芳乃と京子
お風呂から出ると、人の気配がなく、アレ?と思って大地と信長さんの部屋の前に行ってみる。部屋の前に行くと、隙間から明かりが漏れていることで部屋に人が居るのがすぐわかる。大地は部屋にいるようだが、信長の部屋は暗かった。一階かと思っておりてみると店内にも厨房にもいない。母について、お礼とか、何かしら話そうと思っていたのに。ちょっと出かけてるだけかと思いながら、店内でスマホをいじりながらなんとなく待つことにした。
ふと気づくと二時間が経ち、不安になった。信長さんの母を見てのあの動揺。昔二人に何があったのだろう。信長さんと母が出会ったとき、15年前の信長さんが15歳って言ってたっけ。え?15……?その時お母さんは何歳?25くらい?いやいやいや、ないでしょう。というか、まさか今二人は一緒にいる?
いやそんなバカな。母はもう40でその上再婚して出産までしたばかり。いくらなんでも……と思いながらスマホのゲームを起動する。ゲームをしながらも、あの二人、何年前に出会ったんだろう。と考えていたら、ふとあることを思い出して、ゲームをやめて検索を始めた。検索結果は--。
扉が開く気配がして、ハッと顔を起こした。辺りから日の光が射していることに気づいて、もう朝?と驚いた。あれからゲームをまた起動したり好きな芸能人のブログを巡回したりしていたら少し寝ていたようだ。スマホを握りしめたまま、人が来るであろう場所を見つめた。信長さんがヌッと現れて、私に気づいてビクッとしたようだった。
「あ、おかえりなさい。スマホゲームしてたら朝になっちゃった」
携帯ばかり見てたら目に悪いぞ、とか、夜更かしは身体に毒だぞ、なんて笑って言ってくれるかなと思ってたけど、信長さんは私を見たまま止まってしまっていた。
するといきなり信長さんがガクッとしゃがみこんだかと思ったら、私に土下座するような形になった。
「え?」
「すまない」
「ちょ、ちょっとやだ、何してんの?!」
私は信長さんを起き上がらせようとそばによった。信長さんに触れても、ビクともしないで下を向いて固まっているので困ってしまった。
「あのね」
固まっている信長さんをどうにかしようと、軽い感じで話してみる。
「昔さ、小学校のとき、名前の由来を調べるっていう宿題があったのね」
信長さんが顔を上げてくれた。私はスマホでさっき調べたページをもういっかい開きながら話す。
「それでお母さんに聞いたら『あんたのお父さんの最愛の人の名前』って言われたの。私、その時は全く意味がわからなくて。だってお父さんの最愛の人は普通お母さんでしょ? それが違うんだから、子どもながらに聞いちゃいけないことだったのかなーなんて思って結局宿題では画数が良かったからとか適当に答えたんだけどね」
私は検索結果が表示されたスマホを信長さんの目の前に出す。
「さっき、ふと思ったんだぁ。信長さんがお父さんだったら、って。そんなことありえないけど、そうだったら結構嬉しいかもとか思って。ホラ私ずっとお父さんいなかったし」
信長さんがまた下を向いてしまった。変なことを考える子だと、思われてるだろうか。私はスマホの画面を自分でまた見た。そこには<生駒吉乃>の名前がデカデカと表示されている。この人は織田信長の側室で、最愛の人と言われているという記述もある。
「てゆうかさ、この人"きつの"って読むんだよね。ここからきたっていうのはちょっと無理があるかな? こじつけすぎ?」
アハッと笑って信長さんの返事がもらえるかと思ってみたけど、信長さんは相変わらずうずくまったまま。
「信長さん?」
「多分、俺が貴女の父親だと思います」
かすれた声が、私の頭の中に響いた。やっぱりー?とか、マジでー?とか、こんな若くてカッコイイお父さん最高ーとか、明るく言おうと思ったけど、声が出なかった。信長さんにとっては、最悪の現実かもしれない、と思うと、なんだかクラクラしてきた。
「あ、ちょっと部屋で寝てこようかな。信長さんも部屋でちゃんと寝たほうがいいんじゃない? ……じゃあ」
ゆっくりとその場を離れ、二階の部屋へ行った。信長さんが何も言ってこないってことは、やっぱり私の存在は最悪の現実なのだろう。お母さん、どうしてこんな爆弾を落としていったの。ひどいよ。
ベッドに倒れこみ、目を瞑ったが眠ることなんてできなかった。そうだ、信長さんが困っているんだから、私はこんなとこにいてはいけない。消えてあげなくては。と、起き上がり荷造りを始めた。母に文句のひとつも言わなければいけないし。カートに必要なものを大体詰め込み、部屋から出た。
一階に降りるとボーッと突っ立ってる信長さんが荷物をいっぱい持っている私を見て目を大きく開いた。
「あの、出て行きます。信長さんは、いつも通りでいてください! 私誰にも言いません。ひどい奴だ! とも思いません。だから、ホント、気にしないでください」
「いや、そんな」
「母のとこに戻るだけですから。心配しないでください。家出少女が家に戻る気になったと思って、深く考えないでください!」
矢継ぎ早に喋り、信長さんの意見なんか言わせないようにして、そのまま裏口から出て行った。私が出て行き、ホッとしているかもしれない信長さんを想像しながら、駅へと足早に向かった。
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二十年前、高卒で社会に出て働き初めて二年。そこの会社の先輩に見初められ結婚した。二十歳で結婚して、相手の言うがまま寿退社。自由気ままな専業主婦ライフが送れると浮かれていたのも最初だけ。旦那は私が外に出て行くのを異常に嫌い、一日のほとんどを家の中で過ごしていた。それが最高の幸せなのだといつも言い聞かせられて私もバカみたいにこんなに私を大事に守ってくれる人他にはいない!って妄信してた。
そして付き合ってる時には少しあった身体の関係が、結婚して同じ家に住むようになった途端、ほぼなくなった。今思うと、旦那は私のことを妻でも女でも人間でもなくペットかなにかと思っていたんだと思う。ペットに変な気は起きないもんね。
そんな日々を過ごしていたある日「友達と遊びに行ってもいいかなー」なんて口に出したら、イキナリ旦那が殴りかかってきた。「ダメに決まってるだろわかりきってることを言うな」とか言って散々殴った後、外に出て行ってしまった。帰ってくると酒臭かったから飲みに行ったんだと気づいて「自分は外に飲みに行くんじゃない」とボソッと言ったらまた殴られ、滅多なことは言うもんじゃないと学んだ。
学んだはずなんだけど、その後は「今日ご飯は?」とか「今日お風呂は?」とか言うだけでも殴られるので、しょっちょう物騒な物音が住んでるマンションの自室からしてたんだと思う。
結婚してから五年経った頃、近所の人がどこかに通報したらしく、突然やってきた市役所の訪問なんたらとかって人に家から引きずり出された。正直その時はそんなことしたら私殺されちゃうーって思ったけど、市役所の人が大丈夫、大丈夫ですからとか何とか言いながらシェルターという名の仮設住宅のようなところに私を入れてくれた。
それからいろんな人が私のためにカウンセリングのようなことをしにきてくれて、私のあの生活がいかに異常だったかを認識することができた。
その中でも、菫さんという私のお母さんぐらいの年齢の人が優しくいろんな話をしてくれ、夫婦で菫堂という喫茶店をやってるのよと聞いて羨ましく思っていた。
ある夜、シェルターの隣の部屋の赤ちゃんがひどい夜泣きをしていて、寝れなくなったので散歩に出かけることにした。五年間、ほとんど家の中にいた私は夜の街がとても懐かしく、ついフラフラと遠くにきてしまっていた。赤信号で立ち止まり、戻ろうかな……と前を見たら、信号の向この道路を歩いている旦那を見つけた。旦那は私に気づいていないみたいだったけど、見つかったら一貫の終わり。そして今住んでいる場所も見つかっては大変だと思って、一目散にその場から反対方向に逃げて走った。走っているうちに、『菫堂』のことを思い出した。場所は、確か、駅の近くって言ってたっけ……あてずっぽうで走ったけど、どうやら神が味方してくれたようだ。菫堂の目の前に辿り着いた。
ガンガンガンガンガンと扉を叩いて周囲に気を配りながら誰かが出てくれるのを待った。すると間もなく店のドアが開いた。若い男の子が出てきた。
「ハッ、ハッ、助けて」
息を切らしながらその男の子に倒れ掛かると、男の子はビックリしながらも店へ引き入れてくれた。
「ちょっと、待っててください。呼んできますので」
男の子はその場から離れ、菫さんを連れて来てくれた。後ろには菫さんの旦那さんであろう人もきていた。
「鈴木さん?! どうしたの大丈夫?」
「旦那が……」
「お水、お水飲んで。ハイ」
別に旦那に見つかってはいないが、どこまでも旦那に見張られている気がしてしょうがなかった。私を心配した菫さんご夫婦が、しばらく家にいていいわよとおっしゃってくれた。
自分は一生このまま外に出ることはできないのかと落ち込みながら、菫さんのお宅にしばらくお邪魔していた。菫さんご夫婦は本当に仲が良く、時折まぶしかった。私には縁遠い世界だと思わざるを得なかった。
ある日、夢をみた。この菫堂を旦那が突き止めて、私を連れ戻そうとする夢だった。嫌だと反抗する私にキレた旦那は、菫堂の店内をメチャメチャに壊し始めた。
「やめて!!」
ハッと目覚めて、夢の中で叫んでいたと思った言葉が現実でも声を出してしまっていたと気づいた。あっ、と思っていると部屋のドアがノックされた。
「鈴木さん? 大丈夫ですか?」
この声は、菫さんの息子の信長君か。彼は今受験生で深夜遅くまで受験勉強をしている。悪いことをしてしまったなと思いながら、立ち上がりドアを開けた。
「大丈夫、夢を見ていただけ……」
相当やつれた顔をしていたのだろう、信長君は私を見てすごく心配そうな顔をしていた。でもその中に、私への好意も感じ取れた。その顔を見て、信長君を部屋へ引き入れてしまった。「えっ」と困惑する信長君に、抱き付いた。
色々理由はあった。五年も誰にも触れられなかったこととか、旦那に見つかる恐怖とか。その中で、こんな私を好きになってくれるなら何か返さなきゃとも思ったのかもしれない。
でも信長君に触れていくうち、このままではダメだという思いが強くなっていった。怖がっている場合ではない。私は一人で生きていける。まだ二十五歳、新しい人生を踏み出さなくちゃ、と。
日が上がる前に、私は菫堂を出た。優しくて、可愛い信長君の思い出を胸に刻み付けながら、遠くにいってやり直そうと思った。
嘘だと思われるかもしれないけど、その時妊娠しているような予感がしていた。ホントにデキてたら、名前は、信長君に関係する人の名前にしようとか妄想しながら、私は電車に乗り、未来を想像し続けた。