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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ある晴れた日の楽しみ

作者: パスタ


とてもよく晴れている。

寒期の近い空はしんとして澄み、ただ一つの陽は余計な熱を与えた。

ウインは熱い息をこぼす事で、なんとかその熱をしのごうとしていた。

だがその呼吸さえも、大きな衝撃と共につぶされることになる。


―――ドンッ!!

背中に、熱い衝撃……

老人の小さな両手が、背中にくっきりとあるのを感じた。その瞬間に、前に向かって見事に吹き飛ばされていた。不用意な方向からの膨大な力で、受身も取れずに地面に叩き付けられる。それでも、勢いの付いたこの身体は止まらずに、地面を削って引きずられる。

「ぐ……っ!!」

この枯木のような老人の細腕で、自分のような倍以上ある体を、腕力だけで吹き飛ばせるわけがない。老人の掌双打は、腕力ではなかった。強大な“気”が、そこに練成されているのだ。表面を傷付けるような、浅はかな自分の技とはまるで違う。それは内側から、壊されていく感覚なのだ。

これがシャロワの、気の練成術……!!


武器を持たないシャロワ人の伝統武芸だ。

それをまともに背中で受けてしまった。地面に叩き付けられた痛みよりも、触れられた背中の痛みの方が、何倍も激しい。内側から、ずきずきと痛む。だが、手加減されているのはよく分かった。

この老人は、練成術の使い手でもあり、賢者という医者なのだ。人体のどこをどう壊せば、動けなくなるかなど、知り尽くしている。もし全力の掌双打だったならば、背中という急所を打たれて、自分などもうすでに生きてはいないだろう。それほどの決定的な失敗をしたのだ。後ろを取られるなど、死んでもおかしくはない。

―――だがそれでも、まだ動けるのだ。


手加減した以上、老師は必ず追い討ちをかけてくる。全身を打ち付けられてはいたものの、痛がっている暇などない。足を大きく振り回し、その反動で飛び起きた。そして……老師が前方から飛んできているのが見えた。しかしまだ、こっちの体勢は整っていない。

「くっ!!」

歯を食いしばったその瞬間に、老師の小柄な姿が、あっという間に掻き消えた。この老人は、瞬間移動するのだ。だが、もちろんシャロワ人だからといって、不思議な力があるわけではない。思いがけない方向へ、目にも止まらない速さで移動する事によって、消えたと見せかける。

――――どっちだ。上か、下か……?

目の前の土が、上へ向かって跳ね上がった。

――――上……? いや違う……!

わざと土を上へ跳ね上げ、跳んだと見せかけて……下に!

視線を下へ向けると、もうすでに老人の小柄な身体が、自分の懐に潜り込んでいた。

「ッ……!」

―――ぞっとした。

老いてなお殺気を失わないその双眸に、背筋が震える。自分の心臓の音が、耳元で鳴り響く……熱いはずの汗が、一瞬で冷えた。

老師の深い踏み込みと共に、気を練られた右の手の平が、自分の胸に突き出される。この手に、ほんの少しでも触れられたら、肋骨の一、二本が、あっけなく折れる。

とっさに左に身を翻してかわした。

その手をかわせたものの……シュランド流と同じ、“流れ”をしたのがいけなかった。小柄な老人の横へ跳び、隙を取ったのにも関わらず、つい長剣を持っているつもりで、間合いを離してしまった。長剣の間合いと素手では、決定的に距離が違う。剣など持っていないと、頭では分かっていても、身体はそう簡単に分かってくれない。この身に、深く染み着いているのだ。長剣の間合いが。

何も握っていないのに、この右手には、明らかに剣の感触が残っている。

「……!」

もちろん腕など届かない。

……ならば足だ。またとない機会を、逃してたまるものか。

無理やり体勢を崩しながら、右足を振り抜いた。


バシィッッ!!

派手な音がして、その足が上へ跳ね上がった。真横に振り抜いたはずの右足は、老師の流れるような腕で、空へ向かって跳ばされたのだ。足が空へ向かえば、当然頭が下になる。周りの風景が……一瞬で反転する。

とっさに右手を地面に突き、宙返りのようになる。空中で半身をひねり、老師に背を向けないように半回転して、地面に着地した。

それでも勢いはまだ止まらず、後ろ向きに、靴底が地面を削る。


だが、跳ね上げられた右足は痛くない。老師も気を練る暇がなかったのだ。

体勢を立て直すよりも早く、周囲に視線を走らせた。

……どこだ、どこにいる……!!

ほんの一瞬でも目を離せば、老師は消える。

ウインの目に捕らえられては不利になると、老師は知っているのだ。

ウインの手の平が……剣を欲して熱く疼いた。もし長剣を持っていれば、少しでも気配のした方向へ打ち付ければいい。しかし今は、何も持っていない。

―――この腕と、足だけだ。

もし不用意に手を出して、老師の巧みな腕に捕らえられてしまったら、もう抵抗する間もなく、あっさりと投げられてしまうだろう。下手をすれば、簡単に折られてしまう。

ただ武器がないだけで、手も足も出ないのだ。

いや、たとえ持っていたとしても、老師にかかっては同じ。

あっさりと、長剣も折られてしまうに違いない。

とにかく今は、丸腰なのだ。

姿が見えない以上、むこうの出方を待つしかない。


―――どこにも……いない……

この目に飛び込んでくる風景は、宿舎の裏庭……生い茂る背の低い植え込みだけだ。

諦めて、目を閉じた。

もとより、この老人相手で“目”などという、不確かなものに頼る方が間違いだ。

どうせ老師はいつも、人の裏をかくのが大好きなのだ。

この意地悪な老師の動き……

じっくり見極めて、などとやっていると気配すら読めないまま、やられてしまう。

目で捕捉できない以上、勘と予測……空気の流れで動きを判断するしかない。

そう……空気の、流れ……上にも、下にも、気配がない。

そうか……後ろだ!!

考えるよりも速く、右の肘を、真後ろへ向けて放っていた。

ウインの足元で、中心から外へ向かって砂が舞い広がった。

ガキン……!!

―――まるで、金属音。

固い壁に、肘を打ち付けたような、痺れる感触。

だがそこは壁ではない。老師が……気を練った両腕で、自分の肘の攻撃を完璧に防いでいた。激しい力がぶつかりあったのに、お互いに足元は少しも揺るぎはしなかった。

二人は、そのまま停止した。

――――しばらく静止して、睨み合った。


老人の枯れた声が、呆れたように聞こえてくる。

「ふ……なかなかやりおる……これを見破られたのは、久しぶりじゃわ。なぜ分かった、後ろだと……」

ウインは肘の痛みをこらえ、汗が吹き出すのを感じて、低く言った。

「なんとなく、ですよ。見えてはいません……あなたこそ、どうやって後ろに……?」

老人は、激しい目をウインに向けながら、ひょひょ……と笑った。

「おんしの脚は長いのう……これほど抜けやすい脚は初めてじゃわい」

「――――!」

まさか……股下を潜って……後ろに?

ウインは愕然とした。


まったく想像もつかないことだ。だから老師は、あっという間に消えてしまう。思いもよらない事を、瞬間でするから目が追い付いていかないのだ。

老人が、静かな声をつむぎ出す。

「どうする……? まだやるのかの?」

防御したままの両腕の中から、老人の金の瞳がじっとウインを見上げている。

つい、笑ってしまった。

―――ぞくぞく、する……

全身の血が沸き立ち、胸が震える。

自分より強い相手と立ち会えるのは、そう滅多にない。

今でさえ、この機会が奇跡に近い。

こんなに楽しい“遊び”を、もう終わらせてしまうのは、酷というものだ。

これ以外に娯楽などないというのに。

「お願いします……是非」

へりくだる言葉にも関わらず、語調は強くなってしまっていた。

身長が高いだけなのに、上から押さえ付けるような声になる。

老人の瞳が、ふっと笑った。

「若い獅子が……血に飢えておるわ」

しわがれた声が、低く響いた。

ウインも、知らずに微笑んでいた。


許しを得たと、勝手に解釈した。

いきなり腰を捻らせて、地面を擦るような低い蹴りを繰り出した。

当然、老師は跳ぶ。

ただそれが、後ろへ跳ぶか、自分を乗り越えて前へ跳ぶかだ。

普通の人間ならば、ただ真上へ跳ぶだけだろう。だがこの老人は違う。常に相手の読みを裏切り、嘲笑うように、思わぬ方向から攻撃が来る。だから自分の読みでは、このどちらかしかないと、思っていたのだ。

それなのに……老師はただ真上へ、跳んだだけだった。

そしてそのまま、空中で蹴りの体勢に入った。


な、に……!?

まさかそう来るとは思わなかった。

こうして……この老人は、ことごとく人の“読み”を外すのだ。

つい、舌打ちをしそうになった。

こっちは低い蹴りを出してしまったせいで、体勢が崩れている。

反撃が来ると知っていれば、こんな中途半端に攻めなかったものを……


その瞬間。

―――きんっ、と耳の奥が鳴った。

目を細めると、世界が閉じる。

背景が一瞬にして消え去り、老師しか見えなくなる。

そして、時間が止まる……

いや、実際に時が止まるわけではない。だがそれほどに、時間の流れは遅くなる。

恐ろしい速さの老師が、今は、はっきりと見える。

目を使う事を諦めたほどの、あの速さが、今となってはひどく遅い。


―――見事な、蹴りだ。

普通の蹴りは、軸足を地面で支えてから、腰を捻り、放つのが一般的だ。

それなのに老師は、空中で、何も支えるものがないのに、あっという間に蹴りの体勢に入る。小柄な身体を弓の様に反らし、全身で右脚を放ってくる。

……見惚れている場合ではなかった。

こんな風に目でこの世界を捕らえても、それでも老師の動きは、速い。

考える時間はあっても、自分とてこの速さでしか動けない。

これはまずい……と、ウインは冷静に思った。

姿勢が崩れているので、後ろへ逃げる事は、まず無理だろう。

ならば、前に出て受け止めるしかない。

そして受け止めた直後は、決定的な有効打が打てるはずだ。


思いっきり、軸足だけで地面を蹴った。

前へ向かって、左腕を防御に立てる。

惜しみなく気を練成させた老師の右足が、自分の左腕に食い込んだ。

バキィッ……!!

自分の骨が、折れる音を聞いた。

だが、もともと不自由な左手が砕けたところで、痛くも痒くもない。

それよりも……今しかないのだ。

こんなめぐり合わせも、そう滅多にない。

たかが左手一本で、反撃の機会を作れるなら、儲けたというものだ。

自分の左腕が、老師の脚で弾け跳んだ。


もう壊れている左腕など、どうでもいい。

思いっきり、右足を地面へ踏み込んだ。

本気で腰を入れて、利き腕である右の正拳が、老師を襲った。

ドンッッ……!!

足の踏み込みの音と共に、老師の小柄な身体が吹っ飛んだ。


―――無論、殺すつもりでやっている。

たとえ、まともに食らったとしても、この元気な老人が、自分の拳ごときで死ぬわけがない。そして老師もまた、まともに食らったわけでもなかった。

きっちりと小さな両手の手の平が、自分の右拳を捕らえ、防御していた。

それでも、その両手に気が練成されていれば、こうも見事に吹っ飛ぶはずがない。

老師としては、まさか腕を折られながらも、反撃が来るとは思わなかったのだ。

ウインはやっと“裏”をかく事ができた。


だが完璧に虚をついたのに、有効打にはならなかった。

身軽な老人は、空中で体勢を立て直して、地面に足を付けた。

それでも勢いは止まらず、スザザァッ……と後退し、砂埃を立てる。

やっと後退が止まると、老師はしかめっ面で、両腕を振った。

「っつ~……なんちゅう打ちじゃい」

「あなたこそ……」

ダラリと左腕が落ちてしまった。だが痛くはない。もともと左腕には、感覚がないのだ。

自分の身体の一部を捨てられるというのは便利なものがある。左手を囮にすることができる。医者である老師が相手だったのが幸いして、キレイに折れていた。

治れば今まで以上に骨は強くなるだろう。感謝したいくらいだ。


老師はたまらず叫んだ。

「ここまでじゃ! まったく、老体に鞭を入れおって」

ウインはすっと姿勢を正し、頭を下げた。

「ありがとうございました」

老人は忌々しそうに言った。

「もうお主に、どんな文句も付けようがないわ。あとは経験じゃ。無手での経験など、このセントールで積めるものではないが……」

「……」

ウインは、ほっとした反面、少し残念に思った。

もっとけなしてくれれば、また目標ができるものを……


老師は、はぁっと深い息を吐き出した。

「まったく、お前という奴は……たった一度しか教えんかった蹴りを……一人でそこまでものにするとは」

「いえ……時間はかかりましたが……」

すると老師は、ひょっひょっ……と陽気に笑った。そして目を伏せた。

「時間……時間か……普通ここまでの脚を持つようになるには十年はかかる。いや、一生かけてもできん奴は大勢おるわ。それを主は……ん? 教えたのはいつじゃったかの?」

ウインは真顔で言った。

「……忘れました」


本当はニ年前だ。老師の戯れで、二年前に初めて蹴りを教わった。それから一度も手合わせをしてくれていなかった。ずっと一人で、一度だけ習った蹴りを練習してきたのだ。

「まったく……その拳の打ちとてそうじゃ。我流とはいえ、見上げたものじゃな。基礎も教えた憶えはないというに。その腰の入れ方……一体どこで習ったんじゃい」

ウインは無表情に言った。

「申し上げにくいのですが……あなたです。老師」

老師は一瞬驚いた表情の後に、また顔をしわくちゃにして笑った。

「ひょひょひょっ……たった一度で盗みよったか……まったく恐ろしいわい」

ウインは軽く頭を下げた。

「恐れ入ります」


老師はひとしきり笑うと、じっと厳しい目をウインへ向けた。

「じゃが世の中は、お主の想像以上に広いぞ。いつかセントールを出た時に思い知るじゃろう。主以上の武才はそうおらぬが……同じくらいの奴らはゴロゴロしとるでな」

ウインは、ふっと微笑んだ。

老師は、思い上がるなと釘を刺したに違いない。

だがウインにとってはその言葉は嬉しい限りだった。

もちろん老師のように、自分より上の方が、勉強になるが……同じくらいが丁度いい。

その方が、楽しめる。


老師は、ため息混じりに言った。

「後は……肝心の気の練成じゃが……」

ウインは少し驚いてしまった。

「まさか、教えて下さるのですか?」

だが老師は意地悪そうに笑った。

「ひょひょひょ……絶対に教えんわ」

「……」

「お主なんぞに教えたら、あっという間に殺されるわい。わしゃ、まだ我が身がかわいいもんでな」

ウインは目を閉じて笑った。

「ご冗談を……」


老師はふっと真顔に戻って言った。

「……わしも昔は人を育てる事に、喜びを感じた時もあったが……だがお主は違う」

老師が、じっと静かにウインを見上げた。

金の瞳がウインを映す。和やかな老師の空気が、急に張り詰めた。

「破滅へ向かって歩み去る男に、何も教える気はない」

「―――……」

ウインは絶句してしまった。


老人は苦笑して、肩を竦めた。

「……ふ、その性根がもう少しまともになったら、考えんでもないがの」

……きっと、この人には何を隠しても無駄なのだろう。

そして、何を言っても教えてはくれないだろう。

私のような、“化け物”には。


「……ありがとうございました。老師……」

残念ながらに礼を言うと、老人はまた奇妙に笑った。

「ひょひょひょ……まぁいいわい。少しだけ手掛かりをくれてやるわ」

「手掛かり……ですか?」

ウインは少し首を傾げた。

「そうじゃ。気の練成は……“螺旋(らせん)”じゃ。これが全てで、他にない」

「螺旋……」

呆然として、口の中で呟く。

まるで、何かの謎かけのようだ。と思った。


「ひょっひょっひょっ……喋り過ぎたわ。では医務棟でその腕を診せてもらおうかの?」

ウインは少し苦笑した。

奇妙な感じがしたのだ。

折ったのも老師なら、治すのも老師。

つい笑ってしまっていた。

「……は。お願い致します」


END


じつはこの老師、誰彼構わず体術を教えていたりして……w

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