第一章 「旅立ち」 第十五話 「お菊の心」
「天眼 風をみる」
第一章 旅立ち
第十五話 「お菊の心」
しばらく百日紅を見ていたお菊の頬に一筋の涙が、すっと落ちた。
その時、お菊が何を考えていたのかは、お菊にしか判らない。
長利(さて、そろそろ、頃合かの・・・、) 「どうじゃ、お菊、町に行ってみんか」
不意に、長利がお菊に言った
お菊「え! ま、町にですか・・、」
お菊の顔に緊張が走る 当然と言えば、当然である
亭主を亡くし、 おまけに、あらぬ噂を立てられ、ある時は、子供に「鬼」と言われ、
石を投げられた事もある。
一年前の記憶が、まるで昨日の事のように、思い出された・・・。
お菊「ま、町には行きたくありません・・、 長利様、何故でございますか、今更・・・、」
お菊は、長利の屋敷で奉公するようになってから、ほとんど、
屋敷の外には出ていなかった。
屋敷で必要な食材や日用品などは、毎朝来る「御用聞き」の「はちべぇ」に言えば、
その日のお昼過ぎには持ってきてくれるのである。
長利「お菊よ、お主がわしの屋敷で働くようになってから、ほとんど、屋敷の中で
過ごして居ることは、わしも知っておる。 じゃが、そのままで、よいのか?
あの橋のたもとで聞いた話は、もちろん 覚えておる。 が、元々は、
根も葉もない噂じゃ、そんな噂を流した 町のみんなを見返してやりたいとは、思わんか」
お菊「それは、そう、思いますが、こんな私を見て、また、変な事を言われます・・。」
長利「お菊よ、そなたは気がついておらんようだが、この一年でお主は、
ずいぶん、変わったのだぞ」
お菊「え? 私が変わった?」
長利「うむ、そうじゃ、お主の立ち方、座り方、歩き方、話し方、その所作の総てが、
元の町人のそれとは、まったく違う、 わが、屋敷に来て、一年の間に、
お菊はまるで、武家の奥方のようになっておる。」
お菊「私が、武家の奥方様!」
長利「そうじゃ、そして、その「心」もじゃ、どんなに所作を覚えようとも、
その心が、しっかりとしておらねば、ただの「振り」でしかない。
お菊よ、初めの頃をよく、思い出してみよ、 そなたは、わしの屋敷に来て、
生まれ変わろうと思ったのではないか?」
お菊「確かに、そのように、考えていました どうせ、一度は、
死んだ人間と思っていましたから」
長利「その時から、お菊は、武家の女として、生まれ変わったのじゃ、
自信を持て、お菊よ、そして、その姿を、町のみんなに魅せてやれ。
どうじゃ、わしを信じれるか」
お菊「はい、私は、長利様なら信じる事が出来ます、
その長利様が一緒に行っていただけるのなら、参ります。
町に行ってみます」
長利「うむ、よう言った、 では、参ろう 町に・・、」
そう言うと、二人は春風に乗り、町に向かったのである。
今回、長利がお菊を連れだしたのは、これが狙いであった。
後、二日で旅立つ長利にとって、 残されたお菊が、 長利にはいささか、
心配であった 特に、屋敷からあまり 出たがらないお菊を見て、留守中、
何かあっても、 対処が出来ないのではないか?
十日に一度ぐらいの割合で、「龍気」に様子を見に来させるつもりではあったが、
「人」との繋がりを絶っている状態が、良い訳がない。
そこで、町の者にお菊を認めさせたい、 自然な関係をもたせたいと
考えていたのである。
もちろん、お菊自身が、「変わった」のも事実である。
今、着ている着物にしても、
長利の亡き母の「形見分け」の一品であり、長利の父が、「嫁にでも、着てもらえ」と、
渡された上物である。
薄い紺色を基調とし、白い鶴が上品に、しつらえてある。 長利には、その価値は
判らないし、わかるつもりも、なかったが、その辺の町人の娘が普通に着れる
品でない事は確かである。
だが、やはり、一番変わったのは、長利が言ったように、その「心」である。
お菊は、長利に仕えるようになってから、
「一生懸命に、この方のお世話をしたい そして、長利様に恥を掻かせない為にも、
色々と学ばなければならない」 そう、考えて仕えていた。
その「心」が武家の作法や志を学び、いつしか、
「己、自身」を高めていたのである。
町はずれに着いた、
長利「よいか、お菊 いつも通りに、歩くだけでよい、そして、わしの前を歩くのじゃ、
わしは、春風と共に、後から付いて行くでな、もし、影でこそこそ言うような者を
見かけたら、す~と、そちらに視線を向け、軽く微笑んでやれ、
あくまで自然にな、よいな」
お菊「はい、わかりました、長利様を信じて、歩きます」
この町は、先日、吾平が「笹団子」を三皿、食った町である。
町の中央には、大きな筋が通っていて、
「笹団子の茶店」は、 ちょうど、その筋の向こう側の町の入り口に建っている、
長利「よし、この筋をまっすぐ行くと、茶店があるから、そこで一休みして、
踵をかえして、ここに戻ってくるのじゃ、それで、よいな」
お菊「はい」
長利「うむ、では、参ろう」
お菊は、す~と、息を吸い、深く、ゆっくりと吐き出すと、すっと立ち、
町の筋の真ん中を歩き始めた、長利は、その後を春風と共に付いて行く。
この町で、長利の顔を知らぬ者はいない、四男坊とはいえ、この辺を領地
としている「小笠原家」の四男坊である。
また、長利の人格、品格も知れ渡っており、皆からも慕われていた。
その長利が、お菊の後ろから付いてくるのである。
お菊もまた、堂々と、それでいて、おしとやかに歩いていた、矛盾しているようだが、
そんな感じである。
長利の母の事を知らぬ者は、前を歩いているお菊の事を、長利の母君であると、
勘違いしたものさえいた。
前から来る、町人は、もちろん、武士でさえも、自然と両脇に流れ、
二人と一頭は、悠々と歩いた。
案の定、物陰で、ひそひそと話しをする輩がおり、長利に言われたように、
すっと、目配せして、軽く微笑むと、驚いたように、かしこまって、
ぺこぺこ、お辞儀をし始めた。
その様子を見て、お菊は、作り笑いではなく、本当に心の底から、
笑ってしまった。
お菊にとって、この瞬間、あれほど嫌がっていた町が、まったく、違う町に思えた。
程なく、茶店に着くと、長利が、「では、一服いたしましょう、奥方様、」と、
お菊に言うと、お菊は、「ぷっ」と噴出してしまった。
長利も、「ははは」と笑った。