2・馴初
五年前のことだった。
初めて「恋人」と呼べる人が出来た。名前は『円』という。
身長が百四十八センチメートルの小柄な娘で、賢くて機知に冨み、その癖物静かな、でしゃばらない女性だった。化粧気がほとんどなくて、服装も全然派手じゃなくて、ストレートの黒髪を切り揃える程度のヘアスタイルで、まるで質素を絵に描いたような女の子だった。
それでもというか、そうだからというのか、円はそこそこ男子に人気があったけれど、円の「女友達」という名の取り巻きが男子をブロックしていたし、円自身もそのことには無関心な感じだった。イケメン男子や成績トップの男子、キャンパスで一番人気の男子が、取り巻き達を押し退けてアタックしても、円の「ごめんなさい」の言葉に尽く玉砕していた。
元々奥手で、はっきりモノが言えない優柔不断な僕も、そんな円のことが好きだった。だけど、そんな取り巻き達を押し退けて、円に近づくことなんてとてもじゃないが出来なかった。大教室で円の後姿を見ることだけで、僕は充分に満足だった。
ところが、その円と付き合い始めたのは、全くの偶然だった……と思う。
僕が携帯電話ショップで、機種変更のためにモックアップを触って物色していた時だった。
「あれ? もしかして『守』クンじゃない?」
僕は、背中から女子に声を掛けられた。僕はビックリして振り返った。振り返って更にビックリした。そこに居たのは『円』だったからだ。
「やっぱり、守クンだったのね。何してるの?」
僕はドキマギして、シドロモドロになりながら答えた。
「え、あ、いや、あの、その、携帯電話をね、替えようって、思っててさ」
円は、にこやかに笑った。
「ふーん、そうなの。私も機種変更をしようと思って」
「そ、そうなの」
僕の身体は熱くなり、やたらと汗が出てきた。
「ねぇ、守クン、どれがいいのかな? 教えてくれない?」
円にそう問われたが、僕は既にまともに答えられなくなっていた。
「んー、あー、そうだなー、えーっと……わかんない」
僕は額から流れ落ちる汗を拭うのに精一杯だった。
「お店の人に訊いてみようよ」
円はそう言って、順番待ち用の番号札を取った。すると、直ぐに呼び出しコールがあった。
「二十五番のお客様、どうぞ」
円は番号札を確認してから僕の腕を取って言った。
「番号札が二十五番だわ。さ、カウンターに行きましょ」
円に腕を掴まれ引っ張られて、円と仲良く並んでカウンターの席に座った。
「機種変更をしたいんですけど、安くてお得なのはありませんか?」
流暢に喋る円に僕はタジタジになり、ただ座っているだけだった。
店員は、僕と円の顔を交互に見ながらニヤリとした。
「お二人とも、機種の変更をなさるんですね? 失礼ですが、お二人は恋人同士とか……ですよね?」
「えぇ、そんなような感じです」
円はほんの少し頬を赤くしてそう答えた。僕は既に顔から火が出ていたと思う。
そんな様子を知ってか知らずか、店員は販促資料ファイルをペラペラと捲り、あるページを開いた。
「これなんかはどうでしょう?」
店員が僕達に見せたのは『ペア・フォーン』だった。
「これだと、機種代金が二台買うよりも安いですし、お互いに掛ける通話料金はタダ、携帯電話の機能も新発売のそれと遜色はありませんよ」
「いいわね。これにしない?」
円は僕の顔を見てニコリと笑った。僕は心に決めていた機種があったのだけれど、全然言い出せる雰囲気ではなかったし、円の笑顔が眩しくてとても言えなかった。
「うん。いいね、それ」
僕がそう言った途端だった。
「これにします」と、速攻で答える円。
「ありがとうございます」と、速攻で頭を下げる店員。
更に畳み込むように円が店員に告げた。
「あたしは『赤』で、彼には『黒』をお願いします」
「承知しました」
そういうのが早いか、店員はバックヤードに引っ込み、直ぐに二つの箱を持って戻ってきた。
「それでは手続きをさせていただきます……」
「お揃いね」
「うん」
携帯電話ショップを出た僕と円は、新しい携帯電話を繁々と見詰めた。円の赤い電話、そして僕の黒い電話。色が違うだけの携帯電話を見せ合った。
「守クンの電話番号も分かったし、毎日電話してもタダなのね」
円は嬉しそうだった。
「電話してもいい?」
円に満面の笑みで問い掛けられて、ダメだとは言えなかった。
「いいよ」
円は携帯電話をプッシュしてから耳に当てた。間を置かずに僕の携帯電話の着信音が鳴った。
「はい」
僕は電話に出て、円からの直接の声と携帯電話から少し遅れて聞こえる円の声を聴き取った。
「守クンですか? 円です。今日はありがとう。また明日、電話します。じゃーねー」
それで通話が切れた。
僕はすぐに円の方を見た。
「バイバーイ」
そう言って、手を振りながら走り去っていく円。
僕も円の後姿に手を振った。