第一章 「旅立ち」 第十三話 「穏やかな一日」
「天眼 風をみる」
第一章 旅立ち
第十三話 穏やかな一日
翌朝、長利は、魚を焼くにおいで、目覚めた。
長利(いつの間にか、朝になっているようじゃな・・、ん?
布団がかけてある お菊さんか・・、)
長利は、お勝手の方に向かうと、お菊は、味噌汁に入れる大根の葉を、
手際よく「ザクッ、ザクッ」と包丁で切っていた。
長利「おはよう、お菊さん」
お菊「あら、おはようございます よく、眠れましたか?」
長利「うむ、お菊さんのおかげで、風邪を引かずにすんだよ ありがとう」
お菊「いえいえ、遅くまで、行灯の火が洩れていたので、ひょっとしてと、思いましてね、
おかげさまで、長利様の愛らしい、寝顔を拝見する事が出来ました」
長利「こりゃ、まいったな・・、 ところで、魚は、大丈夫かい?」
お菊「おっと、いけません、もう少しで、焦がすところでした」
長利「ところで、お菊さん、飯は、済んだのかい?」
お菊「いえいえ、長利様の後に頂こうと、思っていましたので」
長利「それじゃ~、一緒に、食べないか、独りよりも、二人で食べた方が、美味しいからね」
お菊「え! 私とですか! 良いのですか?」
長利「もちろん、かまわんよ、それに、話もあるからね」
そう言うと、長利は、二人分の碗を並べ始めた・・。
お菊は、それを横目で見ながら、鍋に味噌を入れ、味見をして、
皿に焼きたての魚を並べた・・。
いつもは、「お膳」に一人分の料理を乗せて食べるのであるが、
せっかくであるからと、今日は、ちゃぶ台で食べようと 長利が言い、
お菊もそうしましょうと、賛同した。
武家社会では、上下の関係も厳しく、同じ部屋で座るのでも、決まりがある。
本来であれば、仕えているものと、同じ部屋で、 しかも、同じ卓で食事を
することなど、もってのほかである。
しかし、長利は形式や決まりごとなどが、嫌いでおよそ、「伝統」などと
言うものを守った例がない。 父からは、早く「元服」の儀を執り行えと言われていたが、
あの「小笠原流弓馬術礼法」の元服の儀は、独特な雰囲気があり、
それが、苦手であった。
ただ、長末には、その元服の姿を見せてやりたいと思っていた・・・。
食事の支度が整い、「では、いただきましょうか」と、お菊が言うと、
「うむ、いただこう」と長利が味噌汁から手をつけた。
長利「うむ、旨い、やっぱり、この味噌の塩梅がいいの~」
お菊「あら、ありがとうございます、でも、これ以上おかずは、増えませんよ」
長利「ははは、そうか、増えんか、ははは」
(こうして二人で食べていると、まるで夫婦のようだわ・・・、)
けっして、口には出せないが、お菊は内心想っていた。
そう、考えていたら、ふいに笑ってしまった。
長利「ん、? どうした、お菊さん」
お菊「いえ、何でもありません と、ところで、お話って何ですの?」
長利「うむ、そうじゃな、お菊さんがこの屋敷に来て、もう一年になるの、」
お菊「そうですね、あの橋のたもとでお会いしてからですからね・・・、」
長利「実はじゃな、わしは、旅に出ようと思っておる」
お菊「え! 旅ですか?」
長利「うむ、」
お菊「い、いつ頃の事のお話なのですか?」
長利「あと、二日後の事じゃ、」
お菊「後、二日! そんな! え! なんで! すぐ、お帰りになるのでしょう?」
お菊はあきらかに動揺している。
長利「うむ・・、三年程 帰らんつもりじゃ・・、」
お菊「さ、三年もですか! いったい、どこに行かれるのですか?」
長利「いや、行き先は、決まっておらぬ、色んな人に会い、色んな場所に行き、
沢山の事を学ぼうと思っておる」
お菊「そ、そうですか・・・、」
お菊は、もっと引き下がって聞こうと思ったが、長利の目を見たときに、それ以上の
事が聞けなかった、固い決意の目をしていたからである。
お菊「では、私は、お払い箱と言う事ですね・・・、」
長利「ん? なんでじゃ、」
お菊「だって、長利様が居ないのでは、私がここに居ても、意味がありませんから・・・、」
長利「いや、お菊さんは、今まで通り、この屋敷に居ておくれ、ほれ、
家は人が居ないと痛むというではないか、今まで通り、 朝は、
玄関の掃除から初めて、部屋を掃除して、庭の手入れをして、やる事は
沢山あるぞ、そして、わしが、いつ帰ってきても、良い様に、待っていておくれ。」
「待っていておくれ・・、」この最後の言葉を聞いたとき、お菊は、
随分前に忘れていた「恋心」を思い出していた
長利にしてみれば、普通の会話の流れで言っただけなのであるが、まだ、
この辺が 女心をわかっていない、若い証拠である。
と、同時に、お菊は、困惑していた。 ひと回り以上、年下であり、
もし前との旦那との間に子が居たら、自分の息子ぐらいの年である。
それに、身分も立場も違う、けっして、かなう事の無い恋である事は、
お菊自身が一番よく判っていた。お菊は、思い出した「恋心」を
心の奥深くに追いやった。
不意に、長利が言った、
長利「今日は、一日、のんびりするつもりじゃ、どうじゃ、後で、どこかに出かけぬか?」
お菊「え! 私とですか!」
長利「他に、誰がいるのじゃ、」
お菊の心の奥底に追いやった「恋心」は、早くも、這い出そうとしていた・・・。