信長という男
俺の名前は菫信長29歳。
あと数時間で30の誕生日を迎える。名前の由来は父が「男の子なのに"菫"という女性っぽい名字ではかわいそうだ、強い名前にしてあげなければ」ということで戦国武将の織田信長からもらったそうだ。しかし優しい普通の両親に普通に育てられた一人っ子の俺自身はいたって普通の人間になっている、と思う。自分で言うのもなんだが見た目は人並み以上、身長も高く成長できた俺は、たまに周囲の妬みの原因になったりするので必要以上に人と接するときは"穏やか丁寧"を心掛けているのだが、それさえも「すかしやがって」と言われたりするので難しいものだ。
「ちょっと休憩しててくださいねー」
口から器具が抜かれ、担当していた歯科医と歯科助手がパタパタとそばから消え去った気配がした。今俺は親不知を抜きに歯医者の治療台に寝そべっている。乾いた口を潤すため舌で唇をなめる。「すぐ抜けますからー」と説明されていたが歯科医が思っていたより俺の親不知は頑丈なのか、随分時間がかかっている。その証拠に、俺の次の予約患者がもうきてしまっているのだろう、歯科医が今みたいに何度かいなくなる。長くかかっている抜歯時間中、いろんなことを考えてしまう。明日は俺の誕生日なのだが、一か月前母が亡くなった。葬式だなんだと慌ただしくしていると、奥の歯が痛みだし、なかなか痛みが引かなかったので歯医者にきてみたら、親不知抜きましょうということになった。
「口開けてくださーい」
歯科医が戻って来て手早く構えて言う。口を開けると、器具が入り込みギュイーと器具の音がする。歯を割っているんだろう。こんな奥の歯相手に何時間も、大変な仕事だな。
俺の今の仕事は文房具の商品開発で、入社して七年、大きな問題も起こさず順調だ。実家は二階建て一軒家の一階部分で夫婦で小さい喫茶店をやっていた。残された父は喫茶店のことも自分自身のことも、一人でやっていけるのだろうか。葬儀では大丈夫大丈夫と笑顔を見せてはいたが。そんな父の為にも俺も早く結婚するべきか。当然のことながら彼女はいる。俺が働いている会社の総務の今時の綺麗なお姉さん、という女性。もう付き合って三年。そう、三年か。きっと丁度いい時期だろう。結婚、結婚するか……
結婚という言葉を重く受け止めていると、口から器具が抜かれカタカタと片付ける音がした。
「閉じていいですよ。抜けましたー」
やっと終わった。とホッと一息ついて、口に綿をつめたり軽くゆすいだりした後、痛み止めの薬と抗生剤の説明を受け、金を払い受付を出た。説明の時「血行のよくなる行為はしないでください」と何度か言われたが歯科助手のお姉さんアレのことを言ってたんだろうかと少し顔がゆるんでしまった。しかし、六時に予約してもう八時。二時間もかかったのか。ここはおとなしく家に帰って早く寝ることにしよう。
麻酔が切れる前にと、コンビニ弁当を食べ、シャワーを浴びてテレビを見ながらのんびりしていると、唇がピリピリとしてきて、麻酔が徐々に切れて行く感覚のようだった。丁度0時になるところだな、と思っていると、携帯が鳴った。
これは彼女からの誕生日おめでとう電話かな?三年も経つのにちゃんと忘れないでいてくれるんだ、大切にしなきゃな、と携帯の画面に目をやると、知らないどこかの家電らしき番号からだった。こんな時間に誰だろう?と思いながら出てみると、中年女性の声がした。
「あっ、信長君?今ね、お父さんが病院に運ばれて、今……息を引き取ったの」
母の元へ、行ったのか。と心の中でつぶやいた。親不知を抜いた部分が、ズキズキと痛み始めた。
翌日、朝一で会社に行き上司がくるのを待った。上司が出社してきてすぐ、父のことを話した。
「そうか、大変だな。葬式は?」
「これから、実家に帰って色々と準備します」
「そうか、じゃあ俺から総務に連絡しとくから」
「あ、それで、実はこれを」
俺は辞表を出した。
「え?」
唖然として口を開けたままの上司に深々とお辞儀をして、すぐにその場から離れた。会社から出て、近くのチェーンの喫茶店に入った。昨日あの電話の後、彼女に『話があるから明日出社前に会社近くのトリーズにきて』とメールをしておいたのだ。既に彼女は来ていて、一番奥の席に座っていた。歩きながら店員に「コーヒー」と注文し、彼女の向かいに座った。彼女は小さく俺に手を振り、なんだか緊張しているようだった。
「何か頼んだ?」
「うんっ、私も今きたところ。カフェラテ頼んだ」
ウフフ、と彼女は上機嫌だ。そこに店員がやってきてカフェラテとコーヒーを置いた。コーヒーをすぐに一口飲んで、俺は深く息を吸った。
「あの」
「はいっ」
彼女はカップに伸ばしていた手を引っ込め背筋を伸ばした。
「俺、会社辞めたんだ」
沈黙が流れ、彼女が顔を傾ける。
「辞めた?って?」
「父親が死んだから、実家の喫茶店やろうと思ってる。急ですまないけど……」
彼女を見ると、顔を真っ赤にして口をへの字に曲げていた。これは……と思っていると彼女が付けていたネックレスを外しテーブルに置き、カフェラテのカップを俺の方に移動すると立ち上がり震えながら声を発した。
「バカにしないで。さようなら」
彼女は鞄を手にしコツコツとヒールの音を鳴らして去って行った。
俺は残されたテーブルの上を見つめた。ネックレスはいつかの誕生日に彼女にプレゼントしたものだった。カフェラテは俺にくれるのか?と不思議に思い見てみると、なるほどラテアートというやつか。『誕生日おめでとう』という文字がゆらゆらと揺れていた。
数日後、通夜も告別式も初七日も一通り終わって一段落ついた俺はつなぎを着て、いくつかのペンキ缶を置き、実家である喫茶店を眺めた。
入口の扉のフックに掛けられた『菫堂』の看板が風に揺れた。