくなっていく身体をどこか他人の感想のように述べる僕は、死んでいた。
心が、だ。お恥ずかしながら、ただ“グリーフ”の肌に秒で治るような傷を与えただけで満足してしまったのだ。
死人に口無しとは言うが、ありゃ違うね。口はあっても喋りたくないだけなんだ、疲れてるから。
「分かりました。それでは――あ、言い忘れてました。お二人さん、どうかお幸せに」
「……なっ?」
死人をおいてけぼりに、淡々とそれでいて嬉しそうに話すルリさん。
驚きつつも、嫌な素振りは見せていない竹内洋助。グリーフは、横で毒気のない笑みを晒している。
なんだ、彼らも普通に普通じゃないか……勘違いしていた自分が馬鹿らしい。
ふわり。
優しい匂いと柔らかさに抱えられた僕は、静かに意識を失った。
時は移り変わって、ルリさんの家。
さして少女らしい飾りもなく、まあ生活に必要最低限の家具を的確な位置に配置した簡素――よりは少し上の、まあよくある部屋。
僕は端のベッドに仰向けで転がり、風に揺られるカーテンを端に捉えながら天井で輝く明かりを眺めていた。開けた窓から入る風が、心地良い。
目を覚ました僕に、ルリさんからの声が届いた。
「起きましたか、律樹さん」
……あの柔らかい心地。僕は、ルリさんに抱えられてここまで連れて来られたのか。
「ああ、うん……ありがとう」
起き上がると、身体の節々が悲鳴を上げていた。
「痛むなら、まだ寝てても良いんですよ」
「大丈夫だよ、ルリさん」
流石に立てないが、上体を起こしたまま壁に寄り掛かった。痛みの感覚としては、重大なダメージは負ってなさそう。
できれば今の内に話しておきたい事柄もあるし、大人しく寝てもいられない。
「ルリさん。“条件”ってのは、何?」
気を失う直前、耳に入ったその言葉。条件を課されたのは僕だけではなかったのか……となると。
「私と竹内さんの間での会話です。彼は過去の戦争の背景をグリーフから聞いていたらしく、私のことも知っていたのですよ。つまり、エクサルとレイジ――彼女ら二人の危険を退けたら、肉体を解放する、と」
「……そうなるよなぁ」
異存はない。そうかもしれないとは思っていた。
「ルリさんは、彼女を信用できるの?」
グリーフの意思。あれが本当だったのなら、それでも文句は言えない。しかし、エクサルもレイジも居なくなった挙げ句ルリさんまでもが肉体を失ったならば、彼女の天下も同然なのだ。
僕的には、グリーフを百パーセント信用するのは止めた方がいいとは思うが……。
「半分と少しくらいは信じてます。ですが……私の知る彼女の性格では、とても条件通りに動いてくれるとは思えませんね」
まずまず、そんなところだろう。同意見だった。
「でも、彼女に従うしかないのが現状か。……グリーフの力はどの程度なの?」
となれば、グリーフを僕らだけで攻略できるようにならなければいけない。尤も、そんなことができればの話だが。
「はっきり言っていいですか?」
真剣な瞳で訴えてきたルリさんに、僕は静かに頷いた。
「エクサルより単純な力は弱いですが、その力の扱いに関してはとび抜けています。ですので、それらを総合評価するとエクサルより強いですね」
お先真っ暗だな。
出そうと思わなくても吐き出されそうになった溜め息を寸でのところで止めて、額に手を当てる。
暢気に溜め息を落としてだれている場合でもないのは確かだ。でも、どうしていいか分からない。頭が痛くなってきた。
「ねぇ、ルリさん」
悩んだ末。僕は、ルリさんの“力”について訊いてみることにした。
「曲がりなりにも、僕は一度エクサルやグリーフと戦ってるんだけどさ。彼女らとルリさんの力って根本的に違うよね、多分」
メリーさんもグリーフも、僕が体感したのは似たような恐怖と脅威だ。けれど、ルリさんのそれは他とは違った。“災厄”と呼ばれたその恐怖は文字通りに僕を恐怖の渦中に叩き込んだが、二人に比べるとてんで大した怖さではなかったのだ。それこそ、僕が彼女を担いで長距離移動できるくらいには。
思い返せば、彼女は禁術とやらの乱用により力をほぼ失った身だ。災厄の力が残っている方がおかしい。
「……ええ。気付いていたのですね」
目を丸くしたルリさんが大層驚いていた。どうやら、僕の考えは間違ってはいないようだ。
「ただの直感だよ。分かっているんじゃない」
ではこうか。メリーさんとグリーフの力の類いが“物語A”の概念だとする。そうすると、ルリさんのは“物語B”の概念になる、みたいな。
そんな考えに至ったのは、ルリさんが行った“重ね掛けの術式”がメリーさんにもグリーフにも見受けられなかった――ところにある。
弱ったルリさんでも使える技。宿主の肉体を借りても、そこまでの負荷を掛けずに使える技術だ。
もしかすると。
「僕も、少しでいいから戦力になりたい。もしもルリさんの“それ”が、練習を積み重ねれば僕にも多少は使える物であれば――教えてくれないか」
かつて誰もが抱く幻想のような“魔法”。今となってしまっては使えたところでこれっぽっちも嬉しくないが……。
「嫌です」
しかし、悲しそうに俯いた彼女に全力で否定されてしまった。
無理ですならまだしも、“嫌です”……? 僕は何か言ってはいけないことを口に出してしまったのか。
「私は律樹さんに戦って欲しくはありません。この力は……ええと、かなり頭を使うんです」
ルリさんにしては、やけに言葉に詰まっていた。こりゃ“なんか隠してんな”と眉をピクリと動かしたところ、ルリさんは僕の両肩をがっちり掴んできた。僕が痛みを発しない程度には手加減されているけど。
「……うっ」
正面。ルリさん――いいや宿主――実際のところどうなんだ――ともかく。彼女の目が、力強い黒目が僕を凝視する。
どうしたらいいのか分からないこの感じ。身体は別の人のなんだろ……? その事実を知っても尚、ここまで密着するのを許していいのか。
「律樹さんの世界の用語で説明すると、力の使用にあたってスーパーコンピューターと同じくらい頭を回転させなければいけないのですよ」
続けてこう言った。
「この力の術式は、術式自体が道具なのです。例えば戦車を頭の中で完璧に形にできますか? 外見だけではなく、内部もです。材質はどんな物を用いているのか、回線はどう作られているのか、重さは、機能は、と挙げるとキリがないので止めますが……作れませんよね?」
僕の頭がこんがらがり始めた頃、更にルリさんは続ける。
「律樹さんがイメージできるのは、精々機能性の少ない簡単な道具でしょう、それじゃ力としては弱いです。第一、私の扱う力はそのイメージした形に……“力”を注いて初めて現実で形になるのです。律樹さんにできますか?」
はい、できます。だなんて無責任な言葉は吐けなかった。
「いいや……ちょっと厳しいかもね」
素直に降参した僕は、表情でアピールした。さて、ルリさんって意外と分かりやすいんだな。
これはごく最近分かってきたことだけれど。ルリさんが僕に対する感情の起伏を顕著に現し始めてから、隠し事に関してちょくちょくボロを出すようになっていた。
力のない、もしくはほんの少ししか残っていないルリさんが、“力を注入”だなんてできるわけがないでしょ。最初に“無理”と言わずに“嫌”と言ったのは、メリーさんと戦った時みたいな負荷を僕には味わわせたくなかったからなのかい? そうなんだろうね。
ルリさんはこう、独りきりで問題を抱え込んで、それでも独りで解決してしまう性格だ。
抱え込み過ぎだよ。
「でさ。ルリさん、その力の源ってのはさ。ルリさんの“存在”とか言わないよね?」
彼女が一瞬だけ硬直した。なんだ、図星か。
何も難しい話じゃない。何かの漫画で、自分の存在やら精神力やら生命力やらを使用して発動する能力、ってのを見た記憶がある。そんな能力は本当にありそうだし、如何にも最終手段ってやつだよな。
特に精神体にまで堕ちたルリさんにとって、上記三つのどれを力に変換しても大変だ。でもルリさんなら有り得るし、やりそう。
だって。一人で全部抱えて、それこそ伝記に載る英雄みたいに自らが破滅する禁術を乱用してまで世界を救っちゃうお馬鹿なお人好しだ。
じゃあ、メリーさんとの戦いでは、瞬間移動で逃げられたであろう【ローンギング】のブレス。あれは、避けると莫大な土地が消え去るからやらなかったんだろうね。何故って、消え去ると消え去った分だけ、色んな世界から“埋め合わせ”が送られるから。彼女本人がやった魔法だ、彼女が一番理解しているし、未然に防ぎたかったに違いない。
だから無理をした。自分を“犠牲”にして。
「はぁ」
先程までは折角押し留めていた溜め息を、僕は全力で吐いた。そりゃもうわざとらしく。実に不愉快に。
僕はルリさんの右頬を軽くつねった。本気で摘まみ上げてやろうと思ったけど、それは宿主を痛め付けることになるのでできない。
「いい加減怒るよ? 馬鹿野郎が」
その分、想いは言葉に乗せて。いつの間にか、じわりと涙を目頭に溜め込んだルリさんに、僕は本気で怒りを露にした。
怒ったのはいつぶりだろうね。久しく訪れなかった気持ちに困惑しつつも、ルリさんに対する怒りは止まない。
「りつ……き、さん?」
「あのね。前々から思ってたんだけど、どうして一人で何でもやろうとしてるの? 取り柄が一つもない僕がこうして言うのも可笑しな話だけど、見てて苛々するよ」
ルリさんが泣いている。こんな稀有な光景、もう二度と見れないかもしれない。
「――僕はさ、俗に言う“英雄”ってのは割と好きな質なんだよ。僕のイメージした英雄ってのは、豪傑で、一人で何でも片付けてしまうような馬鹿で、周りが見えていて、優しくて……口に出せば褒め讃える意味での感嘆の意しか示せない、そういう雲の上の存在なんだけどさ」
引っ張っていた頬を離した。ぱちん、とか小気味良い音は鳴らなかった……鳴るわけないか。若干赤く腫れてしまっている頬を見て、僕はやっちまったと心の底で反省した。ごめんなさい宿主さん。
「それがルリさんなのだとしたら、僕はがっかりだ」
彼女は、今まで僕が出会ってきたどんな人達よりも馬鹿だ。変に自分に力がある分、人に頼らず自分でやってしまう。
僕を筆頭にした周りの有象無象が使えないばっかりに、今までそうやって生きてきたんだろう。結局は自分達が不甲斐ないから彼女は一人だったに相違ない。
これを言ってしまって、どんなに心を痛めることになっても。相手を深く傷付けることになっても、言わねばならない。今の内に考えを改めてさせておかないと、この先彼女は必ず潰れる。
「すぐ傍に頼れる人が居るのに、ソイツに頼らず独りよがりで頑張っちゃうし。絶望的な状況なのにも関わらず、一人で悩んで一人で考えて一人で立ち向かって一人で傷付いて――」
「私は……」
僕は彼女の言葉を遮った。
「一人で全部終わらせようとしている。そんな者が英雄なのだとしら、滑稽過ぎて笑えもしないよ。ルリさん」
これ以上、重荷を彼女ただ一人に背負わせるわけにはいかないんだ。僕とは次元が違うだなんて悠長なことは、もう抜かしていられない。
彼女は英雄でもなんでもなく。よく居る普通の女の子なのだから。
「貴女は英雄じゃないんだよ。人より少しだけ強いけど、僕と同じただの人間だ。隣には、その人間の僕がいる。もし、“僕が傷付くから何もさせたくない”のだとしたら心外だね。僕としては、これ以上ルリさんが傷付くのを見ていられない」
頭をそっと撫でた。またセクハラしてしまった僕だけど、今だけは許してくれよ。宿主さん。
「僕にもその傷、分けてくれないか」
正直、初めは不純な動機で関わっていた僕だ。どのようにして彼女が僕に好意を寄せてくれたのは分からないが、心を開いてくれてるのは確かだ。期待に答えてやりたい。
何より、これ以上“傍観者”であることが苦痛だったのだ。
「……私は少し、自惚れていたみたいですね。いつも気を付けていたつもりだったのですけれど……蓋を開ければ、只の大馬鹿者でした」
一滴。零れた涙を拭った彼女は、今までの全てを吹っ切ったかのように、朗らかに笑った。
「私の傷は少しばかり重いですが、半分ばかり背負っては頂けませんか? 律樹さん」
「勿論だよ、ルリさん」
ぽん、ぽん。彼女の頭を二回、軽く叩いた僕は、いくばくか痛む身体に鞭を打って立ち上がった。
「あっ、律樹さん。無理に立ち上がらないでください、まだ身体がよろしくはないのでしょう?」
うん、正直痛いよ。動きたくない。
「まあ、大丈夫。寝ちゃいられないよ、今すぐにでもできることから始めたい……」
「うん? あら、先程あれだけのことを豪語しておきながら、自分は人知れず無理をするんですか? 許しませんよ、そんなの」
「いや、でも少しは無理してでもやらないと遅過ぎる気がするというか」
「ボロボロの身体で私の特訓に付き合い切れると? 舐められたものですね。万全でもなければ身体もろくに動かせるか怪しい風体であっけらかんと新しい概念を覚えられると思ったら大間違いなのですよ」
あれ、ルリさんなんだかちょっと怖いよ。いつもより五割増しくらいで恐ろしさを感じる。
「あ、あははは……その通りだね。ごめん、気を付ける」
軽く意気消沈、僕は座り直した。
「ええ、そうして頂けると嬉しいですよ。もしもこれ以上言うようであれば、気絶させてしまうところでした」
「それ僕の怪我治らなくないかな!?」
「そうならないよう、今は大人しく寝てください」
なんと強引な。半ば強制的に横にさせられた僕は、全然眠くないけれど、彼女の言う通りに眠ることにした。
ぐぎゅる。
が。一先ずの安心感からか、唐突に腹が鳴り始めた。
「……あ」
配布所のことを、今更思い出した。
僕は何日間食事を採ってないんだろうか。今の今までそのことに気付けなかったのにも驚きだが、どんだけ切羽詰まってたんだ。仮にも三大欲求の一つだよ食欲は。
「何か作りましょうか?」
空腹を汲み取ったか、ルリさんが気を効かせてくれた。
「うん、何か頼むよ」
「では、日本料理を振る舞って差し上げましょう」
気効かせ過ぎだよ。と思ったが、お言葉に甘えることにしよう。
「それでは作ってきますので、しばらく休んでいてくださいね」
そう言い残して、彼女はキッチンへと向かっていった。本当に今更だけど、キッチンあるんだね。料理名分からないけど、日本料理作れる食材とかもあるのかな。
……さてさて、この先どうなることやら。




